キュレーター推薦賞②
キュレーター推薦賞受賞作
鈴木夜道 「家族がいた」
※画像投稿作品ですので、URLのみ記載致します。
https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=4631
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選評執筆者 渡辺八畳
これを詩の範疇に入れていいのだろうかという葛藤がないわけではないが、ものすごい引力を持つことには変わりない。そのような作品を無視するわけにはいかないだろう。
滲んだ、古びたインクのような線で描かれた人影と、かろうじて読める「長男」「あやの」「やっちゃんの奥さん」などの字。各々の続柄を表す説明書きがなければ人影は何の個人性を持たないアノニマスの集団になる。では、説明書きがあれば個人として存在を持つかというと、そうではない。吹き出物の輪郭線然とした単純な線図で表された人々は説明書きにて存在を示されているものの、それ以外は何一つとしてない。データとして存在が示されているのみで、実感は一切与えてくれない。
昨今はAIが実在しない人物の顔写真を作るまでに技術が発展している。何千何万枚と作ることが可能である顔写真たちはその者の存在をありありと示しているように見えるものの、実際はこの世には存在しない人たちだ。AIの顔写真と「家族がいた」は全く正反対な性質を持っている。「家族がいた」で示されている人々は(それが事実かどうかはさておき)存在している。しかし、それの証拠となるものは少しの確証も見るものに与えてくれない。真清水るる氏はスマホで見た故に家系図に見えたとコメントしているが、案外的を得ているかもしれない。家系図は何代も前まで祖先を遡れものの、それはデータでしかない。写真もなにも残っておらず、ただ一つの書物の文字としてしか存在を示せない人々を本当に心の底から存在を認められるだろうか。データが本当に存在の立証足り得るだろうか。データだけの「非存在」ではないだろうか。
いるのはわかっているが、そうは思えない。この不均衡さが不安を覚えさせる。 鈴木氏は「ファウンド・フォト」を引き合いに出している。これは蚤の市で売られていたりネット空間で置き去りにされていたり、撮影者や被写体が今では誰だか特定できない写真のことである。これもまた、存在を認められるかどうかのはざまにある。
今からもう10年前、2010年に行われた「第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦」というネット上の催しにて優秀作品に選ばれた、る氏の「みさき」という作品がある。去年2月にTwitterでバズったこの作品もまた、「吉野美咲」という人物の存在の不確かさが読み手に恐怖を与えてくる。「家族がいた」を見たときに思い出したのが「みさき」であった。「みさき」が長い時を経て再び多くの人々にも刺さったように、「家族がいた」もネットの海へ子の先も残り続けていたらいつの日か誰かを得も言われぬ恐怖の底へ落とすかもしれない。それぐらいの力がこの作品にはある。詩かどうかはともかく、すごかった。




