第百五話 活殺自在
どういうつもりだ。
ペインは指についた返り血をハンカチで拭きとりながら、二人の様子を探った。
「我ら二人がかりでさえ、わずかにしかダメージを与えられないとは……」
跪くクロキの言葉にペインの眉尻が上がった。
「ダメージ……?これが?」
ペインは自身の自分の右ひじをクロキに突き出した。
「服が3㎝ほど破け、ほんの少し血が滲んでいる程度でダメージとは。実際に飼い犬に手を嚙まれる方がよほど痛みを感じるだろう。要するに貴様ら二人は私にとって犬以下の存在ということだ」
「ぐっ……おのれ~!!」
ボアーラが激高して飛びかかろうとした時、ペインは億劫そうに人差し指を弾いた。
バチンッ、と何かが弾けるような音が響き、ボアーラはその場に蹲った。
「うぐぐぐ!」
ボアーラは苦悶の表情を浮かべながら膝を押さえている。何をされたのか、ボアーラ自身が図りかねていた。
やはりおかしい。
圧倒的に優勢な状況にあるペインの疑念は膨張し続けていた。
こいつらの目的は何だ。なぜこんな無駄なことをする。
賢者の位の一つ下に大魔導士という称号がある。校内で大魔導士の称号を持つ者はペイン、クロキ、ボアーラの三名であり、クロキとボアーラを鍛え上げたのはペイン自身だ。ペインの魔力値がクロキとボアーラの合計値を遥かに上回ることなど三人の中では既知の事実であり、実際、ペインは自身の魔力をほとんど消費せずに二人を追い詰めた。
この二人は、偽物ではない。目の前にいる二人から感じる魔力は『閃光』と『火山』のもので相違なく、他者が化けている可能性はないとペインは断じた。
ならば精神操作系の魔法か。
「ぐおおおっ!」
ボアーラが吼え、クロキと共に仕掛けてくる。
――遅すぎる。
ペインは容赦なく迎撃する。
すでに大半の魔力を消費している二人の動きに精彩はなく、ただ向かってきているだけだ。高等科の生徒なら楽に捌けるレベルの攻撃だ。
無謀無策。思考が抜け落ちているかのような単調な攻撃。本来の二人であればもう少しマシな攻撃を仕掛けてくるはずだ。やはり何らかの精神操作にかかっている疑いは濃厚だ。
ペインは二人の様子を注意深く観察しながら思考を進めた。
しかし、腑に落ちない。通常、精神操作系の魔法は自分と同等か、それ以下の実力の相手にしか通用しない。その手の魔法はロードヴィの専売特許だが、奴の仕業とは考えられない。ロードヴィの魔力はクロキの半分程度だ。魔法をかけることができない。
第一、この二人には魔法をかけられた痕跡がない。
ペインでさえ感知できないほど高度な魔法をかけられたという可能性もゼロではないが、それほどの実力者なら、ペインの魔力探知網でさえ楽に抜けられるだろう。ペインからすれば、このような回りくどいことをする理由が思い当たらない。
ペインはクロキたちを相手にしながらも学内の様子は常に探っていた。自分の注意を引き付けているうちに生徒に危険が及ぶことを警戒してのことだったが、敵がやったことといえばシブラの声を使った妙な校内放送だけだ。
初等科の一部の生徒は惑わされる可能性はあるが、それだけだ。特にペインが目にかけていた三人の優秀な生徒たちならどうとでも対処できるだろう。ペインはすでに本物のシブラの魔力もすでに感知している。彼は痛い目に遭わされたようだが命に別状はない。
依然として、校内には何ら異常が感じられない。
さて、どうするか。ペインは数十年ぶりに迷いを感じていた。
このまま二人を葬るべきか、生かしておくか……。
マーブルたちの話が本当なら、この二人の背後にいる者はアティスと名乗った生徒と考えて間違いないだろう。闇の者か、少なくとも闇の者と通じている敵だ。
手段は未解明だが、その者が自身の探知網を抜けていたことは確かだ。自分の預かり知らぬところでマーブルと接触し、あろうことか禁書を突きつけた。そうすることで彼女の記憶を揺さぶり、精神操作系の魔法がかかる状態になるのが狙いだったのだろう。マーブルを意のままに操れば、空白の本を手に入れること自体は容易い。
こちらが取るべき行動は決まっている。アティスを見つけ出して始末する。
そのための先手は打った。犬房一志。この学校において、まったく魔力がない者は彼だけだ。クロキらと繰り広げた魔法戦では彼は蟻に等しい存在だが、マーブルとは浅からぬ縁で繋がっている奇妙な人間でもある。彼が今ここにいることに意味があるとするなら――。
とにかく、この二人の処分はアティスを始末した後でいい。
「お前たちはここで大人しくしていろ。後で処分を――」
クロキとボアーラは激しくせき込み、互いに小さな黒い玉を吐き出した。玉は地面まで到達せず、互いの存在を求めるかのように空中で結合した。
ペインは、その一秒後に起こる恐ろしい出来事を正確に把握していたわけではなかった。ただ、あの黒い玉を見た瞬間、ペインは魔力を放出していた。
破壊しなければ。
考えるよりも早く、そう感じた。しかし、ペインの目の前を黒煙が覆う。
「一瞬遅かったようだな」
そこにいたのはクロキでもボアーラでもない。
ペインを倒すためだけに誕生した闇の戦士だ。