2-2 必殺の剣(幕末編)
末次がその神社に着いたのは、明六つ(朝6時)を少し回ったくらいの時間だろうか。すでに神主――志摩蓮介は境内の掃き掃除をしていた。腰には刀を差していて――どうしても神主には見えない――それがかなりの違和感を放っている。末次ほど長身ではないが、がっちりとした身体の大男だ。肌は色黒で、いかにも武芸者であるといった風貌だ。
志摩は神職に就きながらも、城下では鬼才と名高い田淵信三郎に次ぐ剣士である。もちろん、宮司としても優秀だ。もともと死霊が多いこの国を仕切る殿様が、怪異について志摩に意見を仰ぐときもあったという。
「ん……? やあ、末次くん。今日は随分早起きだなぁ。何かあったのかね? 深刻そうな顔をして……。奥方の具合が芳しくないのかね?」
「ええ、まあ」
末次と美月の結婚話を持ち込んできたのは、志摩蓮介である。つまり、美月とも旧知の仲である。
「それで神頼みってわけかい」
「はあ……」
「でもあまりお勧めできないよ。ここの、いや、この国の神様はいい加減な性格らしくてね、生きるモノ死ぬモノ問わずに興味がないのだよ。だからこんな有様なわけだ」
「……なるほど」
そう言いつつも、末次は志摩が何を言っているのかさっぱりわからない。神様やら怪異やらについては全くわからない。無知である末次にとって、ペラペラと講義のように言葉を畳み掛けてくる志摩は、正直苦手であった。
「で? 本当に拝みにきたのかい?」
「いえ、そういうわけではありません」
末次はもう神に頼める資格など持ち合わせていない。
「ん? じゃあどうしたっていうんだい?」
「…………」
「なんだい。その、今すぐにでも人を殺していまいそうな眼は。朝っぱらから辛気臭いったらありゃしないねぇ」
「……お許しください」
末次は目を伏せて、まず――謝った。
「……!? お、おい……! なんの真似だい?」
志摩は目を見開いて驚いている。
末次は静かに鯉口を切り、刀を抜いていた。
「ど、どういうことだ……?」
「本当は闇討ちを仕掛ける予定だったのですが、妻の目もあってできなかった。今日も夜を待つなどと悠長なことはできない。ならば正々堂々と戦おう、と。そういうことです」
「誰の指示だい……!?」
「教えられませんな」
「ま……まさか、寺内家老ではないだろうね?」
「…………」
末次は黙っている。それは、志摩に肯定を示しているのと同義だ。
寺内家老にはただ一言『志摩蓮介を斬れば貴様の妻は救われる』としか言われていない。本来であればたったその一言で、よし斬ろう、なんて即決する末次ではない。しかし、今は平時ではない。妻が救われるかもしれないと言われると、今の末次ならばどのような悪事でも――例えそれが殺人であったとしても――働く。ましてや信頼できる家老――寺内将権殿の言うことならば、なおさらだ。
なぜ志摩蓮介を殺せば妻が救われるのか。それを寺内に問い質そうとしたが、明確な答えは得られなかった。当然迷う。そうした迷いが表面に出てしまい、美月が不安がってしまったのだろうと、末次は考えている。しかし、もう迷う暇などない。どのみち何もしなければ、美月は死んでしまうのだ。ならば極悪人に成り下がってしまったとしても、末次にはやるしか道がないのである。
「やっぱり寺内殿か。私は口封じか、計画の邪魔になると思われたかだね。賢明だねぇ。ただ……君ほど聡明な人が、一体どうしたっていうんだい? あの計画は馬鹿げている。わかるだろう? ちゃんと理解しているのかい?」
「さあ。よく知りませんな」
「だいいち、君が私を殺せるのかい? 私の腕は知っているだろう?」
「それも、よく知りませんな」
もうあまり時間がない、と末次は考えた。通行人に見られてはまずい。
――早く、殺さなくてはならない。
末次は刀を手に、志摩に突進した。もの凄い速さである。すり足ではなく走っている。
「クソがっ!」
志摩も刀を抜いた。重心を低くし、前屈みの状態で待ち構える。返し技をねらっているのだろう。突然の事態においても、こうした冷静な判断力をもっている。やはり只者ではない。
末次は鋭く面を狙う。あまりにも単純な動作だ。志摩は冷静に刀の腹で躱してから、末次の胴を抜く。こちらも基本動作だ。ただしこの二人、あまりにも速いのである。基本的な動きが神技のように見えた。
勝負は一瞬。
志摩が末次の胴を抜いて勝利――に見えた、が――
――血を流しているのは志摩の方だ。
「な……ん…で……?」
志摩は理解できないというふうに、手で顔に触れる。額が縦に割れていた。手に血がべったりと付く。脳までは達していないだろうが、致命傷だろう。
末次は追い打ちをかけない。志摩の残心はまだ活きている。ゆっくりと刀を上げ、青眼に構え直す。白かった刃の先は、鮮やかな赤で染まっていた。
「し、信じられない。強い、とは思っていたが……これほどとは……」
「……」
銅を斬られたようにも見えたが、末次は無傷である。志摩の面を切ったあと、そのまま蓮介の刀を打ち落としたのだ。たった一度の踏み込みで斬撃が二つ。それは剣豪――志摩蓮介の剣速を、倍以上も上回っていることを意味している。もはや奇術に値する剣技だ。
志摩蓮介は刀を八相に構えた。志摩の刀に大きな傷が入っている。
「じつに丈夫で、いい刀を使ってらっしゃる。普通はこれで、折れてしまうものです」
「ふっ……化物め」
そう吐き捨てた志摩は、末次との間合いをじりじりと狭める。致命的な傷を負いつつも、まったく戦意を落としていないどころか、ますます剣気が高まっているようにも見える。これではどちらが化物かわからない。
志摩が踏み込む。
――刹那。
剣の重みをまるで感じさせない一撃。薩摩の示現流を極めた者の初太刀ですら、この一振りに敵うか怪しい。風が裂かれ真空が起こっているかと錯覚するほどの剛剣が末次を巻き込んだ。
「くっ……!」
声を漏らしたのは志摩。今の一振りで額の傷が悪化したのだろう。頭から血が吹き出ている。志摩はとうとう地面に膝をつけた。
「勝負は着きましたな」
一方、末次は何もなかったかのように志摩の傍に立っている。
「どんな手品なのか……教えてくれるかい?」
「……教えられません。なんの変哲もない剣技ですから」
「そうかい。神にしか視えない剣技なのかね……? ……差し詰め、〝神打ち″ってところかい」
「それは……大それた名ですな」
「その腕前なら、田淵信三郎にも勝てるのではないかい?」
「わかりません。彼は別格ですから」
志摩の刀は根元から折られていた。それだけではない。胴も斬られている。彼の腹から腸がはみ出ているのが見えた。これで喋っていられるのが不思議なくらいだ。
「最後に忠告しとくよ。寺内殿のやり方では誰も幸せにならない。それに、私が死ねばこの計画は破綻するさ。……桜花家が黙っていない」
「桜花家? なぜそこで桜花の名が出てくるのです?」
今まで顔色を変えなかった末次が、初めてその顔に狼狽の色を示した。
「君には教えてなかったかい?」
「ええ、聞いていません。どういうことなのです」
志摩は腹から血が出ないように抑えつけているが、せき止められず、境内の地面はどんどん血に染まっていく。
「桜花家は陰陽師の一族さ。その化物じみた能力と流儀ゆえ、陰陽師でありながら鬼の一族として恐れられた。公家たちが喜ぶような占いや憑き物落としなどは一切やらない。死霊が現れるところへ赴き、駆逐する」
蓮介は喋り続ける。生きているのがやっとの状況で、末次に話しかける。しかし、もう限界のようだ。蓮介は激しく咳き込み、口から血を吐き出した。
「だ…から、無駄だよ。君たちは……、桜花家に阻まれて、失敗する……」
末次は焦っている。まだ死んで欲しくはない。なぜいきなり蓮介が桜花家の話を始めたのかわからない。いや、それだけではない。末次は寺内将権が何をしようとしているのかも、全くわからないのである。
「教えてください! 桜花とこの件に何の関係があるのです!?」
「…………」
「くっ……!」
――もうダメか。
「…………」
末次は見切りをつけ、刀を上段に構えた。
そのまま蓮介に向けて振り下ろし――
――首を斬った。