黒猫と人間
寒い、寒い、寒い。空高くから降ってくる白い白い雪は、私の体を容赦なく冷やしていく。私の意識は朦朧となっていく。いけない。私は行かねばならないのだ。あいつに会いに行かねばならないのだ。もうすぐ、もうすぐ、もうすぐで・・・。冷えて感覚が麻痺した足が、ぐらりと揺れると、私は真っ白な地面に沈んでしまった。遠くで、何かが聞こえたような気がした。
暗い、暗い世界の中で、私の体は柔らかな何かに包まれていた。先ほどまでの寒さは全くなく、とても暖かい。あぁ、私はとうとう死んでしまったのか。そう思った。ごめんよ、と胸の内であいつに謝る。だが、私の前に突然あいつが現れた。「もう死んだつもりでいるの?」と私に言い捨てて、あいつは消えて行った。待ってくれ。待ってくれ。あいつを追おうとした時、真っ暗だった世界が急に明るくなった。
見慣れないものが沢山ある。パチパチという音が聞こえる。何とも言い難い、空腹を煽る匂いがする。足元は、先ほどまでと同じように、柔らかな感触だ。「目が覚めたかい?」と声が聞こえる。その方を見ると、一人の人間が私の元に近づいて来た。私の目の前までやって来た人間は再び声をかけてくる。「君は、雪のなかで倒れていたんだよ。」・・・成る程。この人間は、危うく死ぬところであった私を助けてくれたのか。礼を言おう。「ふふ、可愛い鳴き声だなぁ。」失礼な人間だ。折角礼を言ってやったのに。男の私に可愛いなどと言うなんて。私はその人間に抗議する。「あぁ、お腹が空いてるんだろ?今、食事を持ってくるからね。」私の抗議などお構いなしに、人間は勝手に話を進めていく。・・・まぁ、腹が減っているのは事実だから、別に構わないのだが。コトリという音と共に置かれたのは、肉と見知らぬ白い液体だった。「お食べ。」人間に促され、私はまず肉を少し口に入れ、ゆっくりと咀嚼した。ふむ、美味い。二口、三口と肉を食べ進める。人間は私の食事をずっと眺めていた。それをさして気にすることもなく、私は肉を食べ終える。・・・次は白い液体だ。まずは匂いを嗅いでみる。どこか懐かしさを感じる匂いだ。いつの間にか肉を乗せていた物を片付けた人間が、私の様子を見て言った。「おや、ミルクは初めてかい?」この白い液体はミルクというのか。それを少し口に含む。匂いと同じく、どこか懐かしい味だ。まるで幼い頃の・・・そうだ、母親の乳の味。独立してから、一度も会っていない母の顔を思い出しながら、私はミルクを飲み終えた。ミルクを入れていた物も片付けると、人間は私の背にそっと触れた。その手をゆっくり動かす。突然の事に驚いたが、不思議と不快感は無かった。「暫くここに居ていいよ。外はまだ雪も降ってるし。」私に抵抗する気が無いと悟ったのか、人間は私をひょいと持ち上げた。この時、私は初めてこの人間の顔をしっかりと見た。人間は、あいつによく似た、魅力的な目をしていた。人間は私に笑いかけると、そっと私を下に降ろした。「さて、と。」人間はくるりと向こうに回ると、パタパタと忙しなく動き回り始めた。私はそれを眺めている内に、眠った。「・・・おや、寝ちゃったみたいだね。」人間が再び私に触れてきた。やはり不快感はなく、寧ろ心地良いと思えた。
少しして目を覚ますと、人間は木で作られた何かに腰掛けて、更に木で作られた何かに突っ伏し眠っていた。私は人間の頭の側まで行き、人間に呼びかけた。おい人間、体を冷やすぞ。目を覚ませ。「ん・・・?あぁ、お前か。」人間は私の頭に手を置いた。まったく、触れるのが好きな人間だ。軽々と私を持ち上げた人間は、ふかふかした所に私を降ろした。「そこのベッドで大人しくしていな。」そう言って、人間はまた忙しなく動き回り始めた。ふと辺りを見回すと、外の空が見える場所がある。倒れる前に見上げた時より、空は暗くなっていた。いつの間に夜になったんだ?なぜ夜なのに、ここは明るい?更に、肌で感じて気づいた。なぜここは、こんなにも暖かいんだ?考えている間にまた眠気が襲ってくる。私はゆっくりと目を閉じた。「・・・猫は気儘だなぁ。」人間の声がぼんやりと聞こえた。
暗い、暗い世界の中で、幼くなっていた私は、母親に抱かれ眠っていた。母が頻りに坊や、可愛い坊や、と呼びかけてくる。その声は、周りに溶けて薄れていく。時折私の毛を繕ってきた。それがとても気持ち良い。・・・そういえば、あの人間の手もこれ位心地よかったと思う頃、私の頭はゆっくりと覚醒していった。
「おはよう。」目を開け、体を起こした私に、人間がそう言ってきた。あの外が見える場所を見る。そこからは眩しい光が差し込んでいた。どうやら朝になったらしい。人間は私をひょいと抱き上げた。そして、美しい目を細めて、口を開く。「今日はね、僕の大切な人が来るんだよ。」大切な人?大切な・・・。そこではたと思い出す。そうだ、私も大切なあいつに早く会いに行かないと。人間の腕をすり抜け、外へ出る術を探す。だが、見つからない。途方に暮れていると、再び人間に抱き上げられた。「どうしたんだい?」頼む。外に出してくれ。あいつに、あいつに会いに行きたいんだ。そんな抗議も虚しく、人間はまた空腹を訴えていると勘違いして私の食事を用意し始めた。出されたのは小ぶりな魚と水だった。やけになって魚にかぶりつき、水を飲みほした。どうすれば、どうすればあの人間に伝えられる。外が見える所の近くに行く。そこの狭い出っ張りに飛び乗ると、外がよりハッキリと見えた。外の世界は、時間が止まっているように見えた。人間が私の背に触れる。そいつは暫く外を眺めてから、「まだか。」と呟いて忙しなく動き回り始めた。
暫くすると、人間は木で作られた何かに腰掛けた。そして、深いため息を一つ。私は人間の足元の側に来て、そいつを見上げる。人間は酷く心配そうな、不安気な顔をしていた。私の存在に気がつくと、人間は力無く微笑んだ。その時
コツコツ
と、何かを打つ音がした。人間はそれに気付くと、ある場所へ走った。人間が立ち止まり、何かをぐっと掴んで押すと、冷たい風が吹き込んできた。突然のことに私は目を閉じる。暫くして目を開けると、人間の前にもう一人の人間がいた。そいつは、私をここに連れて来た人間より小柄で、色が白かった。「よく来たね。」と人間が言うと、もう一人はニコリと微笑んだ。小柄なのを中に招き入れてから、大きい奴は掴んでいた何かを引いた。それと同時に吹き込んでいた風が止む。・・・成る程、彼処が外に繋がっていたのか。小柄なのが私に気付いて近づいて来る。「あら、可愛い猫ちゃん」そう言って、小柄なのは私の頭に触れてきた。大きい奴より小さく、冷たい手で私の頭を何度か撫でると、私から離れて大きい奴の元へ行った。大きい奴は小柄なのと話すのに夢中になっている。今日はもう眠ってしまおう。私はゆっくりとベッドに向かった。
暗い、暗い世界の中で、私はぽつりと立っていた。暫くすると、誰かが私の方に向かって来る。暗い世界でよく映える、真っ白いシルエット。あぁ、あいつだ。あいつがやって来たんだ。あいつが目の前に来て、その場に座る。「久しぶりね。」あの人間によく似た、美しい目を細めて、あいつは喋り始めた。「あなたが迎えに来るの、ずっと待ってたわ。でも、あなたは中々来ない。心配で心配でたまらなかったわ。でも、もうすぐ・・・」最後の方の言葉はぼやけ、同時にあいつの姿がだんだんと消えて行った。もうすぐ会える。あいつはそう言い残した。
ハッとして目を開き、辺りを見回す。あいつの姿は見当たらなくて、私は肩を落とした。あの人間は、未だに小柄なのと話している。小柄なのは大きい奴に何かを迫っているようで、大きい奴は困った顔をしていた。小柄なのが口を閉じると、辺りはしん、と静まる。パチパチという小さな音が聞こえる。ぼんやりとしていると、あいつの声がした。「やっと見つけた。」私は外に繋がっている場所まで駆ける。だが、先程の人間のように、外への道を開くことができない。ムキになってそこに爪を立てた。そんな私の姿を見た人間達が、何事かと近づいて来る。「どうしたのかしら・・・」と小柄なの。「開けてみるか。」と大きい奴。キイ、と音がして、ほんの少し外への道が開かれた。冷たい風に目を細める。それが少し和らいで、じっと外を見る。
―そこには、あいつがいた。
ピンと立った形の良い耳。美しく、キラキラと輝いている目。私とは対照的な真っ白い毛並。するりと外から入ってきたあいつは、冷えた体を私に寄せてくる。「やっと会えた。」と嬉しそうに呟いて。嬉しいのは私も同じで、私はあいつのされるがままになっていた。
黒と白の猫が、暖炉の側のベッドでぴたりとくっつき眠っている。俺はその微笑ましい光景を暫く眺めてから、目の前の女性を見た。彼女も二匹の猫をじっと見ている。俺はゆっくり口を開く。「・・・あのさ。」彼女が俺に目を向ける。「さっきは、驚いて戸惑っちゃったけど」そこまで言って、俺はゆっくり深呼吸をする。
「・・・俺たち、」
―終―




