第百十三話 まっくろくろ
瓦礫が崩れた拍子に、ペインは仰向けに倒れた。もはや自力で立ち上がるのも困難なほど魔力は底を尽きかけていた。
アティスは敬意を込めた眼差しで、上空からペインを見下ろしていた。
「さすがだよ、父さん」
ひび割れた眼鏡を投げ捨てると、掌の小さな魔法陣からスペアの眼鏡を出し、装着した。
宙に浮いていたアティスは静かに下降し、着地する。
「あなたの強さは僕の予想を遥かに超えていた。架空の悪魔・ウェルマクスを封じられてなお、ここまで戦えるとはね。もしウェルマクスを封じられなかったらと思うと、ぞっとするよ」
「……その不愉快な呼び方を、やめろ」
「ん?ああ、父さんって呼び方か。ははは、何を嫌がることがあるのさ……あなただってとっくに気付いているだろう。さっき僕が言ったことは真実だ。もう一度言ってあげようか」
「黙れ……」
「僕はあなたの遺伝子から作られた。呪いを維持する存在として」
「黙れ」
「育ての親は、あなたたちの言葉で言う『闇大帝』だ。彼が僕を作り、育ててくれたんだ。念押しするけど、父親ではない。僕にとっての父親はあなたしかない。母親は――」
「黙れ!」
ペインの怒りに呼応するように、瓦礫が弾け飛び、アティスの額へ命中した。アティスは能面のような顔でペインに近付く。額から一筋の血が流れる。
「母親は、パステ=レット。二十年以上前に死別した、あなたの元恋人だ」
ペインの忌まわしい記憶が蘇る。
――やめろ。
過ぎ去りし過去を振り返るな。そんなことで呪いが解けるか。
重要なのは未来だけだ。私の代でこの呪縛を消滅させることだけが私の生命の目的だ。
「今更、そんな名前を口に出したところで……」
ペインはアティスの表情を見て息を呑んだ。
「喜んではくれないんだね」
アティスの額から滴る血が眼窩へ流れていく。血の涙のように。
「なぜだっ」
アティスはペインを蹴り上げる。
「パステが生きてさえいれば。あなたと子を成していたら。そんな“もしも”の世界にしか存在しえなかった僕が、今ここにいるんだ。僕が存在することは奇跡なんだ。なのに、なぜ祝福しない?なぜ僕を否定するんだ!」
アティスの全身から黒いオーラが湧き上がる。それらは蛇のようにうねりながら、アティスの腕を黒く染めていく。
「闇の力か……愚かな。貴様は闇大帝に利用されているだけだ」
「そんな言葉で僕が動揺するとでも?利用?大いに結構だよ。何もしてくれなかったあなたよりは遥かにマシだ」
アティスは掌にエネルギーを集中させると、黒い球体が現れた。ビー玉ほどの大きさしかない球体からは、ピシ、ピシ、と亀裂が走るような音がしている。
「“魔弾・燐”」
アティスが唱えると、黒い球体がペインに向かっていく。時速にしておよそ120km、手負いのペインでも難なく回避できるはずだった。
しかし、黒い球体はペインが回避行動を取った瞬間、爆炎のように大きく広がり舞い上がった。
「――ぐっ!」
ペインが黒い炎に呑まれる。
「終わりだ……すべて……」
アティスは虚しく呟き、虚空を仰いだ。しかし、その目線がすぐに落ちる。
「――来たか。やあ、マーブル。お目覚めかな?こっちは今ちょうど片付いたところさ」
マーブルが最上階フロアに現れた。
跳躍しただけのマーブルは、降下する前に指で雲を描いた。マーブルはその雲に片手で掴まり、よじ登った。
「わあ。素晴らしいよ!今のは魔法じゃない。それが本の持つ真の力なのかな?」
「けす」
「え?今なんて――」
言い終わるより前に、マーブルの拳がアティスの顔面に飛んできた。アティスはその勢いで数百メートル後方へ吹き飛んでいく。
「くろいやつ、ゆるさない。ぜんぶけす」
マーブルは黒い炎に包まれるペインを一瞥すると、両手の人差し指で空に何かを描いた。マーブルはそれに向かって、思い切り息を吹きかける。すると、その息は凄まじい暴風となり、黒い炎をペインから引っ剥がした。
「マーブル……その、力は……」
驚愕するペインの表情をマーブルは黒い瞳でじっと観察する。何かを考えるような仕草をすると、ペインの倒れている地点へ雲から飛び移った。
「くん、くん」
「……?なんだ……?」
マーブルはペインの顔に接近すると、ペインの身体の匂いを嗅いだ。その仕草はまるで獣そのものだ。
「ちがう」
そう呟いて立ち上がると、アティスが吹き飛んだ方向を睨んだ。
「あいつだけだ」
「“ノア・ディセプト”」
アティスはスペアの眼鏡を付け替えると同時に唱えた。マーブルとの距離は数百メートル離れたままだが、この闇の魔法の射程圏内だった。
マーブルとペインのいる場所に、四方八方から黒い蛇が出現した。蛇たちは一か所に集まり、やがて一頭の巨大な黒蛇となった。
黒蛇はマーブルへ牙を向き、鋭く襲い掛かった。マーブルは黒蛇の攻撃をひらりとかわし、パンチを見舞った。しかし黒蛇はピンピンしている。
「よせ……遠距離、魔法だ……直接、本体を……叩け……」
かろうじて意識を保っているペインは瞬時に魔法の性質を見抜いていた。この黒蛇を攻撃してもエネルギーを無駄に消費するだけだ。仮に黒蛇を殺したところで術者には何らダメージを与えられない。
しかし、ペインが体力・魔力ともに枯渇した今、黒蛇に何の対処もしないことはペインの死を意味している。マーブルが黒蛇を放置してアティスの元に行けば、間違いなく自分はこの蛇に殺される。その冷酷な事実に気付かないペインではなかったが、放っておいても死にそうな自分のために余計な体力を使わせるわけにはいかないと考えた。
しかし、マーブルは。
「これも、けす」
両手で黒い髪を握ると、手の先から腕へ、腕から胴へ、みるみるうちにマーブルの全身が黒く染まっていく。自分の顔を両手で黒く塗ると、黒蛇に向かって突っ込んだ。黒蛇はぐにゃりと巨躯を折り曲げ、マーブルの全身をぐるりと囲むと、強く締め上げた。並の人間ならば容易く胴体を両断していたであろう圧力だったが、マーブルは黒蛇の胴体と同化していた。
水面のように波打つ黒蛇の胴体へマーブルは潜ると、黒蛇が風船のように膨らんでいく。巨大な黒蛇は口を開けたまま宙へ浮かび上がっていくと、膨らみ続ける胴体がぱあんと張り裂けた。
真っ黒なマーブルが蛇の中から飛び出し、辺りに黒い雨を降らせた。
次回更新日は8月14日(水)です。よろしくお願いいたします。