自覚症状のない大学生
胡蝶の夢というものをご存知でしょうか?
昔、中国に荘子という思想家が居ました。
ある日彼は夢の中で、自分が胡蝶になっていると気付きました。
しかし、その時荘子の脳裏にある疑問が浮かび上がったのです。
「自分は胡蝶になる夢を見ているのか、それとも、胡蝶が夢の中で私という人間になる夢を見ているのか?」
という疑問が。
この荘子の体験が、世に言う「胡蝶の夢」というものです。
私達は、夜に眠ると夢を見ることがありますが、それは本当に「現実を生きる私達」が「夢」を見たと言えるのでしょうか。
考えてもみてください。
私達が「夢」だと思っている世界の方が現実で、私達が本物だと思っている「現実」の方こそ夢であるという可能性は捨て切れないはずです。
「現実」の世界で私達は「夢」を見るのか、それとも「現実」は「夢」の世界で見ている夢なのか、誰も答えを知りません。
実は私達の生きている人生はすべて夢で、眠る以前のことを忘れているのかもしれません。
ひょっとすれば、私達の現実は誰かがスクリーンに投影している映画のようなものかもしれません。
あなたは現実らしくない現実に出会った時、どうして現実らしくないと分かるのでしょうか。
もしかして、別の「現実」で「現実らしさ」を知っていたからでは、ないでしょうか。
さて、終盤の話は経験主義的立場をとれば解決してしまいそうですが、それはそうと、私は目の前に広がる光景に「現実らしさ」を感じられないでいました。
そしてどうにも、その原因は、この風景がいままで生きてきた「現実」と明らかに乖離しているから以外に考えられないのです。私の生きてきた「現実」では目が覚めればいつも、身体は心地よさの具体概念である布団という大発明に格納されているはずなのですが、どうも今回は違いました。
目が覚めたとき、私は少し丘だった場所の木陰に腰掛けていたようです。
丘の上の一本木の下で居眠りをするというのは、おだやかな風景の定番でしょう。
しかし、今の私の場合はあまり心穏やかというわけにはいきません。
びゅう、と空気砲のような突風が私の長い黒髪をふわりと撃ち抜きました。
爽やかな初夏の風です。(本当は初夏かどうかなんてわかりませんが、どうにも私の中では初夏と爽やかさが枕詞になっています)
丘の上からは周辺の地形が一望できます。前方には緑色をした麦畑のようなものが広がっていました。
後方には、丘陵に合わせて歪な形をした柵の中で草を食んでいる羊たちが吹き散らしたタンポポの綿毛のように散開していました。
私はてっきりフランスの片田舎にでも来てしまったのかと思いました。
いや、思ったのですが、私が今腰掛けている木はどこからどう見ても日本人が見慣れた木、ソメイヨシノ(ver.葉桜)としか言いようがありません。
となると、うかつに知っている国名を挙げればよいというわけにはいかないみたいです。
というより、まず日本にこういうところがあるのかということから……いや、もっと大事なのは寝る前のことで____
「あっ! おーい! 目覚めたんだね! よかった!」
どこからか、低くもわずかにハリをもった男性の声が聞こえました。
ここが夢の中だとしても、私の聴覚は健在です。声の発信源は前方、つまり畑側からでした。
男性は、灰色のオーバーオール(とはいえ、ジーンズ生地というよりは何かの動物の革で作ったように見えますが)を身にまとい、その中には土や草色が染みついた白のTシャツ(これも単に首元に穴が空いただけとも呼べる服ですが)を着ていました。
片方の手には鉄製のバケツがあり、白いタオル生地の布がかかっていました。男の人は、バケツの水をパシャパシャと撥ねさせながら私のもとに駆け寄って来ます。
「あのう……」
あまり声が出ませんでした。初対面の人と話すのは苦手です。特に声が大きい男の人は。
「大丈夫? どこか痛いところは?」
「べつに……」
男性は、笑顔で私の身体を心配してくれているようですが、善意が眩しすぎるせいか、生まれつき根暗な私はその姿に萎縮してしまいます。
そしてまもなく自身が素っ気ない返事をしてしまったことを悔やみました。そのことでたった今私は彼の善意を踏みにじってしまったのではないか、などと。
「よかった! 」
彼の声色が、私の後悔が杞憂であったことを伝えます。胸を撫で下ろすと同時に、先ほどの懐疑的な態度に対する自己嫌悪の念が喉奥にふつりと残りました。いやですね。
「僕の名前はハンス。君は?」
「えっ、あ……黒崎綾乃です……」
彼は日本語を喋る反面、名前は日本人のようではありませんでした。
はて、一体どういう国の人なんでしょう。彼はブロンドに白い肌で、筋肉質の高身長ですから、もしかすると日本語話者の外国人。
ハンスという名前からさしずめドイツ人でしょうか。(日本で言う太郎、アメリカのジョンのように、ドイツではハンスというのがありきたりな名前だと聞いたことがあります)
彼は高い鼻と金色の目が特徴的です。無い物ねだりですが、少し羨ましいです。
「クロサキアヤノ? 長い名前だね」
「いや、黒崎が苗字で、綾乃が名前です……あ、ファーストネームイズアヤノ、ファミリーネームイズクロサキ……?」
「えっと、苗字って? それに、最後に言った長い言葉はもっと長い本当の君の名前?」
がんばって振り絞った英語は通じなかった、というより、意味をなしていませんでした。
(ファーストネームとファミリーネームという語彙が咄嗟に出てきた自分を褒めてやりたかったのですが……ええ、もちろん私はそれが精一杯の英語力です)
どうやらこの男性をドイツ人とか、もっと広く言えばヨーロッパ人と決めつけるのは早計のようでした。私の今居る場所はやはり「現実らしくない」場所だと認識したほうがよさそうです。(現実か現実でないかは一旦置いておいて)
したがって、自己紹介は懇切丁寧にとり行なった方が賢明でしょう……ですよね?
「あっ、違うんです。えっと、私の国では家系の名前と自分の名前を合わせて相手に紹介する習慣があってですね、最初に言ったクロサキというのが家系の名前で、後のアヤノが私だけの名前です」
そう返すと、ハンスさんは大きく頷きました。
「なるほど、遠くから来たんだね。とりあえずのところは、アヤノと呼んでいいかい?」
「はい」
「立てるかい?」
ハンスさんは私に手を差し伸べました。ところで、私は男の人の手を握ったことがほとんどありません。
中学生時代、林間学校で男子とフォークダンスを踊った時くらいです。
恥ずかしいからという理由もあるのでしょうけれど、どちらかというと見知らぬ男性への抵抗感の観点から、このとき私の思考はとっさにハンスさんの手を避ける方向へと向かいました。
「ええ、多分、立てます」
立てるかどうかは分かりませんが。私はそう答えました。
「すぐ近くに僕の家があるんだけど、ほら、いつまでもここに座っているわけにはいかないだろう?」
少し間を置きます。けれども、その割りには私は特に考えず返しました。
「そう……ですね、お言葉に甘えさせてください」
私は、これは暗に家に誘われているのだと直感してはいましたが、脳内では未だ微睡みが撤退しきっていなかったようで、彼の誘いに乗ってしまいました。
理由は多分、知らない場所にひとりでいるのがなんとなくすわりが悪かったからでしょう。
なるほど、こうして世の女性はナンパに乗ってしまうのかと、私はなぜだかいやに冷静でした。
「とにかく、よかった。無事で。この丘を下りてすぐのところにある。ついておいで」
私は念のため桜(と思われる木)に半ばしがみついた状態で立ち上がってみました。
特に支障はありません。
ふと自身に目をやるといつもの大学行きの普段着を身にまとっていました。
どうしてかは分かりません。
しかし、寝間着に使っていた高校指定のジャージでなくてよかったと、ほっとしました。
早急の課題は、状況把握でしょうか。そうはいっても、まずは彼について行くことを優先しましょう。
「ところでアヤノ。君はどこから来たんだい?」
転ばぬように、彼が来た方向へと慎重に丘を下ります。彼はその様子を歩調を合わせて見守ってくれていました。
「えっと、神奈川県ですけど……」
「カナガワケン? 聞いたことないな。見たところ、どこかのお姫様か何かのようだけれど」
予想外の言葉に、私は急停止し、思わず坂を転げ落ちそうになってしまいました。
「えっ」
これはどういう、どういうことでしょうか。
日本人は西洋人がなんとなく美形に見えてしまうということがあるようですが、その理屈を裏返せば西洋人から見た日本人は美しく見えるということでしょうか。
まさか「お姫さまのようだ」という口説き文句をこの生涯のうちに聞けるなんて私は露にも考えていませんでした。
「えっと、これは聞いてはまずいようだったかな?」
「いや、その……私のことを、今」
「姫かと聞いたこと? いやあ、当たり前だろう」
「いや、そんな……」
私は謙遜するように俯きました。いや、本当は含羞の意が微塵もなかったわけではないかもしれません。
けれども、初対面の男性に、疑いなく好印象を抱くというのは危険であるという防衛本能もまた、私の前頭葉に先見されているはずなのでした。
はずなのです。にしても、そんな、お姫さまなんて、ふふふ……
「いやあ、だって、そんな服装、高貴な身分の者達しか身につけられないじゃないか」
「服……?」
「そうさ、髪だって油で整えているようだし、色白だ。でも驚いた、お姫さまの顔ってのは、聞いていたより僕ら庶民と大して変わらないんだな」
彼は笑っていました。私も空気を読んで、歯を見せて笑います。ところで、この苦笑いという行動の起源はというと、私達がまだサルだったころ、自分より強そうな個体に対して服従を示す行為だったと言います。
ええ、まあともかく、こういう時に日本人としての素質が役に立ったということです。
つまり、雰囲気を悪くしないで済みました。
今の私がどれだけやるせない気持ちであろうとも、です。
「きゃーお姫みたいー!」という褒め言葉は日本にはたくさんあるじゃないですか。
「お人形さんみたい!」とか「モデルさんみたい!」のように。
これまでの人生、そのような言葉は親戚たちにならかけられましたとも。
しかし、私の友好ネットワークの範疇ではいままでそのような言葉を、そのような意味で私に向けて言う人などいなかったわけですから、勘違いだってします。
満を持して言われた! ああ、この褒め言葉、一度は言われたかったんです!
なんていう風に。けれども、よくよく考えてみると、ここが現実離れした場所ならば「お姫さまみたい」という言葉に慣用的な意味が加わっているかの確証などどこにもないじゃないですか。
「いえ……お姫さまってわけじゃないんですけど……」
自縄自縛、もとい自縄自爆でしょうか。
うつむきがちに答えるしかありませんでした。
この場合なによりも、自分が褒められていれると思っていた、私の自惚れの心こそが恥ずかしく、また恨めしい。
「そうか、あまり深入りしないほうがよかったかな?」
大方彼は、未だ私が“お姫さま”か、少なくとも高貴な身分だという勘は外れていないと思っているのでしょう。
今の言葉は、身元を言えない事情があると踏んだ上での配慮といったところのはずでしょう。
これについて私は全く意図していませんでしたが、自分が姫ではなく、平々凡々たる大学生だと自白せずに済んだと考えれば、今回はある意味その予想外に助けられたといえましょう。
「あっ、ついたよ」
彼は目の前の小屋を指して言いました。
俯き加減で歩き続けていたので途中からここまでの道のりを覚えていませんが、後ろを振り返ればちょうど丘のてっぺんにある一本木がちょこんと頭を突き出しているのが見えたので、さして気にする程のことではないはずです。
第一、あそこに戻っても何もないでしょうけれど。
それにしても、連れて来られた家は、とても落ち着く場所とは言い難い出で立ちでした。
ここもまた丘の上の一本木のように丘の麓にポツリと立っているだけです。
奥に広がる畑との境界はほぼ無いと言ってよいでしょう。
焦げ茶色の板材の一枚に、なめらかに加工された木の枝が垂直に刺さっていました。
ハンスさんはそれを握って手前に引きます。
するとその奇妙な板材に並列するいくつかの木板もつられてこちら側にやってきます。
なるほど、これはドアノブかと思いながら私はその家らしきものに入りました。
*
家の中は外から見て抱いた感覚に比べれば、やや広く感じました。
部屋全体が仄暗く、四隅がわからないからでしょうか。採光口は畑側の小窓のみ。
木の香りと古本屋のようなカビ臭さが立ち込めているところからすると、あまり手入れはされてなさそうです。
玄関を抜ければ(といっても、ドアを開ければ即ワンルームなわけですが)、右側にベッド(おそらく、だったもの)。正面の窓際には小さな机と椅子が二つ。左側には何やら木箱と麻袋が積んでありました。
「まあ、座って座って」
ハンスさんは正面の椅子を見ながらそう言いました。
私はいかにも申し訳なさそうな態度を取りながら座りました。
とりわけ負い目を感じているわけではないのですが、私は彼の親切心に高い声を上げて喜べるほどの乙女的技量を持ちあわせていなかったため、このような“大人しい子”のやり方を採用せざるを得ませんでした。
「お腹は空いてるかい?」
ハンスさんは私の向かいに座りました。大きな背格好にこの椅子はバランスが良くないなあと思いました。
「いえ、大丈夫です」
「そうかい。じゃあ具合の悪いところは?」
先程も聞かれたような気がしますが、記憶違いでは失礼なので一応答えます。
「いえ、大丈夫です」
「えっと……じゃあなにか出来ることはあるかなあ……」
ハンスさんは私に尋ねているのか、それとも単に考え込んでいるか微妙な態度でそう呟きました。
私は横浜生まれなものですから正しい演繹ではないのかもしれませんが、やはり田舎に住む人々は来訪者に対して世話焼きな一面があるようです。
正直親切はもう結構なのですが、もてなされることに悪い気はしません。
って、何様のつもりなのでしょうか、私は。
「じゃあ、お手洗いに行きたいのですが……」
少し落ち着いたらわずかに催してきていたことに気づきました。
普段ならまだ気にしない程度のものですが、突然会った外国人と会話しなければならないという緊張感に耐えられなかったので、まあ言ってしまえば、とりあえず一人の空間を確保しようという算段です。
「ちょうどここの真裏に離れがある。それがトイレだから、これを持っていっておいで」
ハンスは私に先ほどまで持っていた水入りバケツを渡しました。
*
とりあえず、用を済ませました。
結局水入りバケツは使わず、手持ちのポケットティッシュをつかいました。
トイレは汲み取り式のようですが、あまり使われていないようで臭いは気になりませんでした。
いえ、そんなことはどうでもよいのです。
私はやっと覚醒しました。
ほうと一息ついて、ようやく認識しました。
思い出したのです。
私が異世界に来ていることを。