2-1 死人の記憶(幕末編)
「お前さま、こんな夜更けにどこへ行くのですか?」
後ろを振り向くと、美月が起き上がっていた。
丁度丑の刻に入った時間である。
「まだ起きていたのか。身体に障る。もう寝なさい」
何ともバツが悪い思いから、強い口調となってしまった。それから、自分がとてつもない悪人に思えて口が重くなる。灯した提灯がゆらゆらと揺れているように見えた。
「また、寺内さまのところへ……?」
「……そうだ」
また、嘘をつく。寺内の指示ではあるが、寺内のところへ行くわけではない。妻への嘘は引っ掻き傷のように心に痛みを植え付ける。
「まるで、果し合いに行くかのようで、雰囲気が、怖くて……」
「……」
末次は驚いた。その言葉は半分、本当である。
「行かないで、ください。今日は……もう……ゴホッ…ゴホッ……!」
美月が咳込む。耳を塞ぎたくなるほど嫌な音だ。
末次はすぐに駆け寄り、美月を抱えて布団へ戻す。美月は労咳だ。医者からは、もう余命幾許もないと言われている。だから、いまはもう藁にも縋りたい思いなのだ。
「いいから、寝ていなさい」
「……でも……ゴホッ」
美月は咳を繰り返しながら、行かないで、行かないでと訴え続ける。あまりにも言うものだから、俺のやろうとしていることを知っているのではないか、と末次は思った。
「お前……」
……いや、知られているはずがない。そう思い直した。願望といってもいい。
末次は美月の背中をさすった。線の細い身体だ。妻に娶ったときは城下中の男どもが彼を羨ましがった。あの時の凛としていた姿が、今はやつれきっている。しかし、それでも美月は美しい。今にも壊れてしまいそうな雰囲気が、儚げに映る。――守ってあげたい――救ってやりたい。そんな気持ちが、美月への執着を強めている。美月のためならどんなことでもしてみせる。犬畜生に堕ちたって構わない。だから絶対に――。
〝――絶対に死なせはしない〟
「……」
……しばらくすると、美月は静かに寝息をかき始めた。あまりにも静かなので死んでいるのではないかと焦ったが、「お前さま……」と寝言をつぶやくので安心した。彼の腕の中で安心しきったかのように寝ている。最近は特に、彼に甘えるようになった。まるで子供のように――いや、前々から子供っぽいところはあったのだが――甘えてくる。
一度、美月に避けられていたことがある。急に彼によそよそしくなったのだ。半年ほど前だったか。美月が病気を患ってからだ。彼が、
「あれだけ煩いほど話しかけていたくせに、なぜ急に避けるようになったんだ」
と訊くと、
「いえ……。この病気は移るかもしれないと聞いたので、その……」
美月はひどく落ち込んだ様子で答えた。目が少し赤い。具合が悪いのだろうと思った。
「なるほど、移しちゃ悪いと思ったのか。……しかしそれが俺のためだと思っているのなら、全くの見当違いだな。すぐに止めなさい」
「え……?」
美月は大きな瞳を開き、彼に叱られたのかと思ったのか、涙を瞳にうるうると溜めた。
「俺のためなのか?」
「……は、はい……」
「ほう……。お前は俺と話さない、関わらないということを、これから我慢できるのか? なんの苦にもならないのか? それなら俺も我慢しよう。もう近寄らないと約束しよう」
美月はますます目に涙を溜めた。胸のあたりで両手を握り、ふるふると震えている。
「い、嫌……嫌です……! 苦しい、です……。近くに……いたい……」
とうとう溜めた涙が頬を流れる。嫌、嫌と駄々っ子のように泣いた。
「俺と話さないと、辛いか?」
「辛い……! 辛くて……、さっきも、胸が苦しくて……泣いていました……」
……だから目が赤かったのか。
「そうか、ならばやはり見当違いの気遣いだ。止めなさい」
末次は美月の頭を撫で、そのまま抱き寄せた。美月は彼に病気を移しては悪いと思っているから、戸惑っている様子だ。
「まず、俺はお前の病気を治したい。病は気から治すという。そんな精神状態じゃあ、治るものも治らん。俺と話しているときのお前はとくに元気がいい。だから、俺と一緒にいればいい。俺は病気にはかからないから安心して傍にいていい」
「私は治るのでしょうか……。それに、あなたには本当に、うつらないのですか?」
「治るさ。それに俺にはうつらない。たとえうつるとしても、俺には美月に避けられるのがどうしても耐えられない。もし俺が病気になった場合は、それが原因だろうな」
美月は瞳を涙で輝かせながら、上目遣いに末次を見た。それから、彼の胸に勢いよく額をぶつけ、「ごめんなさい」と謝り続けた。
「俺はいつか道場を開きたい。子供たちに剣を教え、俺の技を力量あるものに託す。お前にも手伝って欲しい。どうだ? 楽しそうだろう?」
「ではあなたと、ずっと一緒にいられるのですか?」
「ああ。潘は俺の剣を認めてくれている。もう少しすれば城勤めも免除してもらい、自分の建てた道場で剣の修行に専念できる。お前に支えてほしい。お前と共に老いていきたい」
「……お前さま。嬉しゅうございます」
「これから永いときを共に歩むのだ。俺に迷惑をかけていい。謝る必要も、気を遣う必要もない。それが夫婦というものであろう?」
「…………はい……」
それから美月は泣き続けた。愛おしい時間だった。
そんなことを思い出した。それから美月は日を重ねるごとに甘えるようになった。……愛しい妻なのだ。ずっといっしょにいたい。たったそれだけのことしか求めない。だから、お願いだから、美月を……妻を死なさないで欲しい。
外はすでに明るみ始めている。急がねばならない。
ここでくすぶっていても、美月を死なせるだけだ。
腰に差した大小の刀が、末次に重くのしかかる。
彼は今日死ぬかもしれない。それでも……と歩き続ける。
彼の名前は――〝末次″だ。
そして、これは〝俺”の記憶ではないとわかった。
これは俺とはまったく関係のない、大昔に死んだ男の記憶である。