第百二十二話 刹那
ルテティエの地より遙か北東に白夜の森と呼ばれる場所がある。陽が沈む頃には氷点下八十度にも達する極寒の地はあらゆる生命活動を許さない。その森の深奥にペイン=ドロゥは生まれた。その出産はペイン一族の者にさえ知られることなく極秘裏に行われた。
ドロゥは生まれてすぐに両親から離され、名家に養子として引き取られる。己の出生に何の疑問も抱かずに生活できたのは、五歳の頃までだった。
ある時、何の前兆もなくドロゥは倒れる。高熱、頭痛、嘔吐、そして全身の骨を啄まれるような激痛。どんな名医もこれらの症状を和らげることさえできなかった。ある医者が頭を抱えて呟く。まるで呪いだと。ドロゥはこの時初めて自身を蝕む呪いを自覚した。
その日の夜、まるで答え合わせをするかのように、呪いそのものがドロゥに語りかけてきた。資格無き者が歴史を改変しようとした罪。その罰から逃れようとした罪。ペイン一族の人生を縛り続けた決して断ち切れない鎖。その宿業を幼いドロゥは知らされた。
まるで映画を観ているような長い夢から覚めると、呪いの症状はぴたりと治まった。
しかし、呪われた人生の幕開けはここからだった。
運命の本に大勢の人間が引き寄せられるように、本に呪われた者もまた多くの魔性を引き寄せる。どれほど高名な呪術師でも再現できない古の呪いは、力を求める者にとってはどうしようもなく魅力的に映った。ドロゥが呪いに苦しんでいる間に、数多の呪術師や妖魔がすぐ側まで迫っていた。
呪いの症状が治まった四日目の朝、ドロゥの日常は一変する。見たことのない怪物が群れを成して自分に襲いかかってくる。素養はあったものの戦う術を身に付けていなかった五歳の少年には逃走以外の選択肢はなかった。
それから一年が経とうとした時、いつものように生ごみを漁っていると、古びた魔術書を手に入れた。そこには『名前のない悪魔』が封じ込められていた。のちに架空の悪魔と名乗り、契約者にしか認識できない悪魔は、ドロゥに契約を持ちかけた。
『ここから出してくれるならお前を助けてやる』
『じゃあ僕の呪いを解いてくれ』
『それだけは無理だ。本の呪いの力は本でしか解けない。でも、おれがお前と契約してやれば、呪いの力を戦う力に変えてやる』
ドロゥは町の図書館から数冊の本を盗み、封印式の解除方法を習得した。そして架空の悪魔と契約したドロゥは大いなる力を手にした。それから、逃走の日々は闘争の日々へと変わった。呪いの強大な力と架空の悪魔との出会い、そして夥しいほどの戦歴が、やがて賢者をも凌ぐ実力を積み上げていった。
ドロゥは成長する過程で幾度もの呪いに苦しめられた。家族や友人を作らず、孤独に死ねば決着がつくのではと考えた時期もあったが、呪いはそれを許さないのだと知った。ペイン一族の運命はすでに本に書き込まれている。家族を作らなくても別の者に呪いは伝染し、その苦しみは末代まで続く。
なんという人生だと何度も悲観した。自分は何のために生まれてきたのか。なぜ両親は自分の出生を隠したのか。なぜ自分に何も教えることなく自分を手放したのか。年を経るごとに疑問が増えていく。ふとした時に疑問は憎悪へと変わろうとしていく。
パステ=レットと出会ったのはそんな時だった。親しい関係性を執拗に拒んだドロゥがなぜ彼女と恋人関係になったのか。二人の間に何があったのかは、この世界で二人しか知らない。
ともかくパステ=レットがドロゥに生きる意味を与えた。卑下や憎悪ではなく、単なる事実として自分は両親に捨てられたと思っていたが、何の関係もないはずのパステはあっけなく否定した。あなたのご両親は、あなたに普通に生きてほしかったんだと思う、と。
確かに一族の子として生まれ育っていれば、あるいは今まで以上に過酷な生活を強いられていたかもしれない。何百年もの歴史を持つ呪術師の一族。善良な一市民だったはずの一族は呪われ、呪いに魅入られ、自らが呪うようになっていった。
ペイン一族の記録によると、遠い先祖は美術館に勤めていて、運命の本に呪われた人間からある筆を託されて呪いが伝染したとあった。つまり、本来ペイン一族は呪いの外側にいた存在だったのだ。にも関わらず、今の当主は運命の本を憎むどころか呪いの祖として崇めている。完全に脳細胞まで呪われてしまったとしか思えない愚行の数々。
だが、そこで生まれ育つ過酷な運命を背負った幼子には何の罪もない。これから生まれてくる命も、一族以外の人間の命も等しく尊いものだ。そんな当たり前のことをパステが気付かせてくれたとドロゥは今も信じている。
歪められた運命の歯車を正常に戻す。呪われた運命を破壊することこそが、自分の生きる意味だと知った。
突如現れた黒いマーブルと、アティスの衝突。マーブルには魔力がなく、戦況の判断がつかない。
一刻も早くウェルマクスを解放して戦線復帰しなければ。
彼女は運命の本に描くことができる有資格者。長年探し求めていた逸材。こんなところで奪われるわけにはいかない。何としてもこの場を制圧する。
ドロゥは周囲に散った魔力を集束し、空中に浮かぶ闇の鎧へと放った。魔力弾は命中し、その衝撃で闇の鎧は落下した。
「ウェル、戻れ」
鎧に触れようとした時、鎧の隙間から黒い手が伸びた。
その手は、ドロゥの胸部を貫いた。
「ここまでご苦労だったな、ペイン=ドロゥ」
「ウェル…!?い、いや……貴様は……ち、違う…!ありえない……」
ドロゥが激しく吐血する。
「嘘をついてすまなかったな。架空の悪魔など最初から存在しない。いたのは貴殿の頭の中だけである」
闇大帝……!?
馬鹿な!!今日までずっと私の側にいたのか!?気付かないはずがない!!
「貴殿との契約は終了だが……貴殿には本当に世話になった。その礼と言っては何だが、その呪い。我が引き取ってしんぜよう。何、苦痛は一瞬である」
そこでペイン=ドロゥが見たのは。
呪いに彩られた人生。苦痛。殺意。憎悪。出会い。笑顔。笑顔。笑顔。
心臓を引き抜かれるまでの数瞬。
なぜか。思い出すのは君の笑顔ばかりだった。
「眠れ。我が友よ」