第百一話 イン・ザ・ダーク
夢から目が覚めた時と同じように目覚めた。
意識ははっきりしている。さっきまで見ていた光景、いや物語は、夢でも幻でもない。実際に起きた出来事だ。
俺とデンは「物語」という世界にいた。姿かたちを失くして、意識だけが浮雲のように揺蕩っている世界。文字通り手も足も出ない、言葉すら交わすことのできない存在だった。なんという無力な世界。
でも、マーブルが俺たちの姿を描いてくれたことで、俺たちは物語の中での役割を与えられた。肉体を取り戻し、思いのままに振舞った。そしてどうやら、俺たちはその役割を全うすることができたらしい。
だからこうして、物語という檻から解放されたのだ。
「あ、イッチさま。お目覚めですね」
「マーブル」
夢?
いや夢じゃない。
目の前にいるマーブルは、あまりにもマーブルらしくて。なんだか逆に現実感がない。でも、夢のような世界からは帰ってきたはずだ。
「デンも起きてください」
「うぅ……ん。こ、ここは……」
デンものろのろと起き上がる。
「マーブル。マーブルだよな?」
「はい。マーブルです」
「プリエルじゃなくて、マーブル」
「はい。その名前は捨てました。私のことはマーブルと呼んでください」
「よ……っ」
「よ?」
「よかった!」
「わ。びっくりしました。急に大声を出さないでください」
「あ、ああ、ごめん。よかった……戻ったんだな」
「あの」
マーブルは珍しく戸惑った様子で視線を落とした。何を見ているのかと思ったら、自分のとんでもないやらかしに気付いた。
「わわっ、ごめん!」
感激のあまりマーブルの両手を握りしめていた。
「ごめん、つい」
赤面で謝る俺を尻目に、マーブルはほんの少し口元を緩めた。
「昔もこんなことがありましたね」
「えっ。お、思い出したのか?」
十年前の神隠しで俺はマーブルに会っている。神隠しの秘密を解くカギは、きっとその記憶の中にある。
「マーブル、俺たちは――」
「悪いが、思い出話は後にしてくれないか」
部屋の隅にいた男が、言葉を発した時。弛緩した空気が一瞬で張りつめた。
武器……黒縄の棍棒はどこにある?
本の中に吸い込まれた時、俺とデンは控室にいた。あの部屋に置いたままだ。
「警戒を解け。使い魔イッチ。君たちを殺す気ならとっくに殺している」
「あんたの顔……見覚えあるな」
眉間から頬骨に刻まれた古い傷跡。やや逆立った短髪に、制服の上からでもわかる屈強な肉体は、魔法使いには似つかわしくなく、軍人を思わせる出で立ちだ。魔法使いである唯一の証拠のような碧眼が怪しい輝きを放つ。
自分が魔法使いじゃなくてもわかる。このケタ違いの威圧感。こいつがペイン。
「君はゼイルーの試験中に校内を徘徊していた受験者だな。あの時は、こうして言葉を交わすことになるとは思わなかった。……やはり、どれほど魔法を究めても因果の流れを読むことは容易ではないか……」
「因果……って、何の話?ですか?」
一応敬語を使っておくか。相手は校長だ。
「いや、こちらの話だ。それよりも、戻って早々申し訳ないが、一つ聞きたいことがある。君たちにその本を預けたのは誰だ」
ペインは、床に落ちているマーブル物語に目をやる。
「あぁ、それは……」
あれ。変だ。急に名前がわからなくなった。
「あの……えぇっと……あれ?デン、名前覚えてる?」
「もう名前忘れたのかよ。あいつだよ、あいつ。あの……あれ」
デンも俺と同じ反応だ。
「ほら!変だろ、なんかすっぽり記憶を抜かれたみたいな」
「やはり無駄か」とペインが軽く吐息をつく。「マーブルにも聞いたが同じ反応だった」
「ううーん……」
マーブルが額に指を当てながら身体ごと首を傾げている。
「俺たち、全員魔法にかけられたってことか?」
「そうとしか考えられない。三人が同時に特定の記憶を失う偶然などない。しかし、自分に関する記憶だけを切り取る魔法となると、これは……」
「おいおい、そんな危ない魔法も教えているのかよ、この学校は」とデンが校長に向かって非難の声を上げる。お前ってけっこう怖いもの知らずだよな。
「教えられるわけがない。記憶を操作する魔法は禁術に制定されている。賢者でさえ扱える者はいないだろう」
「う~ん、えっと……」
「どうした、マーブル?」
「もう少し、なんです。この辺まで来てるんです」
マーブルは後頭部をぽんぽんと叩く。
「そういう場合、のどを叩くけどね」
「イッチさま、デン、なんでもいいですから、何か覚えていること言ってみてください。思い出せそうなんです」
「待て。これは精神魔法の一種だ。無理に思い出そうとすると脳に深刻なダメージを負う可能性がある」
ペインの言葉を聞いて俺はあわてて両手を振った。
「ダメダメ!思い出すの中止!」
「大丈夫です。ほんとに、あともうちょっとなんです……えーっと」
「……そういえば、背が低い奴じゃなかったか」
ぽつり、とデンが呟いた。
「最初は……そうだ、医務室で会った。こいつが目覚めるのを待っていたんだ。で、その横に……」
「なんか、するっと会話に入ってきたよな。何話していたかも思い出せないんだけど……この本を見せてもらったのは、あの時の控室だよな……あっ!そうだ、眼鏡!眼鏡してなかったか、あいつ!」
「……あ~~!思い出しました!!」
マーブル史上最大の大声。心なしかペインでさえも少しびっくりした気がする。
「アティス!アティスですよ!ペイン様の息子の!」
「……何?」
「あてぃす……ああ、確かに!言われてみりゃあ、そんな名前だったような」
「アティス、アティス……確かに言った覚えのある響きだ」
「アティス……だと」
ペインは怪訝そうな顔で聞き返すと、一呼吸の間をおいて呟いた。
「私に息子はいない」
次の瞬間、部屋の明かりが消え周囲は闇に包まれた。