第百二十七話 ハイ・ヴォルテージ
やれやれ。ようやく眼を開ける。
私の腹を刺していた剣を引っこ抜く。
この剣はメスのようなものだ。マーブルに取り込まれた私――運命の本を切除しようとしたのだろう。これが魔力で生成された剣ならばマーブルの黒に取り込むことは容易だったが、これは『別の本に描かれた剣』だ。わざわざ影の中に保存しておいたのだろう。さすがに『インク』の特性をよく理解している。
実際、あともう少しで私はマーブルから剝がされるところだった。あの少年、イッチさえ来なければ。
皮肉なものだ。闇大帝などという大層な呼び名をもらっても、本質は変わっていない。あの男は昔からそうだ。大事を成し遂げようとする時、あと一歩のところで邪魔が入る。復活しても間の悪さは健在のようだ。
そしてイッチ。彼の選択は概ね正しい。
マーブルが傷つけられた姿に激高はしたものの、命に別条がないことは気付いたはずだ。だからマーブルの無事を確認するよりも先に、自身は闇大帝に挑んだ。この男から目を切らしてはいけない、と魔犬の本能が告げたのだろう。もちろんイッチは知る由もない。自分が相対している者が何者なのか。どれほどの生物が畏怖する恐怖の象徴なのかを。
闇大帝を倒すには復活したての今しかない。賢者たちとの決戦で敗れ、長い間封印され肉体を失った闇大帝は、ペイン=ドロゥという至高の媒体を手に入れ、全盛期の力を取り戻そうとしている。
アティスとの衝突で消耗したマーブルを拘束できる程度の力は持っているが、一時的とはいえ魔犬の力を持つイッチは今の闇大帝にとって大きな障壁であるはずだった。
闇大帝が影の剣を向ける直前、イッチはその懐へ飛び込み蹴りを喰らわせた。
「うおおおぉぉぉおお!!」
地の底から湧き上がるような闘争心が吼える。
イッチは闇大帝を追撃しようと駆け寄る。スピードはあるが直線的な軌道だ。読みやすいことこの上ない、と闇大帝はイッチの軌道上に影の剣を突き出した。剣の切っ先がイッチの眼を抉る寸前、イッチは剣の下に潜り込むように体勢を低くし、半身を捻ると後ろ蹴りを繰り出した。
「――む……」
闇大帝は片膝をつくと、その顔面にイッチに膝蹴りが飛んでくる。
過去に修行で培った人間離れした膂力は今、魔犬の力を得て超人の域をも超えていた。息つく間も許さない猛攻は、約九十秒もの間途切れることなく闇大帝を捉え続けた。
選択は正しい。誤算があるとするならば。
くそっ、なんでだ!時間がないってのに!
丸薬の効果が切れたら、俺もベリルも確実にやられる。
こいつは今すぐ戦闘不能にしなければ!
でも――ダメだ、回復速度が速すぎる!いくら殴っても片っ端から傷が消えていく!
ペインのいる最上階フロアを襲撃した最大の理由が、これだ。
闇大帝は夜の闇を吸収する。闇の力で作られた肉体には、この上ない養分であった。
数分前までは使用できなかった特技だが、この短時間で闇大帝は自分の能力を徐々に解放しつつあった。
「馴染む。いいぞ。ようやく慣れてきた」
闇大帝が剣を構える。
「付き合いきれねぇな」
――もう時間もない。次で最後だ。最強最大の一撃をぶつけてやる。
イッチが棍棒を両手で強く握った。自身の全身全霊を込めるように。
使用者の腕が折れかねないほどのとてつもない衝撃を放つ。魔犬の力を借りなければ使用を許されない大技だ。
上半身を大きくひねり、棍棒に意識を集中させる。
「強振打法“乾坤一擲”」
闇大帝はかすかな笑みをこぼした。
「なかなか良い運動になったぞ。さて、これはどう捌く――“時雨”」
瞬間、天を覆い尽くすほどの数多の巨大な武器が、イッチの下に降り注いでくる。
轟雷のような魔犬の咆哮が響いた。