第百十四話 ブラック・ダーク・シャドウ・ナイト
全身を黒く染めたマーブルから、ぼと、ぼと、と滴るそれは墨汁に酷似していた。
やがて、ばちゃん、と大きな音を立てて辺り一面が黒い水浸しになる。小さな池のような水たまりの中から、黒い人影が現れる。マーブルだ。
物言わぬ黒ずくめのマーブルは、両手で地面に羽を描いた。マーブルはその上に仰向けになり、立ち上がるとその背中には黒い羽根が生えていた。
「マーブル。私の声が聞こえているか?」
ペインの呼びかけには反応しない。ペインは構わず続けた。
「闇の鎧を破壊してくれ。中にウェル……私の力の源が囚われている」
ペインの絶大な魔力は架空の悪魔ウェルマクスによってもたらされたものだ。ウェルマクスの能力は『変換』。ウェルマクスと契約したペインは、自身を蝕む呪いの激痛を魔力へと変換していた。呪いが進行するほど魔力は肥大化していく。
ペインは戦闘時、自身に向けられた攻撃魔法を回復魔法へと変換することで、攻撃時に消費する魔力を常時補給していた。攻撃範囲が極めて広いクロキやボアーラの猛攻にほぼ無傷で立ち回れることができた理由はそのためである。無敵にも思える能力だが、『変換』には賢者でさえ困難なほど緻密で迅速な魔力操作が要求される。特に敵の攻撃魔力を変換する場合はリスクが高く、ほんのわずかでも魔力の出力を違えば変換しきれずにダメージを負う上に魔力を消耗する。
ウェルマクスを封じられ『変換』の使えないペインは魔力の消費が少ない魔法でアティスと相対した。それでも魔力の総量はペインが遥かに上回るが、虚を突かれ動揺したペインは精彩を欠いた。一方で、アティスに与えられた闇の魔力は、相手の魔力を被弾するほど大きく膨れ上がる特性を持つ。長期戦になるほどアティスが優位に立つのは自明の理であった。
「ウェルを解放できれば……すべてが解決する」
ペインは慎重に言葉を選ばざるをえなかった。今のマーブルがペインの言葉をどこまで理解しているのか、知る術はない。この黒いマーブルからは闇の魔力に対する深い憎悪を感じさせる。ペインが飲み込んだ言葉――『アティスは自分の手で始末する』と言った時、黒いマーブルがどういう行動に出るか、まったく読めない。
ウェルマクスさえいれば形成を逆転するのは容易い。アティスは得体が知れないが力量は比べるべくもなくこちらが上だ。闇の魔力を纏うことで魔力量は飛躍的に上昇したが、練度が低い。魔法使いとしてはクロキたちよりも劣る。魔力操作が拙いため次にどんな魔法を撃ってくるのか簡単に読める。まだ発展途上であるうちに殺す。一刻も早くこの場を片付け、校内に蔓延る不穏な魔力、その根源を断つ。
「ケス」
黒ずくめのマーブルがそう呟くと、黒い羽をはばたかせ、宙に浮かんでいく。魔力ではない、不可思議なオーラが黒いマーブルの輪郭をなぞるように充実していく。
「何?さっきの、黒い花火みたいなの。闇の魔力を打ち消したの?」
アティスは不思議そうに呟きながら歩み寄ってくる。
「うわ。全身真っ黒じゃん。何これ?墨……?」
足元に落ちた墨汁を観察した。
「やっぱり魔力は感じられない。となると、これが本の力……?」
アティスは宙に浮くマーブルに向かって両手を向けた。
「魔法の力じゃないなら、こういうのはどうかな。“闇灯”(アンドン)」
提灯のような黒い灯がアティスの両手から無数に放たれる。それらの灯はマーブルを取り囲むと、一斉に弾けて消えた。
「へえ、避けないんだ。避けると思って無駄にたくさん作っちゃったよ。攻撃魔法じゃないものには反応が鈍いのかな」
黒い灯に照らされたマーブルは、白く濁った光に包まれている。
「どれどれ」
アティスは地面に手を置き、魔法陣を生成した。間もなくして一頭の巨大な雌鹿が召喚される。
聖獣ケルニーア。ペインはその獣をよく知っていた。かつて亡くした恋人が召喚していたからだ。黄金の角と青銅の蹄を持つ雌鹿は、目にも留まらぬ凄まじい速度で動く。
ケルニーアは身体を捩じるようにして後ろ足をマーブルに命中させた。マーブルが黒い弾丸のような勢いで飛んでいく。
「まだだ。行け、ケルニーア」
アティスに命じられた聖獣はとてつもない速さで走った。マーブルの着地地点に先回りすると、マーブルを蹴り上げ、更に黄金の角で叩きつけた。
「お?お、お?」
アティスは好奇心に富んだ表情でマーブルの様子を遠巻きに伺った。親指と人差し指で小さな丸を作り、望遠鏡のように目をあてがっている。
「効いてる、効いてる!あちこち撒き散らしている墨の中に、ちゃあ~んと血が混じってるね!ね!」
アティスはぴょんぴょん飛び上がり、伏しているペインに同意を求めるようにはしゃいでいる。
ペインは軽く舌打ちした。こいつは……闇大帝は、どこまで読んでいたんだ?
闇に染まった者が聖獣と召喚契約を結べるわけがない。アティス自身が闇の力を得る前に契約した可能性もない。こいつにそこまでの実力はない。つまり、闇大帝はアティスに闇の力を与える間に聖獣と召喚契約を結ばせたのだ。
聖獣はほとんどが光の魔力属性を持つ。光の弱点は闇であり、闇の弱点は光だ。下手をすれば自身の弱点を突かれる可能性のある聖獣と、なぜ契約したのか。決まっている、闇の力を持つ者と敵対する可能性を見越していたからだ。ウェルを封じたことと言い、こいつらは相当入念な対策をしてきている。
「“闇灯”の効果はまだ切れない。ケルニーア、そいつが白く光っているうちに――」
刹那、黒い閃光が走る。
黒いマーブルはアティスに強烈な一撃を与えた。アティスが声にもならない声を上げ、遥か後方に吹っ飛んでいく。
ペインは戦慄した。何百メートルもの距離を、魔力無しで一瞬で詰める膂力。その速度はケルニーアに匹敵する。
「ぐ……う、うえぇぇっ!!」
激しく吐血する。明らかにかなりのダメージだ。
「蹴ったな……僕を……!くそ……ケルニーアァァ!」
聖獣が猛然とマーブルに襲いかかり、巨大な蹄が振り下ろされる。しかし、マーブルはケルニーアの巨大な影に沈んだ。とぷん、と音を立てて。
ペインはありのままに起こったことを声に出した。
「影の中に……潜った?」
ケルニーアは辺り一帯を踏みならしたが、そこにマーブルの気配はない。ケルニーアが動きを止め周囲を探っていると、巨大な影がにゅっと伸び、その中から黒い巨人が現れた。巨人は薄くぼんやりとした白い光を纏っていたが、ぱっと消えた。
「“闇灯”とやらの効力が切れたようだな。しかし、マーブル……君は一体……」
黒い巨人・マーブルはケルニーアの黄金の角を両手で掴むと、ケルニーアの姿が次第に黒く染まっていく。
巨大な鹿とそれに跨る巨人はそのどちらも黒く、黒く。
辺りは夜に包まれたようだった。
「戻れ!ケルニーア、戻れ!」
闇の魔力でダメージを回復させたアティスはケルニーアに命じるが、もはやその声は届かない。
「召喚契約にまで干渉する力……上等だよ」
アティスは上空に飛び上がり、ウェルマクスを封じている闇の鎧に手を伸ばした。
「どっちが闇の支配者か教えてやるよ」
闇の鎧がアティスを包みこむ。
二つの巨大な力。黒と闇とが、今ぶつかりあおうとしていた。