一歩
(落ち着け、落ち着け…。こういう時こそ冷静になることが肝心なんだ)
新之助は、まず思いっきり自分の頬を引っ叩いた。
「いてぇ!!畜生…」
(でも、夢でも痛みを感じる時もあるからな…あんまりあてにはならないな…)
新之助が周囲をよく観察すると、そこは荒廃こそしているが、学校のように思えた。
(壁が無くなっているから、がらんどうに感じたけど…そうだ、突き当たりの先に階段がありそうだ…ってことは、よくあるパターンとしては何千年も先の未来に来ちゃったとか?)
この場を動くかどうか新之助は迷った。
動くと現実から…夢の世界から、今見えている非リアルに確実に転送される…そんな恐怖感で体が石のように動かない。
ゴクリ。
生唾を飲み込む新之助。
呼吸が荒くなっていく。
(あはは。そうだよな、夢だよな。一歩踏み出すだけで別世界なんてありえない)
心の中で笑った新之助だったが、やはり一歩が踏み出せない。
どのくらいの時間過ぎたのだろうか。一時間?三十分?十分?三分?
ふいに足元がスポンジを踏んだように、ぐにゃりと揺らいだ。
「あっ!?」
新之助は、一歩前に進んでいた。
極度の緊張からバランスを崩したようだった。
「あはっ。あはは」
新之助は笑った。
「なんだ。やっぱり何にも起きない…」
しかし何も起きない変わりに、事態も好転しなかった。見えていた通りの荒廃した世界がただそこに広がっていた。
新之助は、ゆっくりとあたりを見て歩いた。
(やっぱり、学校…もと学校と言ったほうがいいのかな…)
光の玉が来た方向へ行ってみることにした。廊下。窓にガラスは入っていない。それどころか枠すらない。
廊下の窓だった場所からは、本来、住宅地や、ちょっとしたコンビニ、誰が管理しているのかわからない畑や公園が見えたが、ここから見えるのは、住宅だったもの、コンビニだったと思われる四角いコンクリートの建造物、草が一本も生えていない石ころだらけの畑だった土地に、枯木に覆われた滑り台。
滑り台だけが妙に毒々しいほどに、元々の赤色のままで、まるで白黒映画の中に、ワザと色を付けた一コマを見ているようだった。
(もし、この世界に俺が一人だったら…)
しかし新之助は不思議と、さっきまでの恐怖感や、焦りは感じていなかった。
より夢の世界を歩いているように感じているのかもしれない。
ぼんやりと廊下の突き当りまで進み、下を見ると、そこに人影が見えた。
(なんだ、誰かいるじゃん)
新之助は、もうこれが夢でも現実でもどちらでも良かった。とにかくその人を捕まえて話したいと思った。
「すみませーん」
人の気配はある。
「すみませーん」
返事は返ってこない。新之助は使い慣れた階段を駆け下りる。
「すみ…ぐぇっ」
一階に下りたと思った瞬間、首に二本の縄がかけられ、左右に引っ張られた。
「ぐっくる…苦しい…」
「ぎゃほほほほ」
「げほほほ」
新之助の首に縄をかけたのは、一人は小柄な男性らしき姿をした生命体。もう一人は背の高い女性らしき姿の生命体だった。
その姿は限りなく、現実の人間に似ていたし、着ている物も、現代の日本ではあまり見かけないが、人間らしかった。
「げほっげほっ」
苦しがる新之助を見た、背の高い方が少し縄を緩めた。
涙と、よだれで顔中がぐしゃぐしゃになる新之助。
「ぎょほほほほ。ぎょぎょぎょ」
その様子を見て、背の低い方がまた笑い声のようなものを上げる。
背の高いほうは、灰色のスカートのような物を腰に巻き、赤い花柄のブラウスのような物を着て、頭には三角巾を被っていた。昔のロシアなんかで見かけそうな服装だった。新之助の勝手なイメージだったが。
だが、それ以上に新之助が驚いたのは、顔が、手が、脛(すね)が、とにかく普通の人間だったら肌であり、肌色の部分が黒いのだ。まるで墨で塗りつぶしたように黒い。それは黒人の太陽の日に焼けた暖かい黒色ではなく、暗闇を彷彿とさせる黒なのだ。なのに、目だけは、その瞳だけはエメラルドのような緑色をしている。
「ひえっ」
悲鳴を上げた新之助に、また背の低いほうが可笑しな声で笑う。
背の低い方は、ラクダ色のパンツに、カーキー色のシャツ。同じくラクダ色の帽子を深くかぶり、そのつばの先から見える瞳は、ルビーのような赤色だった。
背の高い方が、新之助が落ち着いた様子を見て、立ち上がるように、縄を引く。
「やめろよ!犬じゃない!!」
新之助が抵抗しようとすると、背の低い方が新之助の尻を蹴った。
「っつ、いってぇ!!」
背の高い方が、低い方をなだめているようだった。
何を話しているのか、新之助にはまるでわからない言語を使用していたが、今の新之助にはそんなことはどうでも良かった。
(頼む、頼みますから、夢なら覚めて下さい!!)
新之助は祈った。心から。