2-3 死霊との生活
『それは変な夢ですね。啓介にはそんな特技があったのですか』
「特技っていうより体質だろう」
『つまり、死霊の記憶が夢となって啓介に流れてくるのですね?』
「そう。夢の途中で気付くんだよ。これは俺の夢じゃないって――俺じゃない誰かの記憶なんだって」
『そういう夢を見始めたのはいつごろからですか?』
「ん〜。こういう夢は小さいころから見てると思うぞ……あんまり覚えてないけど。末次とかいう侍の夢なら、一週間くらい前からかな。……うん、ちょうど一週間だ。俺が倒れた日の朝だから」
「…………」
すらすらと筆を進めていた音が、しばらくやんだ。この音がないと、部屋は風呂の蛇口から漏れる水音が聞こえるほど静かになる。……気付いてよかった。風呂の蛇口がしっかり閉まってなかったようだ。
蛇口を閉める。なぜか昨日から使っていないはずの風呂場が湿気に満ちていたため、換気扇を回してから戻ってくると、皐月はまた新しい文を『皐月とお話ノート』に書き始めた。そして俺に見せるためにノートを反転させてこちらに向けてくる。皐月は、俺の向かい側に座っている――はずだ。
『大体わかりましたが、どうしても不思議な点があります』
「なに?」
『時代です。武士がいる時代、つまり江戸時代ですよね? そんな昔の死霊が今も世に存在しているのはありえないのです』
「え? なんで?」
『考えてみてください。簡単に言えば、人の感情が死霊です。普通に考えて、感情が百年、二百年も続くわけがありません。長くもっても十数年といったところでしょう』
「ああ、確かにそうだな。違和感の正体はそれだったのかも。俺の全く知らない時代の風景なんて夢でも初めて見たし……」
『妖怪ならば何百年と維持できるでしょうが、それもありえません。あの時代の妖怪はすでに駆逐されているでしょうから』
「……なるほどな」
皐月は死霊になってからどれくらい経つのだろうか。気になったが聞けない。
皐月も、いつかは消えてしまうのだろう。――そう思うと無性に悲しくなって聞けなかった。
そんなことを考えてしまうということは、俺は皐月に惚れてしまったのだろうか。死霊に惚れるなんて、退魔師として失格だ。爺様には絶対に言えない。言えば俺は幻滅されてしまうだろうし、もしかしたら皐月を消されてしまうかもしれない。……いや、爺様なら間違いなく消しに来るだろう。そんなことにはなって欲しくない。
夕陽を見て俺が暴走しかけた日。学校で気を失ったはずの俺は、目覚めてみれば自分の部屋だった。あれから一週間。昨日まで俺は四十度近くの高熱にうなされていた。その間、ずっと看病をしてくれたのが皐月だ。
相変わらず姿は見えない。声も聞こえない。それでも看病してくれたのは皐月だろう。俺の額には常に冷たい氷が乗っていたし、朝昼晩の決まった時間にはお粥が部屋の机の上に置かれていた。洗濯や掃除もしてくれたようで、毎晩布団の上に着替えが用意されていた。俺は着替えるのが億劫でそのまま寝てしまったが、朝起きれば服が替えられていた。……これは少し恥ずかしい。パンツまでしっかり替えられていた。
熱が少し治まって、昼間にまどろんでいると、部屋にあるテレビの音がした。見ると、俺が進めているRPGゲームがついていた。コントローラーが動いている。どうやら皐月がニューゲームから始めているらしく、ところどころで苦戦していた。すぐにゲームオーバーになるので俺が爆笑していると、ワイヤレスコントローラーが飛んできた。仕方なく俺がそこだけクリアしてやるとコントローラーをぶんどられる。俺がアドバイスしてやるとその通りに動く。それが面白くて、わざと間違えを教える。ゲームオーバーになった。俺が笑いころげていると、今度は大量の本が顔面に飛んできた。
ゲームに飽きたのか、テレビが消え、ドアが開かれ、しばらくすると一冊のノートが浮きながら部屋に入ってきた。『皐月とお話ノート』だ。どうやらお話をしようということらしい。そこでノートを介していろいろと会話をした。まず皐月は『自分のことはまだ教えられないから聞かないで欲しい』と書いたので、それには従った。たいした話はしていない。
女性に興味を持ち始めていた俺は迂闊にも、クラス委員長の加賀詩織がすごく可愛くて好みのタイプだ、などと口走ってしまい、かなり深く追求されてしまった。どうやら皐月は、俺が加賀さんに説教されていたときは傍にいなかったらしい。……よかった。加賀さんの胸を触ってしまったことがバレればただでは済まないだろう。
そんなことがあった。
皐月にどうしても尋ねたいことはあった。どうして姿を見せてくれないのか、ということだ。俺が母親を思い出して暴走しかけたときのように、なぜ顔を見せて触れてくれないのか。また皐月の顔が見たかった。それと、もう一つ。昔の俺と会ったことはないか――ということ。どうしても会ったことがあるような気がする。俺に幼少時代の記憶は少ない。一週間前に、久しぶりに母親のことを思い出したが、同時に、皐月のことも思い出した――ような気がする。それを確かめたい。
でも、訊けない。皐月のことは詮索しないという約束だし、なにより、これを訊いてしまえば皐月が消えてしまうという不安感がある。もちろん予感だ。でも、その何の根拠もない予感が、何よりも怖い。
――楽しかった。
姿が見えなくても、声が聞こえなくても、皐月といっしょにいられることが幸福に思えた。だから今は、この幸福を壊したくはない。
『ところで、その〝ミツキ″とかいう女は何者なのですか?』
……そう。今日はその件について尋問を受けていたのだ。どうやらまた俺が寝言で、美月、美月と呟いていたらしい。寝起きにいきなりノートを顔面に叩きつけられて、見てみると『浮気撲滅。「ミツキ」というのは誰?』と書かれていた。いつから俺と皐月は恋人のような関係になったのかは甚だ疑問だが、それは置いておこう。空中に包丁が浮いていたことから見て、まず俺の命の保証が優先された。そこで俺は奇妙な夢について説明していたところなのだ。
「……えっと、その美月っていうのは、末次の奥さんで、病弱なんだけど、明るい美人さんだ。美しい月って書いて美月だな。いい名前だ。末次に――そのときは俺にだと思ってたけど、甘えてきてすっごく可愛かった」
『前々から思っていましたけど、啓介は女好きのようですね。女を見れば可愛い可愛いと阿呆面さらして喚いてらっしゃる』
「そ、そんなことはないぞ。みんな可愛く見えてしまうってだけで……」
『それを女好きだと言うのです。まずその部分を矯正しなくてはなりません。長生きできなくなりますから』
「そうか……俺は女好きなのか。それは早死してしまうほど危ないものなのか?」
『そうです。とても危険です。今すぐにでも直してしまわないと死んでしまいます』
「なんだって!? なぜ女好きが死に繋がるんだ? ……や、やっぱり女は魔性で、悪魔みたいに男を殺してしまうのか……?」
正樹さんが言っていた通りだ。女は悪魔だったのだ。いつも心の中で馬鹿にしてごめんよ、正樹さん。真実を伝えてくれてありがとう。
『そうです。女好きを直さないと、私が啓介を呪って殺してしまいかねません。それはとても危険なことです』
「悪魔はお前だったのか!」
俺の命が危ない!
『悪魔とは失礼ですね。訂正してください。たしかに、友達からはよく「小悪魔系だね」って言われますから、呼ぶならそちらの方で』
「呼ばねーよ!?」
というか友達いたのかよ。なんだ? 死霊か? 死霊の友達なのか? そんな世界は知りたくない。
『まあ、それは置いといて。美月とやらはそれほどの美人でしたか』
「ん? ……といっても夢の話だから、曖昧にしか覚えてない。……そういえば皐月に似ていた気がする」
『女性全てが同じ顔に見えてしまうのでしょう?』
「まあな」
きっと皐月は今、とても蔑むような目で俺を見ているに違いない。……だって寒気を感じるもの。
『いえ、ジト目程度です』
「心が読めるのかい!?」
『馬鹿なことは言わないでください。それより、本当に私に似ていたのですか?』
ノートの字が今までよりも濃い。真剣な問いなのだろうか。
「似ていた。やっぱり曖昧だけど」
『わかりました』
何がわかったのだろうか。もしや知っているのか? 美月と皐月。名前も似ている。親戚筋の者かもしれない。―――まあ、それはかなり突飛な考えだから、ありえないと思うが。
「何が……わかったんだ?」
『いえ、何でもありません。こちらの話です』
ますます気になる。もしかしてこの問いは、皐月自身について尋ねることになるのだろうか。だとしたら約束違反になってしまう。俺は、皐月についてしばらくは一切訊かないことに決めたのだ。
「答えられないのなら仕方ないが、差し支えがないのなら教えて欲しい」
皐月はシャーペンを上下させ、ノートを軽く叩いている。トントン、というリズムを刻んでいた。言おうかどうかどうか迷っているのだろう。
『美月さんという方は、私によく似ていたのでしょう?』
答える気になったらしい。それに、美月〝さん”と、敬称を付している。美月の正体がわかったのか……。
「今では美月を思い出そうとすると、皐月の顔でしか脳内再生されない。それくらい似ていたということだろうな」
『あなたは先程、美月さんは絶世の美女だったと言いましたね? つまりその美月さんに似ている私も、啓介からすれば絶世の美女ということになりますね』
「ん? いや、絶世の美女とまでは言ってないけど……まあ、そうだったかもしれないな」
「…………」
……沈黙。
「……それで?」
『終わりです』
「なんにもわかってねぇな!?」
『わかりましたとも!』
「何がだよ?」
『啓介にとって、私はとても可愛い女だということです』
「…………フッ……」
鼻で笑ってやった。
ノートが俺の顔面にぶち当たる。『もう知らん!』と書かれてあった。
……なんだ、やっぱりなんもわかって無いんじゃないか。
何が女だよ、死霊じゃないか。
死霊を好きになる退魔師なんて認められない。
だから俺は、今の俺自身を認められない。
わざわざ確認する必要なんてない。
つまりおれは、どうしようもなく、
桜花皐月が可愛いと思ってしまっているのだ。
「…………ん?」
何かが引っかかる。
「……桜花……皐月……? いや、桜花のほうか……?」
夢の中で、この名が出てきたような――出てこなかったような――。
その思考は、飛んできたシャーペンと消しゴムによって遮られた。