誤解を生む大学生
Down, down, down. Would the fall never come to an end?
落ちる、という現象は日常生活では瞬間的なもののように感じられます。しかし、物理的には物体が支点を失い、自由落下し、衝突するという3つの段階に分けられます。そのことを常識に埋没した我々に再認識させたのがルイス・キャロルの妙でしょう。
いえ、問題はそこではありません。とにかく、私は身体を大の字に広げて風を受けようと、すなわち最大限の空気抵抗を得ようとします。ところがうまくいきません。とうに失われた私の運動能力では空中で体勢を変更するのは至難の業でした。
Down, down, down……
だったら、スカイダイビングなどという私からしたら大変物数寄な行為は到底成り立たないのではないでしょうか……
うん、そうだ、出来ないはずはない。私はもう一度身体の末端まで力を送ります。
…………やはりうまくいきません。しかし今回は自身の誤算に、つまりはどうしてうまく身体を広げられないのかの理由に気付けました。私の身体の自由を奪っていたのは、紛れもなく、というか、ただの恐怖心だったのです。指先に力が入らないどころか、膝が笑っています。下を見ればふらふらと落ち着かない2本のか細い脚が、揺れるスカートの向こうにチラチラと見えます。
別に迫り来る大地に怯えているのではありません。加速する身体と気流が奏でる轟音。その二つが演じる、間もなく訪れる死のエチュードに、です。
Down, down, down……!
最良の選択なんて嘘じゃん。このまま即死ルートじゃん。やだ、なんで?なにこれ。どういうこと?! 何もわからない!? 誰か、言葉で説明して!!
私はわずかに残された自由の効く力のすべてをまぶたに込めて、ぎゅっと目をつむりました。きっと、あと数十秒で地表に到達するでしょうから。
Down, down, down……!!
そう、これは決死の策でした。か弱い私がすこしでも生存確率を上げるための、です。飛び降り自殺の直接的な原因は、実はショック死だそうで、地面にぶつかる前に死んでしまうことが多いらしいです。つまり、落ちることをなるべく意識しないことで、ショック死を回避し、あとは着地点にクッションになるようなものがあることを祈る作戦です。これなら、まだ望みはあります。生存率が0%から2~3%くらいまでに上昇したとみていいでしょう。というか、そう思わないとやっていけません。そもそも、死んでからこんなにも早く二度目の死をとげるのは嫌ですし、なにより死んだらあの憎たらしいもう一人の私に会うことになるかもしれません。
Down!!
身体をぎゅっと丸めます。さしてこれは生存確率とは全く関係ありません。ただ、こうでもしなければゾクゾクと私の心臓を掴む恐怖に抗うことが出来ないのです。怖くない、怖くない、怖くない。何度も唱えます。怖くない。怖くない。怖い。怖いよ。
…… Down?
それにしても、まだ地面につかないのでしょうか。なんだか、いくらなんでも遅すぎやしませんか?
私は、おそるおそる瞼をこじ開けます。
ぱっと開けた視界。
目に映るのは敷き詰められた草々の緑。
私が目にしたのは、地表すれすれの大地でした。
ここで私の意識は途絶えたのでした。
これにて回想は終わり。そうでした。私はこの世界に突き落とされ、地表すれすれで目を開け、気を失い、その後二度目の覚醒を経て今に至るということです。
……ということであってますよね?
しかし、なぜ無傷なのでしょう。たしかに、ウサギを追いかけて竪穴に落ちていったアリスは無傷で不思議の国へと到達しますが、そういうことなのでしょうか。いや、まったくもって論理的ではない考察ですが、“論理を超越した存在”には先ほど出会っています。
したがって、このような不自然な現象も、さして気にすることではないのかもしれません。いや、そもそも、ここは異世界なのですから、いままで私が人類史の一部として培っていた理論体系は役に立たないとみた方がよいのかもしれません。(と、その時の私は得意になっていましたが、賢明な読者諸君は、この異世界は元居た世界とそう変わらないことがわかるはずです)
さて、私のおかれた状況に対する省察はここまでにしておき、大事なのはこれからのアクションです。せっかく私にとって最良の世界なのですから、ぜひともここでの人生を満喫したいところです。こんな考えは偏屈かもしれませんが、正直、元居た世界は私には向いてない世界だったと思いますから。
「よおーし、」
独りごとをつぶやくように、軽く意気込んでみます。言ってから少し恥ずかしくなって、次の言葉が思い浮かびませんでしたが。
とにかく、ハンスさんのもとに戻りましょう。もしかすると、長い間厄介になるかもしれない人ですから。
「ああ、おかえりなさい。何か出せるものがないかとさがしていたら、ちょうどいいものがあった」
ハンスさんは、やはり体型に不釣り合いな椅子に腰かけ、こちらに笑顔を見せました。
「どうも」
何の“どうも”かは知れませんが、とりあえず窓際の椅子に私も腰かけると、テーブルの上には、緑色をしたバンダナのような薄い綿の布と、その上に無造作に乗せられたパウンドケーキのような菓子がありました。ケーキは、角が崩れ、布の上にカスが散らばっていますが、それを除けばきれいなきつね色をした見事なものでした。
「これは……?」
「妻が持たせてくれたケーキだ。ここは羊や畑の様子を見るためだけに作られた小屋だからね、客人に出せるものなんてこれしかなかった。まあ、すこしボロボロだけど、味は確かだ」
ハンスさんはケーキをちぎって私の方へ差し出しました。仕事に出る夫にこういうお菓子を持たせるなんて、いい奥さんだと思うし、ハンスさんのほうは味は確かだ、って堂々と言うし、いい夫婦なんだなあと、私は一体誰目線なのかわからない感想を持ちました。
「なるほど、あ、ありがとうございます」
私は差し出されたケーキをもう一度ちぎり、一口大にしていただきました。なるほどこれは角が崩れるのは仕方ないと思うほど柔らかく、軽い食感と、ほのかに舌に残る素朴な甘みがたまりません。ほんのり香ばしいやわらかな香りが鼻孔をくすぐります。
そういえば、アリスも穴の底に着いてからケーキを食べていましたよね。確かそのあと身体が大きくなって……なりませんよね?
「どうだい? おいしいだろう」
「はい!」
ふいに大きな声が出てしまいます。だって、おいしくて、気分が高揚してしまっていたのですから。うーん。ちょっぴり恥ずかしいです。
「それはよかった、喜んでもらえてうれしいよ。これは作ってくれた人にもお礼を言わないと__」
その時でした。扉が開き、もう一人の人物が小屋に入ってきました。
「あら、ハンスさん、帰りが遅いと思ったら、ここで休憩してらしたんですね」
入ってきたのは淡い青で染めたワンピースに純白のエプロンをかけた女性でした。たとえるなら、そう、アリスのような服装でした。しかし、彼女の栗色の長髪と細い顎、凛とした眼つきからは、アリスとは正反対の、聡明さを帯びた大人らしい雰囲気が感じられます。彼女もまた背が高く、乳白色に伸びる肢体が彫刻品のように美しいです。それに……胸が、すごい大きい……こんなたとえは無粋極まりないのですが、小玉スイカのようにたわわに実っています。うん、おじさんみたいな言い回しですね。
「アイリス、こんな汚いところに来る必要もないだろう。もうすぐ帰るから、すこし待っていておくれ」
すると、アイリスさんは私の方を見てキッと目を細めました。
「じゃあハンスさん、こんなところに……そんな子供を連れてくるのもよくないのではないかしら?」
声色を明るくしてそう言いました。でも、これは愛しの旦那に向けた声というより、むしろ……
「まあ、一理あるね、じゃあアヤノ、一緒に家に行こう」
すると、アイリスさんは大きく咳込みました。ハンスさんはまだ何も気づいていません。
「ハンスさん? それはそれでいいですけど、この子の素性を私は知りません。別に、あなたの考えに反対というわけではないですが、すこし説明してくれないかしら。
私、あなたの妻ですから」
「私、あなたの妻ですから」と言った頃には、アイリスさんの目線が私に向けられていました。すると、ハンスさんは頭を掻きました。
「いやあ、まあ、この子は……」
きっと、これは私が高貴な身分という予想のもとで説明しづらいのでしょう。しかし、ハンスさん。今はそれ、逆効果です。
アイリスさんは、もはやハンスさんの方を見ていません、ジッと、私の方を見つめて……いや、睨んでいます。
「あ、あのっ、私は、訳あって旅をしているものでして! その、力尽きてたところをついさっき助けてくれて! ここで休ませてくれたんです!」
私は沈黙と重圧を力いっぱいはねのけて、そう訴えました。すると、アイリスさんはハンスさんの反応をギロりとうかがいました。
「ああ、そうなんだ。だから、とりあえずここでパウンドケーキでも、ってね」
ハンスさんは苦笑いを挟みます。
「あら、そうなの? じゃあ、家に帰れば新しいものを焼いて差し上げられましたのに。おいしい紅茶もありますよ」
アイリスさんは満面の笑みを浮かべます。でもこの真意は……同じ女性ならわかります。
「そうか、うん。それもそうだな。じゃあ行くとしよう」
ハンスさんが立ち上がると、アイリスさんは即座に道を譲りました。
「アイリス?」
「いえ、あなたに先を譲ろうと思って。だって、私の主人ですから」
「? そうか。じゃあ、まあ、そうするよ」
ハンスさんは一足先に小屋を抜けます。私がその様子をおびえながら見ていると、
「ほら、あなたも出ていけばいいじゃない?」
アイリスさんはそう促します。
「は、はい」
アイリスさんは歩く私を舐め回すように睨みます。そして、ちょうど私が彼女を横切ったところで、ふと、こう聞こえました。
「あのケーキ、あなたのために作ったわけじゃないですからね」
こちらの世界にやってきて、早くも越えがたい試練が私の前に立ちはだかったようです。