第15話 姉と共に去りぬ
「お姉ちゃん知り合いなの?」
「ええ、あんたが勇者になる前にちょっとね」
「『ちょっと』?一体どの口がそんなふざけたこと言ってやが…コホン…一体どういった了見でそのようなふざけたことをおっしゃっていらっしゃいますの?」
フロイディネは乱れていた口調を咳払い一つで戻し、眉間に入った皺もすぐに微笑に塗り替えられる。
「そんなに怒らないでよ。もう10年近く前の話でしょ?」
「十年一昔、ということでございましょうか…」
「大体、私がやったことってそんなに悪いことなの?」
ピクリと、フロイディネの笑顔が一瞬ひきつえう。必死に感情を押さえているとようだ。
「あんたが下僕にしようとしてた人間にあんたの本音を聞かせてあげただけじゃない」
「その結果あの場にいた人間、あなたを含めて4人全員がこのノアズ・クレイドルから逃げてしまわれたのですよ?」
ここから生きて帰ったのは4人しかいないと言ってたが、それってセリアのことだったのか。
しかしなんだ、さっきから物騒な会話がされてるな。「下僕」とか「逃げる」とか。
「4人くらいいいじゃない。四捨五入したら0よ」
好きだな。四捨五入。自分の年齢も無茶苦茶な四捨五入によって6歳と偽ってたなそう言えば。
「そっそんな無茶苦茶な四捨五入がまかり通るとお思いで!?有効数字はどうなっていますの?」
フロイディネは生前理系だったのだろうか?「有効数字」とかいう懐かしい言葉が聞こえてきた。
「まあとにかくウィルは気を付けなさい。こいつは夢魔の性質上男の子をたぶらかして下僕にさせる癖があるから」
「下僕…」
「ちっ違いますわ!」
内心ちょっと引いてしまったのが外に出てしまったのだろうか。フロイディネは慌てて反論する。
「誤解です!この女がどういう女かご存じなくて!?」
セリアがどういう女か。知り尽くしてるわけではないけどある程度知ってる。
「こいつは人の頭の中を覗いてからかったりする性格の悪いやつだ」
俺の言葉を聞いてフロイディネは安心したように表情を緩める。対してセリアは自分の悪口を言われたのに嫌な顔一つしない。多分俺が次に何を言うか分かっていたからだろう。
「でも俺の知る限り、読んだ心については本当のことしか言わない。少なくとも悪い奴ではないことは知ってる」
フロイディネの笑顔が歪む。もう苛立ちを隠そうとさえしていない様子だ。
「そうでございますか。では、仕方ありませんね…」
そう言ってフロイディネはおもむろに右手を顔の前まで持ち上げ、前髪をかきあげた。
文字通りその一瞬後だった。俺が一度瞬きをすると景色が一変していた。一面の花畑。そこに俺は立っていた。
目の前には依然としてフロイディネが空中に静止している。
「何だ。何が起こった?リリーとセリアはどこに行った?」
「リリー?セリア?…さて、どなたのことでしょう?」
首を傾げながらフロイディネは俺の目の前に降り立つ。翼の羽ばたきによるものか、一陣の風が吹き抜け、俺の鼻腔を芳香でくすぐった。
「ここには今、わたくしとあなたしかいませんのよ?」
フロイディネはさらに俺に歩み寄り、俺の両肩に手を置いた。俺は首を固定されたわけではないのに気付けば顔がフロイディネの方を向いたまま動かせなくなっていた。
このまま彼女の腕が俺の首に巻き付いて、最高に居心地のよさそうな胸元に引き寄せてもらえるのではないかという、淡い希望さえ抱いてしまう。
「わたくしと取引をしませんか?」
しかし彼女はそんなことはせずに俺に語り掛ける。
「と、とりひき?」
「そう。取引。…あなたをわたくし下さい。あなたの肉体も精神も記憶も財産もスキルも何もかも、わたくしに捧げて下さいまし」
「え…全てって…」
「もちろん、わたくしもわたくしの全てであなたに応えます。わたくしだけではありません。わたくしの部下を含めた我らノアズ・クレイドルの全てがあなたに尽くします」
魅力的な申し出だった。しかし俺だって馬鹿じゃない。最低限の危機感くらい備わってる。俺は全てを差し出す、つまり失うのに対して彼女は、彼女達はただ俺に「応える」だけ、具体的に何をしてくれるのかは一切明かしていない。
これを怪しいと思えないほど俺は馬鹿じゃない。
「悪いけど、そう言う契約をするならちゃんと書面にしてくれないか?口約束は危ないと思うんだが」
「え?…それって、どういう…」
蛙を見込む蛇のような視線を俺に向けていたフロイディネは一転、呆気にとられたような、虚を突かれたような顔になる。
「どうしてあなたは正気でいらっしゃいますの…?夢の中でわたくしに抗えるものなどいるわけが…!」
「夢?」
その言葉に俺はひどく納得した。急に景色が変わってリリーもセリアもいなくなったから何事かと思ったが、これは夢か。夢魔相手に夢の中とは分が悪い。
しかし、覚めてしまえば何でもないわけだ。幻覚よりは性質がいい。
「残念だったな。俺には[安眠]スキルがある。ここが俺の夢の中なら、俺に勝てる奴なんて存在しない!」
多分。
「甘い言葉を並べたら俺を誘惑できると思ったか?ふっ。それこそ甘いな。この世界の支配権はいつだって俺にあるんだよ!」
多分。
「さあ、今すぐ俺の夢から出ていけ!」
俺は張り得る最大の虚勢を張ってフロイディネを一喝する。
「…相手が悪うございましたね。いいでしょう。ここは引きましょう」
どうやらうまくいったらしくフロイディネは俺の肩にかけていた両腕を放し、翼を広げて俺から離れる。と、同時に視界一杯に広がっていたお花畑が砂のように崩れ、頭上に広がる青空も崩れ始める。
もちろん俺の足元も例外ではない。俺は落ちる感覚に襲われながら覚醒する。
「はっ…」
「きゅ、急に目開けないでよ!」
俺が目覚めてすぐに目にしたのはリリーの顔だった。赤い瞳に俺の姿が映るのを確認できるほどの間近に彼女はいた。そこまで俺に迫っておきながら俺が目を開いただけで驚くとは、よく分からん奴だ。
しかし俺はどれくらい寝てたんだ?フロイディネとは10分くらい話してた気がするが。
「大丈夫よウィル。寝てたのはせいぜい1分くらいだから」
「さいですか」
「5割6分大丈夫だと思ってた」
「…さいですか」
ほぼ五分五分の賭けだったということか。
「違うわよ。四捨五入って知ってる?」
「ああ、分かった分かった。四捨五入したら100パー大丈夫だったんだな?」
まあ俺はこうして無事なんだから、うだうだ言うのは止めよう。
「ねえウィル。大丈夫なの?あいつに夢の中で何されたの?」
「別に何って程のことでもないよ。あいつの下僕にならないかって誘われただけだ。もちろん断った」
「げ、下僕…!」
リリーは俺に向けていた視線を上空に浮遊していたフロイディネに向ける。僅かな間に視線はその鋭さを増していた。
「ご安心ください。至って健全な方法での勧誘でございました」
リリーの視線に乗せられた何かしらを悟ったのか、フロイディネはリリーが言葉を発する前にそう答えた。そしてこう続ける
「しかしまさか、このわたくしの勧誘にイエスと答えない者が現れるとは…例えそれがモンスターであったとしても、由々しき事態でございますね…」
そして思案顔になってしばし押し黙る。
「一つ、ゲームをしましょう」
考えがまとまったのか、フロイディネの顔には再び微笑が宿り、おもむろに口を開く。
「あなた方がここに来た理由はあらかた察しがつきます。自らが欲している『何か』を手に入れるためにここに来たのでしょう?」
「当たり前でしょ。何もいらないなら来ないわよこんなところ」
こんなところとはずいぶんな言いようだが、しかしその通りだ。
「おっしゃる通り。…ここ、ノアズ・クレイドルには何でもございます。美味なるもの、珍味なるもの。娯楽品。財宝。そして愛」
フロイディネは言いながら後方に手を伸ばす。するとそれにこたえるようにドームの壁面が開いた。
「あなた方にはこの先に広がるダンジョンを攻略していただきます。ここ61階を初めとし、70階まで。その間に手に入れたものは何でも差し上げましょう」
「何でもって言うけど、この先のダンジョンにお金になるものがあるっていう保証はあるの?」
「それは大丈夫よ。私が保証する」
リリーの呈した疑問に答えたのはセリアだった。
「私は一度このダンジョンを攻略したし、さっき説明してる最中に彼女の頭に浮かんだ映像は私の記憶とも一致するから、信用してもいいと思うわ」
「援護射撃感謝しますわ。しかし、わたくしの頭を勝手に覗かないでいただけます?」
「はいはい。ごめんね」
全く悪びれずに謝罪の言葉を口にするセリア。食い下がっても無駄と悟ってかフロイディネはリリーに向き直る。
「ルールは三つ。暴力は禁止。暴力以外であればどんなことをしていただいても結構です。そして、3時間以内に70階にあるゴールに到達する。でございます」
「暴力をふるった場合はどうなるんだ?失格か?」
「はい。3時間たっても70階に辿り着けなかった時同様に、失格とみなされます。失格した者はもれなく我々の下僕になっていただきますので悪しからず」
失格になった時のリスクはかなり大きいが、暴力禁止は助かる。平和主義者の俺に暴力は似合わない。
「ねえフロイディネ。暴力以外何でもありなら、中にいる子達を懐柔してお持ち帰りするのもいいの?」
「できるのであればやっていただいて結構ですよ?もちろん今回のゲームの参加資格はあなたにはないですけどね。セリア」
「え?何で?」
「当たり前でしょう!あなたはこのダンジョンを攻略済みですのよ?そんなやつはとうの昔に出禁です」
セリアは心底意外そうな顔をしていたが、わざとらしくないのがかえって悪意を醸し出していた。
「出禁ということは、入るのはいいってこと?」
「いいわけないでしょうが!『出禁』は『出入り禁止』の略です!」
「ねえ。ということは私とウィルでダンジョンを攻略するってこと?」
子供のようなやり取りをしてる二人に割って入ってリリーがまともな質問をする。まともではあるがする必要があったのだろうか?どう考えても答えはイエスなのに。
「その通りですわ。まあ、必要であれば別行動を取っていただいて結構ですが、ここはノアズ・クレイドル、別名『愛の揺り籠』。わざわざ想い人から離れることもないでしょう?」
「誰が誰の想い人なのよ?」
分かりやすい挑発に乗ってしまったリリーだが、しかしフロイディネは自分から挑発しておいきながらリリーには応戦せず、セリアの傍らに着地する。
「さあ、わたくし達は先に70階に行きますわよ」
「え~。手出しはしないからせめて2人の動向は見守らせてよ」
「わたくしの魔法でモニタリングできるようにしますから、大人しく着いて来てくださいまし」
「しょうがないわね。…じゃあそう言うことだから、2人は2人で頑張ってね」
俺達に手を振るセリアの傍らでフロイディネは呪文を永昌し、セリアともども俺達の目の前から消え去った。
俺とリリーは2人、地下61階、ノアズ・クレイドルの1階に取り残されてしまった。