第百二十話 名もなき獣
ゼイルーには決して思い出してはいけない過去がある。
それは十年前にペイン=ドロゥと出会う以前の出来事。闇の帝王の「器」として育てられた名もなき獣の物語だ。
悪魔が仕組んだ計略か、神の気まぐれか。ゼイルーは生まれて一ヵ月も経たないうちに両親を失い、劣悪な環境の孤児院に引き取られることとなる。言葉もろくに覚えさせられぬまま家畜同然の日々を六年過ごした。
ある時、ディクトと名乗る男が孤児院を訪れた。ディクトは院長に用件を伝えると、品定めをするように子どもたちを一人ずつ観察した。一通り観察を終えると、九人の子を指名して連れ帰った。この時、最初に指名されたのがゼイルーである。この瞬間までゼイルーは自身の名前さえ知らなかったが、ディクトは落ち着き払った口調で名前の意味を説明した。
ディクトは子どもたちを根城に連れ帰るまで、極めて理知的で紳士的な態度で接していた。子どもたちが空腹でいることを察すると、栄養の豊富な温かい料理をご馳走した。また、同年代の子どもであれば喜ぶであろうおもちゃをたくさん買い与えた。
子どもたちにとって大人は、些細なことで声を荒げ暴力を振るう恐怖の対象でしかなかったが、ディクトは生まれて初めて出会う優しい大人だった。ゼイルーも他の子どもたちと同様に、ディクトのことをすぐに好きになった。ディクトの正体は闇の帝王の僕であり、九人の子どもたちには想像を絶するような苦痛が待ち受けていることなど、この時は知る由もない。
ディクトの狙いは『器』を作ること。闇大帝が肉体を得て復活するまで、その力を保持できる素養を持つ者を長い間探していた。ディクトは子どもたちを研究所に預けると、またどこかへと旅立っていった。
器の精製は熾烈を極めた。闇大帝の規格外の魔力を受け入れるため、器となる者は肉体と精神を極限まで鍛え上げる必要があった。食事や睡眠は十分与えられながらも、それ以外の時間は地獄だった。執拗なまでに与えられ繰り返させる鍛錬と学習。研究所には他にも多くの子どもたちがいたが、その数は日が経つごとに減っていった。
しかし、九人の子どもたちは三年もの間、その地獄を生き抜いた。ディクトは闇大帝から「嗅ぎ分ける者」という名を与えられた稀有な存在。素養を見抜く確かな目を持っていたが、人間の感情については理解が浅かった。ディクトに会いたい一心で過酷な日々を生きる子どもたちのことなど、すでに忘れ去っていた。
研究所には六歳から十三歳までの子どもたちが総勢二十七名いたが、生き残ったのはゼイルーただ一人。ゼイルーたちが研究所に連れ去られてから三年と半年が経った頃、突如、正義を掲げる大国の騎士団が押し寄せてきた。
騎士団は子どもたちを攫う魔物の殲滅が目的であり、王から下された命令には子どもたちの保護は含まれていなかった。魔物に攫われた子どもを救えるのは一年間以内という定説があるためだ。それ以上の年月が経つと、子どもが生きていたとしても、もうその子は人間の子どもではなくなっている。魔物の子。名もなき獣として討伐対象となる。
子どもたちもまた、攻め入る騎士団を敵とみなした。魔物も人間も実戦経験済みだった子どもたちは、各々が得意とする武器を手に取り戦闘に応じた。ゼイルーはその間、自身がひそかに作った床下のスペースに隠れていた。あまりの恐怖で身体が硬直し、動けなくなっていた。
子どもたちの実力は騎士団に劣っていなかった。六十六名いた騎士団の中には覚悟の決まっていない者もいる。名もなき獣とはわかっていても、見た目は幼い子ども。殺すことに躊躇した者から死んでいった。研究所にいた魔物たちもまた実力者たち。大事な器候補を殺させまいと、最前線で戦っていた。
形勢は五分に見えたが、騎士団の後列に控えていた猛者の実力はあまりにも大きかった。猛者は静かに前線まで歩き、大剣を一振りすると、その一撃で二十以上もの魔物を屠った。その直後、一人の子どもの眼前まで跳躍した。その子どもの最期の記憶は、無慈悲な剣が迫るところだった。
猛者は子どもの死体の一部を騎士団の眼の前に放ると、こう呟いた。
「家族。友人。恋人。大切な者たちの命は誰に奪われると思う。この獣たちと、お前たちの躊躇だ。覚悟のない者は今すぐ去れ」
この言葉が騎士団の勢力を強烈に増した。ほどなくして、研究所にいた魔物たちとは壊滅した。残されたのは、たった一人。
残存している魔力がないことを確認した騎士団は立ち去ろうとしたが、猛者はある一点を見つめ、指を指した。「魔力を消して潜んでいる者がいる。始末してこい」
四人の騎士が部屋をくまなく捜索すると、ゼイルーの床下が発見された。騎士によって蓋がこじ開けられると、ゼイルーの魔力が外へ漏れた。騎士たちは一斉に剣を構えた。
みんな、みんな殺された。どうしよう。どうしよう。
震えるゼイルーを騎士は口々に罵った。
同胞がやられているのに一人だけ逃げ隠れするとは。どうしようもない卑怯者だ。
臆病者めが。我らの顔も見れないのか。そうやって俯いたまま死にたいのか。
人間のフリをしても無駄だ、ケダモノめ。ひどい匂いだ。
早く殺してしまおう。これ以上、こいつの魔力を感じたくない。
騎士たちは魔力を剣に集中させた。
怖い。怖い。私は、もう。
「ど、う、どっ、どどか……、どどどうか……」
ゼイルーが声を発すると、命乞いなど無駄だ、と騎士は怒鳴た。
「ち!ち、が……ちがっ、う……」
違う、違う、そうじゃない。
言えない。こんな簡単な言葉が。
どうか私を怒らせないで。
死ね!と一斉に四つの剣がゼイルーの背中に突き刺さった。
瞬間、騎士たちの背中を剣が貫いた。
ゼイルーは邪悪な笑い声をあげると、狂喜乱舞し、周囲の建造物を瓦礫へと変えた。すぐに危険を察知し対峙した猛者の剣戟をかいくぐると、生き残った騎士のうち三十一名を絶命させた。四人の騎士がゼイルーを攻撃してから、五分にも満たない出来事であった。
私は死ぬのは怖くない。
あなたたちは順番を間違えた。
私を最初に殺してくれたらよかったのに。
私が怖いのは、自分だ。最初から、ずっと。誰かを怖いと思ったことなんてない。
ペイン=ドロゥと出会い、人間として生きる道を歩むようになるのは、それから三年後のことだ。