第百二十六話 魔犬再来
「鬼の角の使い道は二つ、武器の強化と禁薬の製造です」
地下に向かう前、スピネさんとの会話が頭をよぎった。
「犬房くんの持つ黒縄の棍棒は元々鬼が持っていた武器ですから、鬼の角を強化素材として使えばかなり強い武器になると思います。でも、今回はお勧めできません。なぜだかわかりますか?」
「俺が弱いから」
そう、忘れちゃいけない。俺は人間だ。この世界の住人ではない俺は魔法を使えない。神隠しに遭ったり修行したり魔犬の力を与えられたり、はては鬼と戦ったり、ずいぶんと浮世離れした体験はしてきたけれど、ほんの少し何かが掛け違っていたら簡単に命を失うようなかよわい存在に過ぎない。
「いくら武器が強くても使いこなせなきゃ意味がない。ペインとクロキたちが戦っている様子を目の当たりにしてよくわかった。腕力だけじゃどうしようもできない世界がな」
「正解です」とスピネさんが笑顔で人差し指を立てた。
「ロードヴィ『元』先生クラスの敵と戦うのなら、犬房くん自身のパワーアップが不可欠です。今すぐ戦える力が欲しいのなら、鬼の角を使用した禁薬を使うしかありません。私が保有している生薬と配合すれば、自分の潜在能力を一時的に解放する効力が期待できます。しかもその影響で自我を失うことはありません。先ほど伺った通り犬房くんが魔犬憑きならばその力が使えるようになるはず」
魔犬の力は最後の非常手段だ。このままじゃ死ぬ、という絶対的窮地にのみほんの少しだけ使うことを許された禁忌の力。
神隠しの件を除けばただの人間である俺が、そんな大それた力を制御できるはずもない。当然、師匠もそのことは織り込み済みだった。だから師匠は“条件付け”を行った。魔犬の力を発揮できるのは約40秒。それ以上の時間が過ぎると強制的に魔犬の力は解除される。
「魔犬憑きに関するデータはないので断定できませんが……魔人と同等の力を持つと仮定して、厳しめに見積もっても三分は保つでしょう。犬房くんは三分間、魔犬の力を使いたい放題です。どうです?」
質問の意図がわからず、俺はスピネさんの顔を見た。
「それなら勝てそうですか?」
「あ、はい。たぶん」
「すごい自信だね。魔犬憑きってそんなに強いの?」
ジーニャが俺とスピネさんの間から訊いてきた。
「強いなんてもんじゃない。めちゃくちゃだ。そんな力を自分の思う通りに使えるのか、ほとほと心配だけどな……」
不安はそれだけじゃなかった。魔犬の力を使うと、しばらくの間神隠しがうまく使えなくなるようだ。発動の条件さえ満たせばおそらく神隠しという現象自体は発生するが、時間軸がずれてしまう可能性がある。この世界に戻る前、過去の我が家に戻った時に気付いたことだ。理屈は分からないけど感覚で分かる。魔犬の力が神隠しを歪めている。
「それでもやるしかない。今の俺の力じゃあ最上階フロアに行ったところで何もできずに終わる。マーブルたちに助けが必要なら、魔犬の力が絶対に必要だ」
そして俺はスピネさんの指示通りすりこぎ棒に目一杯の力を入れて“鬼の角”を砕いた。
そうして調合された赤黒い丸薬“鬼導丸”が、今、俺の体内で溶けてゆく。
その感覚ははっきりと分かった。丸薬の成分が血中に混ざり、濁流の如く流れていく。心臓が燃え、ありとあらゆる神経細胞に異様な力が伝達され、全身が打ち震える。
鼻、耳、目、感覚が急激に研ぎ澄まされていく。
感覚とは対照的に、意識は暗い海へと沈んでいく。どれだけ手を伸ばしても、みるみるうちに光は遠ざかっていく。遥か頭上から、自分を呼ぶ声が聞こえる気がした。たぶん、ベリルの声だ。何かを叫んでいる。その内容まではわからない。
暗く冷たい海の底まで意識が沈もうとした時、さらに下に空間が伸びていく。意識体がゆるやかに下降していく。次第に、赤黒く燃える太陽のような巨大な火球が浮かぶ空間に辿り着いた。海の底よりもまた更に底の空間は、まるで灼熱地獄。
口を開けると喉が焼けるような意識の世界に、魔犬はいた。巨大な檻の中に悠然と佇む魔犬。
俺は檻に手を伸ばした。
そこで、俺の意識は現実に戻った。
ほんの一秒か二秒か、一呼吸よりも短い時間での出来事だったけど、ベリルはすでに手を打っていた。
「“玉陽”」
大砲から光の球を連発し、闇に包まれていた周囲を明るく照らした。
それでも敵の姿はすぐには見えなかったが、魔犬の嗅覚が敵の位置を知らせてくれた。
「そこか」
明るく照らされる直前、大きな影が素早く動いた。
影めがけて真っすぐ飛ぶように意識を集中させ、地面を蹴った。人間には到底不可能な凄まじい跳躍力とスピードで影へと迫る。
「魔導士のひよっ子と魔犬憑き、か」
大きな影が言葉を発すると、人型へと変形する。
やがてそこから姿を現した男は、ペインに似て非なる者。
「余興の相手としてはいささか退屈であるが、それもまた一興か」
謎の男は影を圧縮すると剣を作り出した。