第百二十九話 集結する意志
仰向けで寝ていると肺に血が溜まって窒息しそうになる。
どうにかうつ伏せの体勢になって、肘をついて上半身を浮かせると、ゲロみたいな勢いで吐血した。喉が血みどろで気持ち悪い。猛烈にうがいしたい衝動に駆られる。
投げつけられた剣は腹に突き刺さったが、倒れた拍子に抜けてしまった。おかげで腹からも口からも血が止まらない。
魔犬の力を使い放題、なんて虫のいい話だったな。
三分間、自分の意思で大暴れしてみて初めてわかった。俺は魔犬の力をまったく引き出せていない。
師匠の言っていたことが今更になってわかった気がする。
『奥義を伝授した今、打法に関してお前に教えるべきことはもう何もない。家路への帰り道はすでに示した通り、様々な化物がお前の行く手を阻むだろう。お前はこの修行の日々で遥かに力を増した。油断せず冷静に対処すれば、大抵の化物は打破することができよう。
だが、過信はするなよ。この世界にはお前よりも小さな身体で俺よりも強い者もいる。そのような強者と出会った時はまずは逃げることを優先しろ。どうしても戦わざるを得ない時、絶体絶命の場合に限り“魔犬”の解放を許す。魔犬は強力無比だが、くれぐれも従えようなどとは考えるな。自然と同じだと思え。打ち勝とうとせず、適応しろ』
『適応』。師匠は確かにそう言った。
魔犬を解放したら自分の意識は肉体から離れる。少し離れた所から自分じゃない自分を俯瞰している。だからわかる。本当の魔犬はもっと速く、もっと強く、もっとむちゃくちゃだ。俺の意識や思考はむしろ足枷になって、魔犬本来の力を発揮できていない。
スピネさんから丸薬の説明を聞いた時、俺は「あわよくば」と思ってしまった。
魔犬を解放すればするほど、俺は俺じゃなくなっていく。でも、もし魔犬の力の人間のまま制御することができれば――なんて、欲張ってしまったのが最大の敗因だ。
闇大帝。
いつから現れたのか、なぜマーブルを狙っているのかはわからないけど、こいつがとんでもなく強いってことはよくわかった。ペインと同等か、それ以上か。俺には強さを押し量る術すらない。
でも、こいつはどんなに強くても……何としてもここで倒さなくちゃいけない。
なぜかはっきりと感じた。運命の本で新しい世界を創ろうとしているマーブルにとって、こいつは大きな障壁になる。
“乾坤一擲”は間違いなく効いた。倒す方法はあるんだ。問題は、どんなにダメージを与えてもすぐに体力を回復させてくることだ。そして簡単に大技を撃ってくる。一度攻撃に転じられたら防ぎきれない。
つまり、回復が追いつかないほどの速攻で仕留めなくちゃいけないってことだ。
だったら……魔犬を解放すれば、勝てる。
でも……この状態じゃあ……。
……くそ……やばい……。もう、意識が……飛びそうだ……。
剣より……あの爆発のダメージがでかい。……全身の骨がバラバラになったみたいな痛みだ……。
闇大帝が倒れているマーブルに触れようとする。
やめろ……くそ、声も出ない……。
「とうさん……」
朦朧とする意識の中で、雨が一滴落ちるような呟きが聞こえた。
その人物――アティスは、闇大帝の下に近付こうとしていた。
「ぼくが……やったんだ……。リデル……プリエルを……。とうさんから教わった、魔法で、ぼくが……」
「……ずいぶん汚れたな。曲がりなりにもインクの力を持つ者相手によく持ちこたえたものだ。だが、もう用はない。消えよ」
「え……な、何言ってるんだよ……」
アティスの声には明らかに動揺が含まれていた。
「……ああ。そうだ。お前の名はアティスだったな。もう一度だけ言おう。消えよ」
「……とう、さん……」
「ようやく手に入れた。運命の本。そして、リデル=プリエル。今必要なものは他にない」
「……ああ。そうだよね……」
「……いや。喜べ、アティス。仕事ができた。ここに現れるゴミ共を片付けろ」
……何だ?ここに誰かが来るのか?
その時、大きな鳥の影が空高く舞い上がった。影は一瞬で消えると、俺のすぐ側に着地した。そこに現れたのはジョットとスピネさんだった。
「無事か、犬房!」
「イッチくん!……良かった、まだ助けられそう。ジョットくん、ありがとうございます」
「礼には及びません。それに、我らをここに導いたのは彼のおかげですから」
ジョットの言葉に続くように、ゆっくりと上昇してきたのは――。
「デン……!」
「待たせたな、イッチ」
電気のエネルギーに身を包んだデンが浮上してきた。さらに、ジーニャと裏ゼイルーまでもがバチバチとスパーク音を立てながらデンの後に続いて現れた。
「ギリギリ間に合ったみたい!最高だよ、デン!」と、ジーニャが興奮気味に話す。
「ハッハー、電磁浮遊か!こいつぁいいや!やるじゃねえか、ネズ公!」
「お前……過去一失礼な呼び名だぞ!」
裏ゼイルーのヤジに怒るデンの様子に、俺は涙がこみ上げそうになった。
「良かった……!」
ふん、とデンが鼻を鳴らす。
「ようやくここまで来た。後はあいつらだけだ。あいつらを倒して、マーブルを連れて帰るぞ!」
デンのその言葉が、俺を奮い立たせた。
全身に電流を流されたように、俺の“スイッチ”が入った。
俺は力いっぱい、デンの言葉に応えた。
「おう!!」
魔犬――もう一度だけ、頼む。力を貸してくれ。
お前の足枷はもう何もないから。お前に全部任せるよ。
あいつを、みんなと一緒に倒してくれ。