第百二話 撤退拒否
突如訪れた暗闇はしばらくの間続いた。
停電?
「違う」
俺の独り言にペインが反応した。同じ部屋にいたはずなのに、ずいぶん遠くから声が聞こえる。
「眼球を塗り潰されたような感覚はないか?この暗闇には目が慣れるという概念がない。視界だけではなく聴覚、嗅覚にも何らかの異常が出ているはずだ」
マーブル。デン。
二人の名前を呼ぶが、自分の声が聞こえない。
なんだ、どうなっているんだ。聞こえない!
「二人は無事だ。じっとしていろ」
肩を強い力で掴まれる。
「いっ――!」
激しい痛みが肩から首へ、首から鼻や目を通過し、最後は頭で弾けた。
「っってぇぇ!」
両方の眼からどっと涙が出る。まるで毒素を流そうとしているような勢いでの放流はものの数秒で治まった。
目をゆっくり開けると、先ほどの闇は晴れていた。
「なんだったんだ…?」
「五感に異常が残っていないか確認してみろ」
ペインはそう言いながら、床に伏せているデンの頭に手を置いた。ものの数秒もしないうちに、デンも俺と同じような反応で飛び上がった。「いてぇ!」
「なんだったんだ今の。急に視覚も聴覚もダメになったような……魔法なのか?」
「それはありえない」とペインが断じた。
「妖術か兵器か……得体は知れんが魔法以外の力が働いている」
「なんでそう言い切れるんだよ」
デンが聞くと、ペインはかすかに驚いたような表情になった。
「ここは私が創った学校だ。私が許可した場所でしか魔法を使うことはできない。相手が誰だろうとな」
「なに?……本当だ。魔法が使えない」
「ペイン……さん」
味方っぽいし、一応さん付けで呼んでおこうと思った。
「マーブルはどこなんだ?気配がするのに姿が見えない。それとも、俺の五感がまだどこかおかしいのかな」
「彼女ならここだ」
そう言ってペインが差し出してきたのは、ほら貝にしか見えない代物だったが――。
「私ならここです」
にゅっ、とマーブルがほら貝の穴から顔を出してきた。
「うわ!どうなってんだ、それ!」
手のひらサイズのほら貝からマーブルの首だけ出ている。遠目で見ればペインが生首を持っているようにしか見えないだろう。
「言うまでもなく彼女と本のどちらも奪われるわけにはいかないからな。完全に闇に包まれる前にセーフシェルへ避難させた」
「セーフシェル?」
「何万年も生きる古代のほら貝だ。貝の中は異次元空間になっていて、飼い慣らせば主人の意のままにあらゆるものを出し入れすることができる。人間も例外ではない」
「……すごいな」
貝の性能ではなく、ペインに対して素直に畏敬の念を抱いた。闇に包まれる前と言ったが、瞬きよりも短い刹那しかなかったはずだ。そんな百分の一秒にも満たない短い時間の中で、彼は最善の行動を取った。即座にマーブルを護衛したんだ。俺には無理だ。たとえタイミングがわかっていたとしても、ペインのようにはできなかっただろう。
「……」
ペインが何かに気付いたように宙を見上げた。そのままの姿勢でぽつりと呟く。
「君たちは今すぐ帰った方がいい」
「え、急に――」
「イッチ。ペインの言う通りだ」
デンは青ざめていた。ふるふると揺れるしっぽがそのままデンの心境を表しているようだった。
「い……一瞬、だったが……とてつもない魔力が……」
「そ、そんなにすごいのか。俺たちじゃあどうしようもないくらいの相手なのか」
「足手纏いにさえなれない」
はっきり言い切るデンの口調からは一片の悔しさも感じられなかった。あのプライドの高いデンが完全に屈している。
「的確な分析だ。君は良い魔法使いになれそうだな。この部屋はあと一分もしないうちに豪雨のような集中砲火を受けるだろう。それも、信じがたいことに……この魔力の反応はクロキ副校長だ」
「――わかった。マーブルを連れて逃げる。どこまで逃げればいい?」
一体何が起こっているのか気がかりではあったが、質問している余裕はなさそうだ。急転直下する事態は初めてじゃない。どういう行動を取るのが最善か、先を見通す力に長けたペインならば正しい判断を下してくれそうだ。
「ゼイルーに会え。彼女の力を借りれば安全な場所へ行ける。それと、マーブルは連れて行かなくていい。シェルごと私が預かる。それ以上の警備はない。話はひとまず以上だ」
その一秒後、光る柱が部屋の天井を突き破り、ペインの身体を覆い隠した。
「逃げるぞ!」デンが吠える。
「わかった!先に逃げててくれ!」
「――は?」
「俺はもうマーブルを置いて行かない!」