第百二十八話 蛇足
“乾坤一擲”。
得物を両の手で握り、渾身の力を込めて打つ強振打法の奥義である。防御を捨て、闘気を練り上げて放つ覚悟の一撃は、魔犬の力を使うことで破壊力は爆発的に上昇した。丸薬の効果が切れる前に使用する最後の大技として、これ以上の選択肢はなかっただろう。
一方、闇の王が放った魔法は“時雨”。
刀剣、矢、斧、槍といった凶器の大群が降り注ぐ。空を埋め尽くすほどの夥しい武器、そのすべてが闇魔法で物質化したものだ。武器の生成、加工、増殖、対象者への推進力、いくつもの魔法をかけ合わせた複合魔法の一種だ。魔法使い千人分の魔力を要する大魔法も、彼にとっては造作もないことだった。相手を絶命する魔法は他にいくつもあるが、あえて反撃しやすい大技を放った意図は現時点で自分の力がどの程度のものか把握するためだろう。
腕試し程度に放った魔法。対するは、全身全霊の一撃。
軍配が上がったのはどちらか。
「ウオオオオォォォォ!!」
魔犬の気を込めた全力の一振り。その衝撃は波紋状に広がり、六千六百万にも及ぶ闇の武器をことごとく破砕した。
――まだだ!奴にこの攻撃を当てなきゃ負ける!
一撃必殺と称される“乾坤一擲”に追撃の概念は存在しない。技の直後は完全に無防備になることから、この技で相手を倒せなければ敗北を覚悟せよと師に教えられていた。追撃や防御の一切を鑑みない姿勢が一撃必殺たる所以だった。
しかし、その一撃が肝心の術者に届かない以上、イッチに残された勝機は追撃しかない。
理外の第二撃。
全力の一振りを、留めない。あえて振り切ることで全身を回転、軸となる足で、さらに跳躍する。魔犬の力で強化された筋力が全身のバランスを支えることに成功した。第一撃で得た回転力をそのまま第二撃へ費やす。
魔犬の力と師の技術を融合させた渾身の一撃が、闇大帝を捉えた。
最上階フロアの戦況は、未だ地下で戦闘を続けている実力者たちも把握していた。
カカッ、と裏ゼイルーが笑い声を上げる。
「あんにゃろ、やっと一撃ぶちかましたみてぇだなぁ。手こずりやがって」
「許されない……」
「あ~ん?」
「犬房一志……彼は一体何者ですか……?まだお目覚めになられて間もないとはいえ、我らが父の御業を打ち砕くとは……」
「アタシが知るかよ。化けモン憑きなんだろ。だからペインが試験官をアタシにしたんだろ。あのオッサン、得体の知れねえもんはいっつもアタシに回しやがる。まあおかげで退屈はしねえがよ……っつうか、退屈なのは今だけどな」
裏ゼイルーは不機嫌そうな表情で人差し指をロードヴィに向けた。ロードヴィのダメージは激しく、体力・魔力の残量は全快時の四割を下回っていた。
「てめぇ。ゼンゼン集中力足りてねぇよ。上ばっか気にしてハンパな攻防しやがって。このまま死ぬか?おい」
「こんなことがあっていいのか」
「あぁ?」
ロードヴィは両手で頭を抱え、蹲る。ひび割れた眼鏡が床に落ちる。その姿はまるで泣きじゃくる子どものように、時折かすかに嗚咽を漏らした。
「てめぇ……何笑ってやがる」
「うぅ……っく、くっ、くっ、くっ……」
ロードヴィはゆっくりと顔を上げると、涙を流しながら喜色満面の笑みが張り付いていた。
「うおっ、キモ悪!どういう表情だよ」
「お前が心底哀れだ」
「はぁ?今度は何を言い出しやがる」
「お前にはかけがえのない素養がある。我らが父の力を受け入れることのできる素養が。その身に余る光栄を理解できないのだろう。なんと勿体ないことか」
「ボケが」
裏ゼイルーが音を立てて唾を吐いたので、ロードヴィは眉根を寄せた。
「カンタンに信者に成り下がってんじゃねえよ」
「お前とて感じるだろう、あの偉大なる魔力の脈動を!同系統の魔力を持つ私たちにわからないはずがない。魔獣憑きとはいえ、たかが人間に……ああ、なんと贅沢なことか!」
最上階フロアの異変をロードヴィよりも数秒遅れて感知した裏ゼイルーは強く舌打ちした。
「やべえな」
「犬房一志は幸いである。全身全霊をもって味わうがいい。我らが父の、第二の御業を」
手応えはあった。現時点での最大最強の技は確実に炸裂した。
全身全霊の一撃。その代償はすぐに訪れた。
「うぐ……っ!」
魔犬の力が消えていくと同時に、両腕に急激な負荷がかかり、まったく動かせなくなった。当然、棍棒を持っていることもできない。握力の失われた指から棍棒の柄がこぼれる。黒縄の棍棒が地面に落ちた瞬間、ガラス細工のように砕け散った。
しかし、今のイッチには武器を失ったことを嘆く気力もない。両腕、特に右腕の損傷は激しく、赤黒く変色している。まるで神経回路がオーバーヒートしたかのような熱を持っていた。
「ぐ……ぎ、ぎ……」
かろうじて左手の指先を動かせるが、それだけだ。腕よりも数十秒遅れて足首にも激痛が訪れ、イッチはその場に倒れ込んだ。
やはり追撃のためにかかった負荷が大きすぎた。魔犬には多少のダメージを自然治癒で治してしまう特性があるが、ありったけの力をつぎ込んだおかげで自然治癒に必要な十数秒も維持できないほど体力・気力を消耗した。
マーブルはまだ生きている。ペインだって、あんなに強い奴が簡単に死ぬはずがない。ベリルはどうした。ベリルなら、きっともう二人を安全なところに運んでいるはずだ。
瓦礫を背に何とか起き上がり、周囲を確認する。
「ベリ、ル……」
声を張り上げようとしたが、大きな声が出ない。
「探し物はこれかな」
声と同時に、ドサッと目の前に何かが倒れてきた。
「――ベリル……」
「安心しろ。死体ではない。軽く小突いたのみ。我らの遊戯に茶々を入れようとしていたのでな」
闇大帝はすでに夜の闇から魔力の補給を完了していた。これにより、乾坤一擲によるダメージも魔力の消耗も、初めからなかったかのように全快していた。
「ふむ。魔犬は時間切れか。つまらぬ幕切れとなってしまったが……」
「ちょっと、待ってよ……」
「うん?命乞いかね」
「違う。俺は犬房一志。あんたは?一体、何者だよ……」
膝にも力が入らず、その場から落ちになる
「おお……これは失礼した。名乗りを上げる必要のない日々を過ごしてきたものでな。しかし我は名乗るべき名は持たぬ。我が大いなる魔力、その神髄に触れた者は我をこう呼ぶ。闇大帝と」
闇大帝は黒く細長い腕を前に出した。
「さて、少年。ここまでの健闘を称え、最後にもう一つだけ技を披露しよう」
腕の照準をイッチに合わせると、自身の視界から遮るように拳を作った。
「“焦握”」
不可視の爆発がイッチに命中した。
「――あ…が……」
何の予兆もなく発生した、煮えたぎるような痛みと熱。
イッチの意識が薄れゆく中、闇大帝は身体の砂埃を払いながら言った。
「なかなかの余興であったぞ。褒めて遣わす」
「まだ……だ……」
おい。待てよ。こっちを向け。
くそ、声が出ねえ。
まだだ。俺はまだやれる。
やめろ。マーブルに近付くな。
「……やめておけばよいものを」
闇大帝が振り返り、いつの間にか手にしていた剣を向ける。
「それ以上は単なる蛇足だ」
闇大帝はイッチに向かって剣を投げつけた。