第百十七話 混沌のBF
ジーニャの案内で辿り着いた地下フロアは、見るからに異様な光景だった。
天井の高い、地下鉄が走っていてもおかしくないようなただっ広い空間というだけでも変なのに、そこには数えきれないほどの人がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。これじゃまるで本当に都会の地下鉄駅だ。
学校とは言っても、ここは超常的な建造物だ。外観からは明らかに釣り合わない広大な敷地面積や設備の中、異種族が集って魔法の訓練を行う。まともな構造ではないとわかっていたけど、この地下空間はさらに異様だ。地上のフロアとは裏腹に、ここはまだ何も手を付けていないかのような伽藍洞。
そこに集まる人々は声を発することなく、うつろな目でぽかんと口を開けたまま一方向に行進している。意思のない人形のような集団は、ほんの少し前までこの学校の生徒や教師だった。
「みんな操られている」ジーニャが顔を歪めて言った。「ひどい。なんで、こんなこと」
「ロードヴィって奴がやったのか?」
俺の問いにジーニャは重く頷くと、虚ろな行進を続ける一人に駆け寄った。
「まるで反応を示さない。かなり深い精神操作をこんな大勢に……。早くロードヴィに魔法を解除させないと、このままじゃ重い後遺症が出るかもしれない」
「後遺症?」
「精神操作系の魔法の修得が禁止されている理由がこれだよ。この魔法は危険すぎるんだ。扱いを間違えれば相手を廃人にしてしまう可能性だってある。だから授業では精神操作系の魔法の防御方法しか教わらない」
「でも俺は……いや、そうか」
そんなの教わってない、と言いかけて止めた。俺は厳密には生徒ではなくデンの召喚獣なのだ。俺は召喚獣が必要な授業にしか顔を出していない。デンしか受けてない授業が多くあることを思い出した。
「芸術科の生徒もかなり混じっている。魔力抵抗のない生徒にまでこんなことするなんて信じられない」
「わからないことだらけで何が何だかさっぱりだけど、とにかくロードヴィとアティスが敵なんだな。この人たちも、さっき襲ってきたモコロカたちも、みんなロードヴィの仕業だと」
「理由はわからないけどね。ペイン様の下でクーデターだなんて正気の沙汰じゃないよ」
クーデター、か。マーブルと運命の本のことを知らない人からすれば、そう思うのか。でも俺は知っている。あいつらの狙いはマーブルと本なんだ。
「しかし、精神操作なんて危なっかしい魔法を使う人がよく先生になれたな」
「その辺りの事情は移動しながら話すよ。私からも聞きたいことがあるし。さて、ゼイルー先生やベリル先輩はこの奥の文書庫にいるはずなんだけど、こんなに大勢が詰め寄っている状況では進めないね」
「確かに大渋滞だけどこの人たち何もしてこないし、無理やり通れるんじゃ?」
「いや、下手に刺激を与えるようなことはやめた方がいい。うまく言えないけど、私にはこの人たちが爆弾に見えるんだ」
「爆弾!?」
思わず大きな声が出て、なぜか俺は口に手を当てた。
「何か些細なきっかけで爆発してしまうような、そんな恐ろしい不安を感じる」
「この何十、何百もの人が一斉に襲いかかってくるとか?」
「それならまだいいよ。襲われたら反撃する理由ができる。さっきのモコロカたちみたいにね。でもこの人たちは――たとえばそうだな、人質が自分の首にナイフを当てた状態で向かってきたらどうする?迂闊に攻撃なんてできないでしょ。何かそういう危うい魔力をかすかに感じるんだ」
そこまで言われると、魔法的なセンスのない俺は従うしかない。ジーニャに言われるがまま、俺たちは来た道を戻り、迂回して芸術科のフロア地下から文書庫を目指すこととなった。そこまではけっこうな距離があるらしいが、空を飛ぶ大きなほうきをジーニャが出してくれたので、移動はかなり楽だった。
さっきの話の続きだけど、とジーニャが言った。
「ロードヴィが学校で唯一の精神操作魔法の使い手であることは周知の事実で、彼が魔法を校内で使うことはもちろん、生徒や教員に教えることも固く禁じられている。裏でこっそり、なんてのも不可能だ。ペイン様の魔力感知は欺けない。知っての通り、学内には魔法が一切使えないエリアや時間帯が存在する。この誰も破れないはずの校則を破ったのは、魔法技能大会優勝者のスティッキー。君らがアティスと呼ぶ少年だ」
俺が医務室で目覚めた時、横から話に入ってきた眼鏡の少年。彼は自分がペインの息子であると言った。多忙を極める父親に会うための手伝いをしてほしい、とも。俺とデンがアティスに出会った経緯、してきた会話を思い出せる範囲でジーニャに話した。
「あれは全部嘘だったのか?」
「だと思うけど……息子って言われると、なんか妙にペイン様の面影を感じちゃうけどね」
嘘だとしたら、何のためについた嘘だ?
どうして俺とデンに絵本を見せたんだ?
わからない。結論に辿り着くには圧倒的に情報が足りていない感じだ。
「まあ、奴を捕まえてとっちめりゃいいか。ジーニャも、俺に聞きたいことがあるとか」
「そりゃもちろん、あのマーブルって子のことだよ。ペイン様のお嫁さんなんでしょ?」
「違う。そのことは忘れて」
俺は事実と異なるデマ情報をきっぱりと否定し、運命の本のことはぼかしつつマーブルについて知っていることをジーニャに話した。
「あの状態になったマーブルは無敵なんだ。理屈は全然分からないけど……」
すっかり忘れていたが、昔マーブルと初めて会った時もマーブルが『一色に染まった』ことがあった。火を食べるという赤い巨大蛇に追いかけられた時だったか、どうやったのか、マーブルのカラフルな髪の色が一色になって、とんでもない力で大蛇を追い返したことがあった。あの時のマーブルは大蛇の牙も毒も、あらゆる攻撃を無効化していた。
「昔見た時は半日くらいあの状態だったけど、上にいるのはとんでもない奴らだ。いつまで保つのか予測がつかない。そしてあのモードが解除されたらマーブルはしばらく何もできなくなる。早く助けに行かないと」
「それはどうだろうね……」と、ジーニャは天を仰いだ。
「君の言う通り、最上階にはとんでもないのがいる。すごく凶悪な魔力だ。君の力は十分すごいけど、とても役に立てるレベルじゃないと思う」
「大丈夫。俺は俺で切り札があるのさ」
それも、二つの切り札が――。
それから間もなくして、空飛ぶほうきが目的地に到着した。
「よし、あの奥の階段から地下に、下がれ、る……」
ジーニャの声が急速に沈んでいく。その視線の先にいたのは――。
「おや。君たちは……」
初めて見たはずの男。
それなのに、俺は一瞬で理解した。
この男がロードヴィなのだと。
「イッチ!こいつが、ロ――」
ジーニャがその男の名を言いかけた時、剣が彼女の首を突き刺した。