誤解の上書きをする大学生
久々の投稿で次話投稿の仕方を忘れかけていました
私は、生きた心地がしないのです。一度死んだから? 違う。知らない人の家に住むことになったから? 違う。人の嫉妬を買ってしまったから? 違う。
私が、生きた心地がしないのは、目の前で起こっているあらゆることが、私が全貌をつかむのを待たずに進行していること。それは、私がハンスさんへの質問に失敗したことも一つの要因ではあるのでしょうけれど、ただそれよりも前、具体的には炎天下の中で倒れたとあのきから、すでに私は状況に振り回されるのみなのです。運命に翻弄されることも、人生譚とすれば、確かにもっとも『生きている』らしいことなのかもしれないけれど、当事者としてはどうしても『生きている』心地がしないのもまた事実なのです。私はこの世界で、何を知っていて、何を知らないのでしょうか? 『cogito, ergo sum』すなわち、考えている私という存在だけは、アプリオリだとしても、そんなもの今は単なる気休めであって、安寧に足りうることはないわけです。
……うん、やはり、私も能動的にこの世界に干渉していかないと! 眠れずにそう考えていた私は、毛布を脱ぎ去り、ハンスさんとアイリスさんが私への態度を急変させるきっかけとなった、あの手紙を探すことにしました。
とりあえず、リビングに足を運びましたが、盲点でした。いや、正確には暗転でしょうか。いくら月明かりがあるとはいえ、この家屋には白熱電球どころか電源というものがなかったのです。つまるところ、手紙を探すには暗すぎたのです。とはいえ、幸い探しものは白い便箋なので、見つけられないわけでもなさそうです。そう簡単に折れてたまるか。珍しく強気になって、私は捜索を続けます。しかし、まあ一向に見つかりません。本棚、キッチン、机、玄関、どこにもないのです……そういえば、ハンスさんは、手紙を読んだあと、それをポケットに入れてたような、そうじゃないような……
くう、ハンスさんの部屋に行かざるを得ないみたいですね。たしか、アイリスさんと同じ寝室で、私がいた部屋の隣だから……
「やっぱり。私は信用してなかった」
「ひゃっぅ!!」
仄暗い部屋の中の突然の声に、私は危険を察知した猫のように縮み上がります。その声は、紛れもなく、あの女性のものでした。
「ずっと怪しいと思ってた。別に、“向こう側”の動きがなかったとしても私たちが狙われる理由はいくらでもある。それに、あなたは気に食わない」
「あ、アイリスさん、その、私は……ほんとに何も知らなくて」
「何も知らなくて、いいのよ。“私たち”のことは、何も」
「そんな……」
アイリスさんがため息をついたかと思うと、部屋中がまるで電気をつけたかのような光で包まれました。
「えっ、どうして、光が……」
「そんなの、ライトを使っただけよ」
「ライト? それはその……どこにあったんですか?」
「おちょくってるわけ? どこもなにも、魔法じゃない」
魔法、ですか……。
論理を超越したもの……いや、科学を超越したものという認識がより正しいでしょう。言葉の由来的には仏法、すなわち内法から外れた外法のことを魔法と言うんでしたっけ、それとも単にMagicの訳語として作られたものでしたっけ。ただとにかく、私の脳裏に浮かぶのは、つい最近、神様が指先をポッと光らせていたあの動作だけでした。
「魔法……そんなものがあるんですか」
「あなたの国にはなかったわけ? どんな未開社会よ」
魔法が無いと未開社会……すなわち、前世で科学なき共同体を未開と呼んだように、この世界では魔法なき共同体を未開と呼ぶのでしょうか。いや、もちろん私はこの未開の見なし方が正しいと言っているわけではありませんけれど。
「だって、私は……何も知らないうちにこの場所にいて」
「何も知らないうちに……?」
しまった。
「あっ、いや、その」
「旅をしていたんじゃなくて?」
相手の言葉を封じて、詭弁を振るうハンスさんとは対称的に、アイリスさんは相手の言葉を引き出して鋭く批判します。さながらプロタゴラスとソクラテスとでも言いましょうか。いや、ソクラテスはともかく、ハンスさんはプロタゴラスではないですね。
「それはその……」
「本当のことを話さない限り、私はあなたを認めない」
ハンスさんは寝ている。私とアイリスさんとの間に入る人間はこれで完全にいなくなったわけです。そして、アイリスさんは私の心臓を仕留めようとばかりの視線を私に向けます。ここから導き出される演繹は、つまり、私はアイリスさんから魔法で殺されるか、あるいはそれに近い仕打ちを受けるか、ということです。
あくまで断片的な情報ですが、話しぶりから、彼らは一般家族とは思えないほどに外部者を警戒しています。このことを踏まえれば、私が危険人物の烙印を押されたときは、死を覚悟することもあり得ない話ではありません。
仕方がないですね。私は自分が気を失ってから、超然的な何かに出会い、空から降ってきたという、これこそ法螺話のようなことを、アイリスさんに、素直に伝えるほか無さそうです。
「うぐ……あのですね、私はその……自分でもよくわかってないんですけど――」
「おはようございます、あなた、朝ごはんが出来てますよ」
食卓には、パンと紅茶とスープとオムレツが並んでいます。ホテルの朝食のようだなと私は思いましたが、どうやらアイリスさんによると、ハンスさんはご飯を忘れることがあるから朝にでもちゃんと食べさせないといけないらしいです。
「おお、おはよう。アヤノも一緒なんだね」
ハンスさんは私とアイリスさんの間に起こった出来事を露にも知らないような感じで、台所に立つ私とアイリスさんを不思議そうに見ていました。
「あっ、はい」
「アヤノ、結構料理が上手なのよ。このオムレツだってアヤノが作ったんだもの」
アイリスさんは昨日まで聞かなかった声で喜々としてハンスさんに伝えます。
オムレツというか、玉子焼きを作ろうとしたのですが、フライパンの形状に合わせたところオムレツになりました。もちろん味は私の好きな甘めの玉子焼きです。
「へー、アヤノは料理が作れんだね。てっきり使用人に作ってもらってるものかと」
ハンスさん、寝ぼけているのか分かりませんが、私のことをお姫様として会話を進めていませんか? となると、当然懸念されるのがアイリスさんの反応ですが……実はこの辺は、反省を活かして抜かりなく手を打ちました。アイリスさんにこれまでの経緯を話す際に、ハンスさんの勘違いについてはすでに説明済みです。
「アヤノちゃんだって料理くらいしますもんねえ? 失礼よねハンスさんったら」
アイリスさんは私にそうこぼします。その雰囲気は姉のような、母親のような。
「まあ、その、ハンスさんたぶん寝ぼけてますから……。えっと、とりあえず冷めないうちにいただきませんか?」
「うん、そうしよっか、あなたも早く座って」
そう言って、それぞれが着席するなり、アイリスさんはハンスさんが紅茶に手を出す前に切り出しました。間髪入れずに、単刀直入に。
「ハンスさん、アヤノさんについて話があります」
私が深夜アイリスさんに事情を説明していた際、彼女の様子がはっきりと変貌したのは、確か、私が上空数千メートルから落下したというところからでした。そして、何故か一命をとりとめたというところで、なんと、急に私はアイリスさんに抱きしめられてしまったのです。
「そっか……! ごめんね……! 怖かったね……!!」
アイリスさんの声は震えていて、そしてまた、潤っていました。
対して、アイリスさんの豊かな乳房が私の顔面を埋め尽くしていて、うーむ、これは女性ながらにして幸せな体験をさせてもらっているナアと、私は呑気に考えていました。しかしなぜ、こうもアイリスさんの態度が急変したのでしょうか。率直に言って困惑です。私にはその理由がわかりません。
「えっと……どういうことでしょうか」
胸の温かみの中で唇をもごもごさせて、私は問いました。すると、抱きしめる手はさらに強さを増しました。
「ごめんなさい……あなたが、風船の子どもたちとは知らなくて……」
アイリスさんへの恐怖が和らいだためか、私は冷静な分析を取り戻したようで、次のように考えを巡らせられるようになりました。
風船の子どもたち? 私、そんなに子どもに見えますかね……いや、まあ確かに身長は低めですけれど……ああそうか、確かアジア人は若く見えるんでしたよね。なるほどなるほど、子どもたちの部分は一応納得しました。では、風船は? 風船、空、フリーフォール。まあ、空との縁語的なものとして風船が関連しているのは分かりますが、私は落ちた人間で、対して風船は上がるもの。ここが食い違います。分からないですね……
「あの……いったん、離してもらってもいいですか?」
「あっ、ごめんね」
アイリスさんは、顔を赤くしたまま、私から距離を取ります。アイリスさんの態度の豹変は一旦カッコに入れて、私は目先の謎に対しての答えを促します。
「えっと……風船の子どもたち、とは?」
「そうね……これについては、まあハンスさんから聞いたほうが分かりやすいに違いないわ。でも、私から説明するなら……そうね、ある実験の被験体、と言えば……わかるかしら」
「被験体……?」
「そう、あまり詳しく説明すると長くなるから、簡単に言うと、私達の住んでいる……いや、今は住んでいた、かしら、とにかく、私達の国では鮮烈な風船計画というのがなされていたの」
「鮮烈な風船計画……?」
また知らない語句です。
「これも細かい経緯は省くけれど、この計画は、大雑把に言えば人を魔法で空に上げて、任意の場所に落とす計画……と言って伝わるかしら。変な計画なのはさておきね」
「えっとつまり、私が落とされたのって、この計画のための実験ということですか……?」
「たぶんそうよ。だから、あなたの言う、神と名乗った人物は実験の管理者でしょうね……」
これについてはおそらく、いやあくまで直感ですが、アイリスさんの勘違いだと思います。悔しいですけれど、神様は、たぶん本当に神様なので。ただまあ、この解釈に従うのがおおよそ穏健な選択肢だと思います。
(しかし、この選択が後の苛烈な世界へ私を誘うことになるとは、当時の私は知る由もなかったのです。)
「なるほど……私はこれからどうすれば……」
「私が面倒をみるわ。いままでつまらない気持ちをあなたに向けていたことも謝らせて。ごめんなさい」
アイリスさんの紗のような金髪が床に向かってさらさらと垂れます。私は慌てて頭を上げるようにこう返しました。
「えっとそれについては全然……。だって私じゃあアイリスさんにかなう要素なんて一つもありませんし、何より、アイリスさんがハンスさんのことを慕っているのは私にもすぐわかりましたもん」
「えっ? いや、そ、そうかしら……? ああ見えてあの人はすごい人だし、私には恩があるの。だから今は少しでもあの人の役に立ちたいっていうか……」
これまでの人を串刺しにするような目は柔らかく丸みを帯び、恥ずかしそうに、またせわしなく宙をなぞっていました。
「そうですか、なんか、いいですね。そういうの。ちょっと羨ましいです。じゃあその、お言葉に甘えてお世話になります……」
私もペコリと一礼します。アイリスさんは黙って頷きました。
「うんっ。 じゃあ、明日からよろしくね。あ、あと、このことについてハンスさんに話すけど、大丈夫?」
気づかいも何も、おそらく実験に関しては都合のいい思い違いと思われるので、何と言葉を選ぼうか、少し悩みます。
「……まあその、実験体にされた自覚がまだあんまりないので……大丈夫です」
苦し紛れにそう言うと、アイリスさんは胸をなでおろして「そっか、じゃあ、おやすみ」と告げたので、私も「おやすみなさい」と返しました。
挨拶を交わし、私たちはそれぞれの寝室へと戻りました。
最初は手紙を探すことで何か進展がないかと思っていましたが、これは思わぬ出来事でした。総合的に考えて、僥倖とも呼べるでしょう。私は少し気を楽にして眠れそうでしたが、しかし、ここ数時間で用心深くなった私は、ここで思考を止めることなく、以下の注意点を押さえました。
一つ目は、まだ手紙の内容が明らかになっていないこと。
二つ目は、過剰と言ってもいいほどの同情を、アイリスさんが持っていたということです。
突然の来訪者が国の実験体だと知ることが、これまで態度を一変させるのでしょうか。私には分かりません。むしろ、国の実験体ならば、同情、というのはおかしいはずなのです。だって国策ですから、賛同の方が自然のように思えます。まあもっとも、この場合、国の方がおかしかったら、同情すべきなのでしょうけど。とはいえ、これでも強く抱きしめるほどの動機に至ると思うと、やや疑念が残ります。憐れみを表す動作にしては、あまりに大袈裟だと思ってしまうのは私の思い込みでしょうか。
私はそのことを忘れないように頭の中で復唱し、その夜は眠りについたのです。
さて、時は朝食の時間に戻ります。アイリスさんの切り出した言葉に、ハンスさんは紅茶を一口すすってから答えました。
「話って?」
「昨晩聞いたのだけれど、驚かないでね。
この子、アヤノは、風船の子どもたちだったみたいなの」
すると、ハンスさんはオムレツに伸ばしかけていた手を止めて、アイリスさんを一瞥したあと、私のことをじっと見つめました。
そして、こう切り出したのです。
「そうか、君も僕の被害者なんだね」