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鳩を操る男の堕落

作者: 紫生サラ

 力強い声。それに応える歓声。

 目の前で繰り広げられるショーに僕は怖気づいていた。

 無理だ。絶対に。ここは僕のような人間の来る場所じゃない。

 場違いだ。観客席に座ることはあっても、ステージ側に立つなんて。

 僕の爪先の前には、踏み越えることのできない見えない段差でもあるみたいだ。震える足ではとても越えていけそうにない。今にもしたたり落ちそうな手汗を何度もズボンで拭い、萎縮する肺に懸命に酸素を送り込もうと肩を上下させる。

 みっともなくないか? こんなにシワクチャになったズボンで出て行って? 耳まで赤くした状態で出て行って……?


「つまんねぇこと考えるなよ」


 鋭い声が耳元でささやく。言い訳をどんなに増やそうとも逃げ出すという選択肢に天秤が傾くことはない。

 退路はなかった。

 進む道は眼前にただ一つ。前に進むことだけが僕に許された選択肢だった。


「何も問題ない、お前ならやれる。あの大学教授よりも注目を浴びることになる。聴衆は惹きつけられる。ここにいる全員がお前の仲間になる! さあ、行け!」


 僕の背中を押された。

 厳しく、甘い声で。

 ひどい手汗に、とまらない足の震え。

 僕は押し出されたんだ。


   ☆

 

 数日前。

 さびれたベンチに腰を下ろして硬いパンをちぎる。

 ボロボロとカスをこぼれはじめると、広場を根城にする鳩が目ざとく僕の前に集まりだした。

 貧しく弱い彼らは、僕がここに来ることをわかっている。

 そして、僕がくれば今日の糧が天から降ることを知っている。僕はその期待に応えて、カス以上のパンを降らせた。はじめに来た数羽がパンに群がり、それを遠巻きに見ていた別の数羽がやってきはじめると次々に鳩の数は増えていく。

 我先に、我先にと、パンを求めて。


「慌てるなよ」


 僕は群がる鳩に目を細めた。僕がパンを投げれば、鳩たちは一斉にそちらに向く。右に左に、まるで僕が鳩たちを操っているかのような錯覚する。僕がパンを投げ続ければ、鳩はずっと僕のあとをついてくるだろう。


「またこんなところで、鳩に恵みを与えてやっているのか?」


 海を割るモーゼさながら、鳩の群れを割って現れた友人が僕の隣にどっかりと座る。

 鳩はわずかな動揺のあと、友人の歩いた道を何事もなかったかのように閉ざしてまたパンを探し求めた。


「ああ、僕がいないと鳩が飢えてしまうからな」

 

 友人が鼻で笑う。


「まあいいさ。それはそうとそろそろ仕事の時間だ」

「もうそんな時間か」


 軍の諜報員。それが今の僕の仕事だった。

 あの戦争のあと、この国には経済的にも金銭的にも大きな打撃を受けた。

 失業者は七百万人を超え、政治は混迷、国民は糧を求める鳩のようにさまよっている。

 明確な希望も指針もなく、未来への不安と現状の不満を胸にうちにため込んでいる。

 それがこの国の今の姿だった。

 みんな何らかの希望を求めている。

 それがどんなものでも構わないのだ。とはいえ、それは国民の一心情にすぎない。

 軍部からすれば、自分たちの権利や地位を危うくするような存在が台頭されては面白くない。こんな状況であっても……。

 労働者党への調査もその一つというわけだ。

 僕が集会場に入っていくと、ちょうどバウマンという男が声を張り上げ演説をしている最中だった。

 僕は後ろの方で腰かけると聴衆に溶け込み耳を傾ける。

 さすがは大学教授だ。

 理屈も主張も筋が通っている。

 バウマンの見事な演説は、熱気を帯び聴衆を高揚させている。

 僕もこんな立場じゃなかったら……。


「くだらんな」


 鋭い言葉に僕は思わず声の主を見た。

 行儀悪く投げ出された足に、深くかぶった帽子からわずかに見える細い顎と鋭い目。小柄な若い男だ。


「なあ、あんたもそう思わないか? くだらん上につまらない。これならば子守歌の方がまだ心が躍る」


 鋭い眼光を向けられ、僕はドキリとして反論の言葉を飲み込んだ。


「手振り、身振り、表情、姿勢、視線に、声の抑揚高低、髪型、服のセンス……どれをとっても落第だ。ああ、ついでに言えば顔もよくない……」


 男はそう言ってコーヒーカップを傾ける。すっかり冷めたコーヒーがトロリと男の口に流れこむ。そして一息ついたあと今度は声のトーンを落としてまた言った。


「何より、弱い」

「弱い……?」

「弱者に従って行くよりも、強者に引っ張って行ってもらいたい……大衆とはそのように怠惰で無責任なものだ。奴の言葉にはそれがない、圧倒的な強さがな」


 僕はいつの間にか、バウマンもその熱にうなされる聴衆のこともまるで目に入っていなかった。それが僕の仕事だというのに。

 そんな僕に興味を持ったのか、男は僕にそのヘビのような冷たい目を向けた。


「あんた名前は?」

「僕の名前は……」


 名乗ろうとして僕は咄嗟に口をつぐんだ。

 ここには調査に来ているのだ。

 こんな得体の知れない奴に名前を知られていいはずがない。


「いい声だ、それに頭もいい」


 男はニヤリと笑い僕に顔を寄せる。


「なあ、あんた、この国を変えてみたいとは思わないか?」


 これが僕とこの男、アドルフとの出会いだった。


   ☆


 アドルフと会って数日後。

 僕はあのバウマンの前に立っていた。

 アドルフの厳しく、甘い声で背中を押され、ひどい手汗と足の震えに苦慮しながらそこに押し出されたんだ。

 情勢は明らかに劣勢。

 著名な大学教授バウマンを前にして、無名の僕に期待を寄せる者などこの場にはいない。

 聴衆の興味は、僕が「戦意を失い、口を閉じるまでに何分かかるか?」ということくらいだった。

 それはバウマンの表情からも見て取れた。生殺与奪の権利は自分の手の内にある。それを微塵も疑っていない。

 しかし、一言、二言と言葉を交わすうちに状況は変わっていった。

 聴衆は僕に意識を向け、僕の言葉に呼応し、同意し、支持した。

 あのバウマンすらも僕の言葉に興奮した。

 僕はみんなに称賛され檀上をあとにした。

 全部アドルフの言う通りだった! 

 すべてアドルフの用意した台本とアドバイスのおかげだ。

 弁論が終わった後の僕をアドルフは称賛して迎えてくれた。

 そして、ささやかながら今日の祝杯を挙げた。僕はまださっきまでの出来事が夢のようで、身体が熱気に包まれている感じがした。

 身体は疲れ、喉は枯れているに奇妙な高揚感が身体から抜けきらないでいた。


「今日はすばらしい出来だった! 予想以上の出来だった!」


 僕は何か答えたかったが喉が枯れて声が出なかった。そんな僕の様子を見たアドルフはふと真剣な面持ちになって顔を寄せるように身を屈める。

 僕もそれにつられて彼に顔を寄せた。

 周囲のざわめきが遠のくと、小さな声のはずのアドルフの声がよく耳に届く。


「俺たちの手でこの国を変える」


 僕は思わず噴き出した。するとアドルフも笑った。

 あの時もそんなようなことを言っていたっけ、それで今日に備えたんだ。


「いいな、そういうの。国を変えるか……」

「ああ、国だけじゃない、世界だって変えられる、お前と俺ならな」


 アドルフは言った。

 確かに今日の成功はそんな言葉は口にさせてしまうほどの勢いがあった。

 学生時代、友達同士で出来もしない大きなこと口にしてじゃれ合う。本気じゃなくて、ノリだけの心地のいい会話をする。これはまさにそんな感じだ。大人になり、現実を知るほど遠ざかるようなそんな会話は酒に酔うような心地よさがある。


「アドルフ……?」


 アドルフは内ポケットから何かを取り出し僕の前に差し出した。


「これは……!」


 それは数枚の金貨だった。


「この国を変える」

「……!」


 この国でこの金貨がどれほどの価値があるのか? とてもじゃないが、冗談で済ませられる額ではない。


「国だけじゃない、世界だって……」

「アドルフ……」


 アドルフは驚く僕の肩を叩き、「来週また会おう」そう言って席を立った。僕は手汗をかきながらテーブルに残された金貨をただ見つめていた。


   ☆


 僕はあの公園にいた。

 パンを買い、ちぎっては鳩に降らせていた。

 鳩は僕の周囲に集まりパンを求めた。

 この国を変える……。アドルフはそう言った。

 一体、何をする気なのだろう?

 世界だって変える……。大口を叩くだけで、あれほどの金額を置いていくだろうか?


「もし、これだけの金があれば……」


 僕には夢があった。

 父さんに反対されたけど、画家になるという夢だ。

 父さんは貧しい庶民の出だったけど、街に出て自力で成功した人だった。

 役人気質で出世欲が強く、自分の願望を実現できる実行力を持ち合わせている人だった。そして息子にも自分と同じ道を歩ませたかったらしい。

 でも、僕は芸術で身を立て、その金で暮らし、愛する女性に結婚を申し込んで結ばれる。そんな生活を夢みていた。

 だけど、それは叶わなかった。

 僕は美術学校を二度落ちた。しかも、二度目は一度目よりもひどい成績で。

 僕は自分が見ていた夢が、想像しているよりも遥かに高い壁なのだと知った。

 それでも意地があった。

 僕は実家に戻ることなく、住む場所を失っても絵葉書を描いて売ることでわずかな生活費を稼いで暮らした。

 理想の暮らしとは程遠い、貧しいその日暮らしの生活はみじめなもの以外のなにものでもないと知った。やがてあの戦争がはじまり、国そのものが大きく変わってしまった。

 経済の悪化が不安と不満を生む。それは想像を以上だ。

 今日のパンを買うにも苦心する。それは多くの隣人の悩みになった。

 不安の中で喘ぐように息をして、不安を忘れるために震えながら眠る。

 起きれば、すべてが解決していると信じて。

 この国は、今も明日にも希望を持つことができず、それを何とかするための手段も知恵も、気力すらも持ち合わせていない。

 それは健全に鼓動しきることのできない心臓が、懸命に、微弱に血液を全身に巡らせようと拍動を繰り返しているのに似ている。 

 いっそのこと死ぬことはできないのか? 病んだその動きはひどく滑稽でもの悲しい。

 でも、この金があれば……もし、もっと手に入るなら……

 この生活を抜け出すことができる。


「待たせたな同志よ」


 鳩の海を割り、アドルフが僕の隣に腰かけた。


「やれやれ、色々根回しをしていたら時間がかかっちまった……」

「アドルフ、僕は……」


 僕は手つかずのままの金貨を握りしめた。この金貨があれば生活は変わる。

 画材を買い、学校に通い、もう一度、夢を追うことだってできるかもしれない。

 いや、そうじゃなくても、しばらくはいい暮らしができる。

 でも、この金貨を受け取れば、きっとあと戻りは出来ない。

 僕はどうしたらいい?

 受け取っていいのか? 返すべきか? 

 返すのなら、今しかない。


「アドルフ、この金貨なんだけど……!」

 

 アドルフは彼の印象からは考えられないような親しみのある口調で切り出した。


「なあ、相棒。お前はもっといい服を着たり、うまい飯を食ったり、女を好きなように抱いたりしたいと思わないか?」

「それは……」

「国を変える。確かに俺はそう言った。だが、それだけを大義名分に頑張れるか? 俺はイヤだね! 頑張る人間にはご褒美が必要だろ。相応の報酬が」

「相応の、報酬……?」

「そうだ、国を変えるだけのことをするんだ。街を見ろ、仕事を失い路頭に迷う人間がどれほどいる? 希望を失いうなだれるやつは? 国を変えるってのは、あいつらを救ってやるってこった。一人二人を救うんじゃない、この国全員をだ! それにはそれ相応の報酬があって当然だろ? 住まい、服、食事、女、名声、地位……それを拒む必要はどこにもない。当然のものだ。違うか?」

「アドルフ……」

「それともお前は、この国がこのままでもいいのか? 変えたいと思わないのか?」

「それは……もちろん、変えたいよ」

「OK! それでこそ相棒だ! じゃあ、俺たちの計画を始めよう」

「何をするんだ?」

「まずは、あの労働者党を俺たちのものにする」


 僕はアドルフの言葉に金貨を握りしめていた。パンを手放した僕の周囲からはすでに鳩はいなくなっていた。


   ☆


 あの日から僕たちはコンビを組んだ。

 彼がシナリオを描き、演出し、僕がそれを実行する。

 服装、髪型、髭に至るまで、彼の言うとおりに変えた。僕の希望で名前も変えた。

 表舞台に立たない彼の名前を残すためだ。僕は彼の名乗ることにしたのだ。

 僕は彼の指揮のもと演説を繰り返した。

 そのかいもあって、労働者党の支持は瞬く間に僕たちに傾いていった。

 党内での分派闘争では追放の憂き目にあったが、それも党執行部の協力により復帰を果たした。これを機に僕は第一議長に指名される幸運を得た。

 僕たちは政財界に人脈を広げ、民衆の心をつかみ支持者を増やした。時に逮捕されるというアクシデントにも見舞われたけど、アドルフは臨機応変に対応してくれた。

 そして、労働者党で出会い僕が彼の名前を名乗るようになってから十四年。僕はついにこの国の首相に任命された。

 その翌年には大統領が死去。

 アドルフはすぐさま法を発効し、国家元首である大統領の職務を首相の職務と一つにした。

 これにより、僕は事実上のこの国のトップとなった。

 僕たちの目標。国を変えるという計画はいよいよ実現味を帯びてきていた。

 しかし、その頃からか、僕たちの意見は対立をするようになっていった。


「なぜだ、なぜ罪もない人たちを殺さなくてはいけない? そんなことが許さるのか?」


 僕は自室でアドルフに訴えた。


「許される許されないは問題じゃない。今必要なのはこの国が一つになることだ」

「そのために人殺しが必要なのか!?」

「大衆の多くは無知で愚か……適当な理由をつけてやれば少しも疑うことはない。共通の敵を持つことで、バラバラだったものを一つにできる。こんな有意義なことはないだろう?」

「しかし……!」

「平和は剣によってのみ守られる。その剣がいつも敵国に向かうとは限らない」


 アドルフは頭が切れる。僕がここまでこれたのは彼がいたからだ。

 だから、アドルフの判断はきっと正しい。これが今のこの国の最善の方法なのだろう。

 だけど、それでも……。


「エヴァ……だったか、彼女との関係を壊したくはないだろう? それとも今からすべてを投げ出し、あの公園で硬いパンを鳩に恵んでやる生活に戻るのか?」

「……」

「女は弱い男を支配するよりも、強い男に支配されたがる。強いお前を見せてやれ」


 アドルフの言葉に僕は黙り込む。

 広い家、上等の服に食事、政治家になってから出会った歳の離れた恋人……僕はどれも失いたくなかった。それにこの国を変えるという計画はまだ始まったばかりだ。できれば、アドルフの考えを変えさせることでこの恐ろしい計画を止めたい。そう思った。

 いや、せめて他の誰かが、この考えに反対し、止めてくれるのを願った。

 しかし僕とアドルフの作り上げた影響力は予想を遥かに上回るものだった。 

 僕が一度言葉を発すれば、それは神の言葉の如く国中に伝わった。議会の誰かが勇敢に立ち上がり、反対することも、止めることもない。

 僕は唖然として自室で一人吐いた。

 それから虐殺の報を耳にするたびに僕の胃はキリキリと痛んだ。

 国民が一つの方向に向く。それは成功をした。結束力があり、目標達成のために原動力となった。すべてはアドルフの計算通り。

 この国の失業者はこの一年で六百万人から三百万人にまで減少している。

 この国は変わり始めている。それは確かなことだ。それにも関わらず、僕の心は疲弊していった。


   ☆


 戦争。それは避けては通れないものなかもしれない。

 衝突。理想の実現にはつきものなのかもしれない。

 アドルフの理想は他者との衝突は避けられないものだった。それは理解をしていた。しかし、今やそれは個人や集団、国内だけの話ではなく、国同士の戦いとなっていた。

 そしてそれは最悪とも言える大きな戦争へと発展する。

 今までのように善戦し、良好な結果を生んだかと言えばそうではなかった。

「偉大なうそつきは、偉大な魔術師だ」とアドルフは言った。彼の発想や言動、起こしてきたことはまさに魔術のような奇跡の連続だった。

 しかし、それは僕たちの言葉を解する者に限られ、声が届く範囲に限られた。

 偉大な魔術師のメッキはこの規模の戦いでは通用しそうにない。

 僕はますます頭を抱えた。多くの人が死んでいる。それは共通の敵として矛を向けた相手だけではない。この国の人間もだ。

 凶刃に倒れ、銃弾に倒れる。爆風に命を落とす。何の罪もない人が、家族のある人が、恋人のいる人が、僕の発した言葉によって見も知らぬ土地で殺し合い、死んでいく。

 それでもなお、アドルフは新兵器の開発に期待を寄せている。

 僕の胃痛は慢性的なものとなり、同時にひどい不眠症に安息の日々は失われた。

 アドルフを止めることはできない。

 状況はすでに取返しのつかないところにまで来ているにも関わらず。


「このままでは……」


 僕は自問自答を繰り返す日々の中である計画を実行することにした。「暗殺」だ。

 僕自身を、誰かに暗殺してもらうのだ。

 僕という存在がいなくなることでこの状況は変わる。

 少なくともこの戦争を終えることができるだろう。

 僕という人形がいなくなることで、アドルフは表舞台への発言権を失う。もうこんな凶行を繰り返すことはできないはずだ。

 僕はアドルフには悟られないよう、信頼できる部下とともに綿密に計画を練った。

 方法は、作戦会議場の巨大なテーブルの下に爆弾を設置するというもの。

 これで会議室ごと爆破する。

 会議室にアドルフが来ることはないが、アドルフ側の考えに近い人物も巻き添えにすることができる。彼の影響力を弱めることができるだろう。僕に忠誠を誓ってくれた部下が、僕と一緒に行くことを志願してくれたがそれは断った。


「総統……総統は恐ろしくないのですか?」

「震えているよ。箱舟から飛び立つ鳩のようにね」


 しかし、この羽ばたきがこの国にオリーブの枝をもたらすと信じている。

 計画は完璧だ。

 これでこの国を変えることができる。世界は変わる。そう確信して僕は会議室へと入っていった。

 会議室に入りわずか十分。会議室は爆風に包まれた。


   ☆


 僕は死ななかった。

 情報は寸前で漏れ、アドルフの耳に入っていたのだ。アドルフの側近の犠牲によって僕は守られた。参席者全員が負傷した中で僕は奇跡的に軽傷で済んだ。

 皮肉にも、これに尾ひれがつき僕には特別な力があると噂が広がり、僕への支持率はまた上昇することになった。そして、この件に関わったとして四千名が何等かの処罰を受けた。

 そのほとんどが僕に近い考えを持つものばかりだ。僕の計画は、アドルフにより利用されたのだ。


「アドルフ、もう終わりしたい」


 自室で二人きり。僕は彼に言った。


「終わりに? 何をだ?」

「戦争を。それに世界を変えるというこの計画そのものを」

「総統。まだ始まったばかりだ。今回は失敗だった。しかし、そんな時もある。常に勝利、常に優勢、常に成功、そんなことばかりじゃない。違うか?」

「違わない。だが、僕は終えたい」


 アドルフは表情を変えず、手にしたコーヒーカップを傾ける。視線は琥珀色の水面に落とされたまま。


「またあの公園で鳩にパンを恵むのか?」

「もう鳩はいない」


 アドルフは「そうか」と何度か頷いたあと「一週間後、南へ行く」それだけ言って部屋をあとにした。

 それが僕とアドルフの最後の会話だった。


   ☆彡


 参列者の少ない簡素な結婚式を終え、僕と妻は自室に帰ってきた。

 側近も部下もいない部屋には二人きり。 

 微笑む彼女に僕も自然と頬が緩む。

 僕たちは通じ合っていた。歳の差はあれど、本当の意味で結ばれている。

 なぜもっと早くこうしなかったのだろう? もっと早く一緒になっていればよかった。今はそんな風に思える。

 彼女はよくついてきてくれた、我慢してきてくれた。感謝の言葉しかない。

 僕はふと外のことが気になり本能的に窓を探した。けれど、この地下壕には窓はない。外を見ることなどできない。


「ねえ、何を考えているの?」


 妻が悪戯っ子のような口調で僕に問いかけた。僕は、ありもしない窓の外でも見るように壁に目を向け

「鳩は、いったいどこに行ったんだろうってね……」そう言ってピストルに銃弾を込めた。


  ※※※

 翌日、ラジオ放送により「総統は首都を防衛するため英雄的な死を遂げた」と告げられた。

  ※※※


 その後、南方アルゼンチンでアドルフらしき人物が目撃されている。

 晩年、年老いたその男がよく鳩にパンを恵んでいたという。

 目撃者によればその姿はとても寂し気であったと伝え残っている。


   おわり


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