SILENCE ――沈黙――
かなりセンシティブな要素を含みますが他意はありません。
『もう限界だ』
冒頭の一文が目に入っただけで、エルヴィラ・ラザフォードは夫からの手紙を封筒に戻した。それと同時に馬車が止まる。やや乱暴に封筒をレースの手提げ袋に押し込み、彼女は窓から久しぶりに戻ってきた館――ラザフォード侯爵家の本邸を見た。
「若奥様」
帰宅を前もって知らせていたため、執事とメイド長が玄関ホールで並んで迎えた。執事が扉の外にある質素な貸し馬車にちらりと目をやり、痛ましげな表情を浮かべる。構わずエルヴィラはホールを歩いた。
朝まだ早く、住人の侯爵夫妻は起きていないようだ。使用人たちが静かに立ち働くいつもの物音に混じり、風格ある館にそぐわない下品な高笑いが聞こえた。エルヴィラは眉をひそめた。
「あの女はまだいるの?」
「申し訳ございません。大奥様が子供が生まれるまではと引き留められまして」
「そう」
他人事のような返答で彼女は会話を打ち切った。広間の階段まで来た時、心配そうな使用人たちに言いつける。
「忘れ物を取りに戻っただけです。侯爵ご夫妻が目を覚ます前に出て行きますから。ただし、あの女と顔を合わせたくありません」
「畏まりました」
「若奥様のお目に掛けぬようにいたします」
彼らが即座に答えるのに小さく頷き、エルヴィラは階段を上がった。一応侯爵家の継嗣の妻として七年を過ごした館なのに、今は妙によそよそしい空気を感じた。
二階の書斎に行き、机の引き出しを鍵で開ける。中の二重底から彼女は数通の手紙を取り出した。どれも夫が婚約時代に送ってくれた物だった。
そっと指で触れたものの、感傷に浸るのを恐れるようにエルヴィラは手紙を手提げ袋に入れた。そして、見納めになるかも知れない書斎を見回した。ここで多くの時間を過ごし、そのどれもが夫であるパトリックの記憶と結びついていた。
友人からの結婚を祝福する手紙を一緒に読んだ。夜会やサロンへの招待状を選別したり、侯爵家の領地からの報告書をまとめる手伝いをしたり。
常に穏やかに笑いかけてくれる夫だった。ラザフォード家に多い厄介な癖毛に手を焼くのをからかったりしたことを思い出す。夫婦共に派手な社交界より風光明媚な地方を巡ることが好きで、よく湖水地方や海岸に出かけた。
不測の事態が勃発し、侯爵家の若夫婦はこの邸を出て別々に暮らしている。再び二人でここに戻れる日が来るのか、エルヴィラには分からなかった。
紫の光沢が浮かぶ濃灰色――クロバト色の喪服を着た彼女は、部屋と思い出に別れを告げた。
階下から微かに甲高い笑い声が届いた。思わず自らの腹部に手を当て、エルヴィラはこみ上げる衝動を鎮めた。
耳障りな声の主と鉢合わせになるのを避けるためにも早くここを出よう。そう決意した彼女は足早に階段に向かった。
だが、吹き抜けの回廊に出た途端に最悪な場面が待ち構えていた。
「客? 誰が来てるって言うのよ!」
止める使用人を振り切るようにしてホールに姿を見せたのは、部屋着のままでグラスを手にした金褐色の髪の女性だった。彼女は回廊を見上げ、一瞬驚きの表情を浮かべた。
しかしすぐにその顔は嘲りに変わり、朱唇からは毒のある言葉があふれ出した。
「あーら、誰かと思ったらお姉様」
「ご機嫌よう、マデリン・ボイド」
「ハートレイよ、マデリン・ハートレイ」
きつい口調でマデリンは訂正したが、エルヴィラは取り合わなかった。
「お父様――ハートレイ伯爵は最期まであなたを認知しなかったわ。する理由もないから」
当然だと言いたげな口ぶりに、マデリンは『姉』を睨み上げた。そのまま異母姉妹と呼ばれる二人は互いから視線を外さなかった。
片や冷ややかに、片や怒りに燃えた目だったが、内包する憎悪の量はどちらも引けをとらなかった。
エルヴィラは回廊の手すりを指で叩き、のぞき見する使用人に目を向けた。彼らは慌ててホールから離れていった。遠くで不躾な者たちを叱りつける執事の声がする。もうここに来る者はいないだろう。
二人だけになった場所で、姉妹は互いの視線を正面からぶつけた。エルヴィラは、実母が亡くなった直後の伯爵家に赤毛の親子が乗り込んできた時のことを鮮明に思い出した。
* *
それは彼女が十歳になる少し前、まだ館中が喪に服していた時だった。突然、けばけばしい安物のドレスで飾り立てた女が現れ、父と関係を持って生まれたのがこの子だとマデリンをエルヴィラの前に押しやったのだ。金褐色に近い赤毛の女の子はエルヴィラと一歳しか違わなかった。
当然、ハートレイ伯爵は否認した。その女、バーサは伯爵家が所有する鉱山街の酒場で働いていた。当時、鉱山の事故と産後の肥立ちが悪い妻の心配で憔悴していた伯爵は、街の顔役が主催する会食に出席し、慣れない酒を飲まされ、気がつけばバーサが同衾していたのだという。
彼はだまし討ちに近い暴挙に怒りバーサを処分しようとした。そうするべきだった。だが、顔役がしつこく取りなしたことと鉱山事業に忙殺されていたことで事はうやむやのまま終わった。
それを十年経ってから責任を取れと傭兵崩れの兄弟を引きつれて伯爵を脅迫したのだ。妻を亡くして打ちのめされていた伯爵は立ち向かう気力に欠けていた。ひとまず館が落ち着くまではと、人の形をした厄災を招き入れてしまった。
それからのことはエルヴィラにとって悪夢そのものだった。父である伯爵は心身共に弱っていき、それに乗じて赤毛女――バーサ・ボイドは蜘蛛が巣を張るように伯爵家に取り憑いた。
古くからの使用人はバーサの兄弟(今にしてみればそう名乗った情夫だろう)に脅され、恫喝にたやすく屈する物だけが館に残された。去って行く使用人には官憲に訴えれば家族の身の安全は保障しないと言い含める念の入りようだった。
さらに厄介だったのが、バーサに飼い慣らされた男の中に男爵家の三男坊で法学院中退して裏町で相談屋をしていた自称法律家がいたことだ。
彼に知恵を付けられたバーサたちはことあるごとに自分たちの権利を主張し、ハートレイ伯爵家で我が物顔でやりたい放題に振る舞った。
調子に乗った法律家はバーサと伯爵の婚姻届を偽造し貴族院に提出した。それを知って激怒した母方の親族一同が伯爵に絶縁状を叩きつけ、ハートレイ家は破滅へとひた走ることとなった。
伯爵家の長女として大切に育てられたエルヴィラは、部屋も服も持ち物も専属の使用人も、全てマデリンに譲り渡すよう命じられ地下室に追いやられた。父に救いを求めようにも、伯爵は弱る一方で寝室から出られない有様だった。
水仕事などしたこともない手は強制された家事労働で荒れ、かつて母親が自ら梳いてくれた栗色の髪は切り刻まれ、ボロボロの服を着たエルヴィラは浮浪児と変わらなかった。
マデリンは母を見習うように自分こそが伯爵令嬢だと振る舞い、エルヴィラと取って代わろうとした。
表面的に伯爵家の後妻の座に納まったバーサたちは、それだけでは飽き足らなかった。エルヴィラに食べ物もろくに与えず、ことあるごとに暴力を振るうようになった。手に入れた権力を正当な後継者を虐げることで実感したかったのかもしれない。
この頃になると伯爵は本格的に病んでしまい、自室に軟禁状態だった。対外的なことを法律家に、伯爵親子の無事を確認しようとする者は用心棒の兄弟に任せ、バーサはいよいよ伯爵家を手中にしようとしていた。
虐待はエルヴィラの心を歪ませた。バーサたちに対する憎しみは主に異母妹を名乗るマデリンに向けられ、幾度も彼女を同じ目に遭わせる妄想に浸った。そして助けてくれない父を恨んだ。
傭兵崩れたちは屋敷のメイドたちにも無体を働いた。暴行されて逃げ出した者も一人や二人ではなかった。エルヴィラがこれほど酷い様子でなければ、彼らのおぞましい手は彼女にまで伸ばされていたかもしれない。
彼女の味方は先代から仕える執事だけだった。表向きはバーサたちに恭順したように見せかけ、こっそりと食事や最低限の世話をすることでエルヴィラの命を繋いでくれたのだ。
しかし、そんな彼ですら追放される時が来た。覚悟を決めた執事は屋敷から追い出されたその足でエルヴィラの母方の祖父エクセター伯爵の元に駆け込んだ。彼はハートレイ伯爵家の惨状を訴え、親子の救出を懇願した。それは大きな転機だった。
警務省の重鎮であるエクセター伯爵はすぐに部下に捜査させ、証拠を集めてハートレイ伯爵家を急襲した。傭兵崩れの男たちは完全武装の突撃隊に制圧され、逃げ出した法律家もほどなく捕縛された。バーサは保身のため伯爵に無理矢理遺言を書かせようとした。それを伯爵が渾身の天賦『拡声』で突撃隊に伝えたのが決定打だった。そして栄養失調で半死半生状態だったエルヴィラは間一髪で地下室から救出された。
ハートレイ伯爵親子は王立病院に搬送された。エクセター伯爵は娘の喪も明けないうちに愛人を引き入れたと誤解したことを伯爵に謝罪し、残されたエルヴィラのことはエクセター家が責任を持って養育すると公正証書に記した。
数年がかりでエルヴィラは回復したが、伯爵は結局療養所を転々とする日々を送り、先日亡くなった。最期に涙ながらに娘に詫びる姿を見て、彼女はようやく父への恨みを捨てることが出来た。
当時のことを思い出すと、エルヴィラは今でも過呼吸を起こしそうになる。逮捕された後、伯爵家乗っ取りを企んだ者たちはそれぞれ処罰された。バーサや兄弟という男たち、自称法律家は全員収監され、今も尚余罪が膨れ上がっている。
バーサが働いていたのは酒場と言っても給仕する女が気に入れば二階で一晩を買うような店だった。鉱山の責任者たちとの会食に伯爵が来ると聞きつけたバーサが手伝いと称して押しかけ、彼に怪しげな薬を入れた酒を飲ませて一緒に一晩を過ごした。それが事実だった。
伯爵は断じて肉体関係は持っていないと証言した。病気の妻と生まれたばかりの娘を裏切るような真似など考えもしなかったと。
エルヴィラは父を信じることにした。バーサ親子が名乗り出てから、伯爵は明らかに体調を崩していった。健康と正常な思考を奪う何かを盛られていたと考えるのが妥当だろう。バーサの罪状は違法薬物取扱も入っていた。
エクセター家の祖父たちに保護されながらエルヴィラは成長した。そして、首都キャメロットの音楽堂で、祖父の知人に紹介されたラザフォード侯爵家の長男パトリックと出会った。
どこか翳りのある美貌のエルヴィラに惹かれたパトリックは正式に交際を申し込んだ。祖父は過酷な経験で深刻な人間不信に陥っていた孫娘を心配した。だが、パトリックはどこまでも誠実に真摯に接し、エルヴィラはためらいがちに恋に落ちた。ハートレイ家の醜聞を知るラザフォード家の者を説き伏せてパトリックは求婚した。
愛し合う夫婦の結婚生活は順調だった。ただ一つ、子供に恵まれないことを除いては。
年月を経るごとに侯爵夫妻や親戚たちが彼女に向ける視線が厳しくなり、パトリックに一族から養子を取るか離縁するかの選択を突きつける者までいた。夫は妻を必死で庇ってくれたが、だんだんと疲弊していくのが傍目にも分かった。
マデリンとの再会をエルヴィラは思い起こした。
ある日、疎遠だった叔父ハロルドが侯爵家を訪れた。彼は一人の若い女性を伴っていた。それがマデリンだった。
十数年ぶりに見る『異母妹』は恐ろしいほど母バーサそっくりに育っていた。彼女はエルヴィラを見るなり、「お姉様!」と駆け寄ってきた。
反射的に伸ばされた手を叩き落としたエルヴィラは立っているのがやっとだった。マデリンは哀しげに目を潤ませ、唇をわななかせた。
「まだ、許してくれないのね」
「母親と一緒にアッシュヒル監獄にいるのかと思っていたわ」
冷徹な声を聞き、マデリンは涙を浮かべた。
「酷いわ、あたしは子供だったのよ。あれは母さんたちがしたことなのに」
いかにも弱々しく泣き始めるマデリンの肩を庇うように抱いたハロルド叔父が、エルヴィラを非難した
「もう少し親切にしてやれないのか、彼女はパトリックの子供を懐妊しているんだぞ」
その言葉はエルヴィラの心の奥に閉じたはずの扉をこじ開けた。忘れたい記憶が溢れだし、思わず彼女は声を立てて笑っていた。笑わずにいられなかった。
いやらしい笑みを浮かべて伯爵家の館を値踏みする赤毛女。それを取り囲む男たち。震える手で娘を抱き寄せる伯爵。追いやられた地下室。どんなに訴えても誰も助けてくれなかった暗黒の日々。
その後のことはぼんやりとした記憶しかない。気がつけば自室で泣き叫んでいた。傍らにはパトリックがいた。彼女が静かになるまでずっと抱きしめてくれた。
叫ぶ気力もなくなったエルヴィラに彼は告白した。
「二、三ヶ月前だ。母から離縁のことを持ち出されていた時、又従兄弟のイーサンに気分転換をしようと穴場だという下町の酒場に連れ出されたんだ。そこで一杯目も飲み干さないうちに意識が朦朧として、気付けば知らない部屋――酒場の二階で見たことのない女性と一緒にベッドにいた。すぐに彼女を追い出し、イーサンに悪ふざけにもほどがあると怒鳴った。冗談だと謝ってくれたのでそれですんだものだと思っていた…」
「……それが、マデリンなのね」
「すまない、君の父上のことを知っていたのに迂闊だった。自分には起こらないとどこかで高をくくっていたんだ。だが、僕の子供ではない。それだけは信じてくれ」
彼の必死の謝罪を聞く間、エルヴィラは無表情に涙を流すだけだった。
侯爵家の一族の反応は二つに割れた。ちょうどいいから子供だけ引き取って金を握らせて追い出せという者、詐欺師だ警察に突き出せという者。
彼らの紛糾を楽しむように、マデリンは侯爵家に居座り続けた。酔ったパトリックに寝室に引きずり込まれたのだと訴え、完璧な被害者を演じながら。陰では使用人にエルヴィラが子供を産めないのは傭兵崩れどもに監禁された時に慰み者になっていたからだと噂を流し、一族の者の耳に届くようにすることも忘れなかった。
マデリンを見るたびに過去の記憶に苦しめられるエルヴィラを心配したパトリックは、夫婦で侯爵家本邸を出る決心をした。彼女を母方のエクセター伯爵家に預け、彼は立ち去った。妻を抱擁し、待っていて欲しいと言い残して。
あれから一ヶ月以上が経過している。エルヴィラは夫を信じていたが彼からの連絡はほとんどなく、侯爵家の親族は跡継ぎも生めないくせにパトリックにしがみつく悪女だと彼女を罵り続ける。心は折れる寸前だった。
* *
ホールから吹き抜けの回廊にいるエルヴィラを見上げていたマデリンが不意に表情を変えた。
「嫌だわ、石女なんか見てたら赤ちゃんの具合が悪くなりそう」
妊娠できない異母姉へのきつい当てこすりだ。言われたエルヴィラは眉一つ動かさなかった。
「大事にしている素振りにしては、こんな早くからお酒を飲んでいるのね」
マデリンから漂う酒の臭いは誤魔化しようがない。侯爵夫人の目があれば許されないので、彼らが起きてくる前を狙ってくすねたのだろうか。
拾われた野良猫が家に置いてもらえると確信すると図々しく豹変するような自堕落ぶりだと執事から聞いていたが、こんなところもバーサに似ているとエルヴィラは灰色の記憶を甦らせた。
だらしなくはだけた部屋着を直そうともせず、マデリンは豪語した。
「悪い? どうせいつかこの家全部があたしのものになるんだから。あんたみたいな辛気くさい格好よりマシよ」
大した自信だと思いつつ、エルヴィラは告げた。
「喪服と地味な装いの違いも分からないの? 言ったでしょう、ハートレイ伯爵が亡くなったのよ。あなたが自分の父親だと言い張っている人が」
出自を否定され、マデリンは噛みつくように言い返した。
「父親よ! あの男と確かに寝たって母さんが言ってたんだから!」
「酒場に見せかけた淫売宿で問題ばかり起こして追い出されそうになったから、鉱山の視察に伯爵が来ると聞いて計画を練ったと本人が証言しているのよ。裁判でね。たまにはアッシュヒル監獄に面会に行くついでに記録でも読みなさい」
「うるさいっ! いつもいつもお高くとまって人を馬鹿にして!」
グラスを投げ捨て、マデリンは大股で階段の所まで来た。怒りに歪む顔もバーサにそっくりだとエルヴィラは思った。暴力の記憶に負けまいと腹に力を込める。
「弱っている相手に薬を入れた酒を飲ませて前後不覚にしてベッドに潜り込む。親子揃って同じ手口を使うのね。淫売宿に手引き書でもあるのかしら」
「この子はパトリックの子よ!」
叫ぶマデリンにエルヴィラは淡々と告げた。
「生まれてみれば分かることよ。その子にラザフォード侯爵家特有の天賦がなければ侯爵夫人は決して孫と認めない。伯爵家の血を引くと自称しても相手にされないあなたと同じに」
この国の貴族には各血統特有の能力――天賦が受け継がれている。下層階級出身のマデリンにはその意味と重さは実感できないようだ。
「はっ、音がどうのってしみったれた事ができるだけで偉そうに。この子が生まれたら責任取ってもらうんだから! あんたの旦那にも、侯爵家にも!」
音声に関する天賦はハートレイ伯爵家特有のものだ。無論、この侯爵家にも特有の能力が受け継がれている。
「その程度のことすら受け継がなかったのよ、あなたは。お腹の子供も期待薄ね。気をつけなさい、侯爵夫人は自分を欺いた者を決して許さないわ」
正確には、自分に過ちを犯させた者をだ。マデリンの主張を完全には否定できないと彼女が判断したことに反発したパトリックとエルヴィラは侯爵邸を出た。息子に背かれ直系の孫ができる夢から覚めた侯爵夫人が、容赦なく槍玉にあげるのがマデリンなのは疑いようがなかった。
それでもマデリンは怯まなかった。
「生めもしないくせに負け惜しみ? ねえ、子供ができなくて追い出されるのってどんな気分? あたしみたいな取るに足らないって思ってた女に旦那を取られるのは?」
「母親を見習って、パトリックと似た男を相手にその子を作ったのね。あなたの父親は、あの女の取り巻きの一人でしょう? 目の色と耳の形がそっくりですもの」
エルヴィラに指摘され、思わずマデリンは自分の耳に触れた。幼い頃の伯爵邸の人々を思い出しているのかもしれない。
あの頃、対峙する姉がボロ雑巾のようだった記憶に行き着いたのか、マデリンは笑った。
「そんなの、証拠にならないんだから! あたしだって被害者なのよ。娘なのに伯爵家を追い出されて、誰も引き取ってくれなくて、汚い施設に行くしかなくて、どんだけ苦労したか分かんないでしょ! あんたさえいなかったら、あたしが伯爵家のお嬢様だったのに!!」
『異母妹』の切々とした訴えに、エルヴィラは表情一つ動かさなかった。
「ハートレイ家のことを知れば、誰も毒蛇を家に入れようとは思わないわ」
天賦は本人の資質に関連なく備わるのではない。音を操るハートレイの直系はほぼ全員が絶対音感を持っている。見たところマデリンには備わっていない資質だ。エルヴィラは警告した。
「この家の人を誤魔化せると思わないことね」
「何を誤魔化すって言うのよ、あたしは、あんたが一生かかってもできないものを、侯爵様にあげるんだから」
「息子なら天賦を持たない時点で放り出されて、あなたは詐欺罪で監獄行きよ。母親と同じ所にしてもらえるかしらね」
最も触れられたくないこと――犯罪者の娘だという指摘――を言われ、マデリンは逆上した。
「勝手なこと言ってんじゃないわよ! 娘なら天賦を受け継ぎにくいし、そもそもお貴族様でも天賦持ちは減ってるって知ってんだから!」
彼女は階段を駆け上がり、降りてきたエルヴィラと踊り場で向き合った。息を整え、どれほど上から目線で嫌味を言われようと自分には決定的な切り札があるのだと嗤う。
「子供一人産めなくて追い出されかけてるくせに。教えてあげる。あんたに子供ができないのは、親になる資格がないからよ。でもあたしは優しいからあんた一人くらい飼ってあげるわ、地下室でね。そこで子沢山のネズミでも羨ましがってれば? 生めない女なんてネズミ以下の価値しかないんだから」
微かにエルヴィラの顔が歪むのを目にしてマデリンは勝利感に浸った笑い声をたてた。だが、次に姉が妹に告げたのは残酷さでは引けを取らなかった。
「娘なら三代続けて人の家に毒を注ぐようになるのかしら。せめて娼館で働けるといいのだけど」
無表情に発せられた言葉にマデリンは息を呑んだ。そして拳を振り上げ、エルヴィラに殴りかかった。酒の入った動作は鈍く、エルヴィラは楽に躱すことができた。拳の振り降ろし先を失ったマデリンがよろめきたたらを踏む。彼女は体勢を立て直そうとして後ずさり、その拍子に階段を踏み外した。
ゆっくりと、マデリンの身体が後ろ向きに傾いていく。宙を掴むようにあがく手を、咄嗟にエルヴィラは掴もうとした。
だが、彼女の手は途中で制止した。手を伸ばす代わりにエルヴィラがしたのは自身の天賦を発動させることだった。
「天賦、『消音』」
その瞬間、ホールから音が消えた。マデリンの息づかい、背中や腰を打ちつけながら階段を転がり落ちる音、ホールの床に全身を叩きつける騒音、衝撃と苦痛の叫び。
全てが早朝の空気の中に霧散した。その中を、衣擦れの音すら立てずエルヴィラは階段を降りていった。
憎悪の視線を姉に向け、マデリンは起き上がろうとしたができなかった。下腹部に激痛が襲ったためだ。痛みを堪え、尚もエルヴィラを罵ろうとして、彼女は身体の異常に気付いた。部屋着が赤く染まり、赤い液体は周囲の床にもじわりと広がっている。出血しているのだ。
恐怖の表情でマデリンはエルヴィラを見上げた。さっきまでの刺々しさもふてふぶてしさも消え失せた、怯えた子供のような顔だった。赤い唇が必死に声を出そうと動く。
エルヴィラは音のない空間の階段を降りた。ホールに倒れるマデリンを見下ろす顔には何の表情もなかった。
異母姉を仰いだマデリンの顔が更に青くなる。幾度も動く口元が吐き出す言葉は、読唇術の心得がなくとも容易に推測できた。
『た・す・け・て』
彼女にちらりと目をやっただけでエルヴィラはその側を通り過ぎた。まるでこの場に誰もいないような、完全な無視だった。床を叩き、マデリンは必死に呼びかける。しかし声は伝わらない。
喉が張り裂けるような絶叫がホールの空気に溶け消える。エルヴィラは一度も振り返ることなく出て行った。
その間にも出血は広がり続けた。医学知識のないマデリンでも、これが流産の兆候だと直感できた。どうしても立ち上がれない自分が重症を負っていることも。沈黙が支配するホールで、彼女は死に物狂いで叫び続けた。
『助けて!! 痛い!! ねえ、赤ちゃんだけでも助けてよ! お願い、誰か聞いて! やだ、赤ちゃんが死んじゃう! やだやだやだ!!! …ねえ、聞いてよ……』
絶望の沈黙の中で、彼女は叫び続けた。
待たせていた馬車に乗り、侯爵邸の門を過ぎるとエルヴィラは自身の天賦を消した。
――解除。
同時に、外にまで閉じ込められた音が漏れ聞こえた。
階段を転げ落ちる激しい物音と、マデリンの絶叫が。
エルヴィラは目を閉じた。今頃屋敷の使用人が慌ててホールに駆けつけているだろう。マデリンは盛大に自分は被害者だとわめいているはずだ。エルヴィラに突き落とされたくらいは言っているかも知れない。
「無駄よ」
小さな呟きは氷のカミソリのようだった。
使用人はエルヴィラの天賦を知らない。彼らが知っているのはマデリンがだらしなく朝から酒を飲んでいたことだけ。
ふらついて階段から落ちたことをその場にいないエルヴィラのせいにする、愚かな行為としか映らないだろう。『消音』から解放された後は、声が聞こえているはずの人々に自分の言葉が伝わらない状況が待っているのだ。
目を閉じたままのエルヴィラの脳裏に消えない記憶が甦る。
『やめて、痛い!』
バーサたちから面白半分に殴られ蹴られ、地下室に閉じ込められた日々。何百回、何千回訴えただろう。助けてくださいと。
彼女の言葉は誰にも届かなかった。父は病床で廃人一歩手前で、使用人たちはバーサたちを恐れてみて見ぬ振りをした。反抗すれば徹底的に殴られ、すぐに諦めれば物足りないと蹴り飛ばされた。下層階級の自分たちが伯爵令嬢を虐げることに酔いしれるように。
そしてマデリンは。確かに彼女は何もしなかった。ただ、母親の陰から見ていただけだ。エルヴィラから奪った全てのものを身につけて、ボロ人形のように虐待される姿を指さして嗤っていただけだ。
それでも彼女は言うのだ。自分は悪くない、何もしていないのだからと。
――自分の声が他人に届かない絶望が分かった? 救いを求めても得られない苦しさが分かった? 自分の中の命が消えていく気持ちはどう? 侯爵家から放り捨てられる未来はどう?
マデリンが何もしていないというのなら、エルヴィラも何もしていない。ただ、助けを求める声を無視しただけだ。聞こえなかったから。
あの自称異母妹が夫を寝取ったと言い張るだけなら我慢できた。だが、嘲笑いながら掛けられた言葉――親になる資格がないから子供ができない――は彼女に境界を越えさせた。
結婚しても子供ができず、何人もの医師の診断を仰いだ。その一人が気の毒そうに言ったのだ。成長期の栄養不足で妊娠のための臓器が成長不十分なのかもしれないと。
それを聞いた時、エルヴィラの裡を満たしたのは強烈な殺意だった。自分を虐げ、温かな子供時代を塗りつぶし、悪夢に飛び起きる夜を過ごさせ、父との時間を失わせ、その上に母親となる機会すら奪った者全てをこの手で殺してやりたいと。
バーサも、彼女の情人たちも、そしてマデリンも。
そこまで考えてエルヴィラは失笑した。自分は確実に一つの命を葬っただろうに何の感情も湧かない事に気付いたためだ。
「資格がない……」
唇をついて出た言葉は苦かった。
粗末な貸し馬車は乗り心地が悪く、道路の凹凸をいちいち拾っては座席を揺らす。エクセター伯爵家のものを使うこともできたが、エルヴィラはあえてこの馬車にした。祖父が最近目に見えて衰えたため、爵位継承で多忙な伯父を侯爵家の醜聞に巻き込みたくなかった。
膝に置いたレースの手提げ袋を握りしめると、かさかさと音がした。エルヴィラは未読の手紙があることを思い出した。
迷った末に、彼女はパトリックからの手紙を取り出した。冒頭をちらりと見ただけでしまい込んでしまったが、自分には読む義務がある。
同じ袋に入っている婚約時代の手紙は一字一句覚えている。常に『愛しいエルヴィラ』で始まることも。彼の優しさと細やかな愛情に救われ、この人となら一生寄り添っていられると温かな気持ちで胸を満たしてくれた手紙だ。
本当に愛していた。夫婦でいられた七年の思い出だけでもこの先の人生を照らせると思うほどに。彼が隣にいない人生でも。
今、彼が自分に告げたい言葉があるなら受け止めねばならない。たとえ離別の言葉でも、結婚を後悔する言葉でも。
エルヴィラは手紙を開いた。幾度も深呼吸をしてから懐かしい彼の字を追う。
読み進むにつれ、レースの手袋に包まれた手が震え始めた。嗚咽を漏らしたエルヴィラの頬に涙が伝った。それが手紙に落ちインクを滲ませても、彼女は涙をこぼし続けた。
『愛しいエルヴィラ
もう限界だ。
子をなせないということだけで君の全てを否定する親族たちを庇護する義務など、僕は果たす気はない。
マデリンはハロルド叔父に取り入って僕に接近する機会を得た。事が大きくなりすぎたのに気後れした又従兄弟のイーサンが白状したよ。叔父に言いくるめられて僕をあの酒場に連れ込んだと。
彼女の子供の父親は叔父だろう。上手くいけば天賦を持つ子供ができると思ったのかもしれない。ハロルド叔父が天賦を持たない庶出と知らないのだろうか。
僕はラザフォードを捨てる。母から子供が生まれるまではマデリンを家に置くと言われた時に決意した。侯爵家の特徴さえあれば父親が誰でも僕の嫡出子にするつもりらしい。君と僕をどれだけ傷つけるのか考えもしない顔だったよ。
行き先は既に用意してある。君と避暑に行ったロッホ・ケアー近くの街だ。鉄道が通り開発が見込まれる地域で、事業を立ち上げる計画も順調だ。僕の天賦『透視』も役に立ちそうだ。
生活基盤を築くのに時間がかかってしまったが、エクセター伯爵は上手く説明してくれただろうか。
もし君が不甲斐ない僕を許してくれるのなら、ここに来て欲しい。君が好きだと言った湖を眺める家で暮らそう。侯爵家ほどの贅沢な生活はできなくとも不自由させないと誓うよ。
ラザフォードは継ぎたい者が継げばいい。見てくれだけで中身は腐り朽ちていくだけの侯爵家を支えられるならそうすればいい。僕が望むのは君だけだ。
常に君の愛を乞うパトリック』




