7-6 最強の陰陽師(幕末編)
部屋に入ったときからわかっていた。畳が血に染まっていることも、その畳の血が夫のものだということも、強烈な死の匂いが充満していたことから、夫が死んでいるということも――。
「なん……で…………?」
「おお、誰かと思えば加賀の妻ではないか」
鬼は再び末次の身体を持ち上げ、不思議そうに眺めた。
「こやつ、なかなか霊体化しないな。儂の予想では、妻への想いが呪を高めるかと思ったが……。いっそ儂の新しい依代にしようかの。うむ、若くてたくましい身体だ、さぞいい依代になるだろう。このような醜い身体ではいかん」
鬼は末次を喰うつもりらしい。
「……な……れろ」
「…………ん?」
こちらに向き直った鬼は醜い顔をしていた。しかし美月の心は、それにも勝る醜い感情に溢れている。
『――離れろ』
静かに言った。
溢れた感情がこぼれ落ちた程度の、静かに発せられた御言。
しかしその程度の言霊で、末次は解放され、鬼の身体は宙に大きく浮かんで壁まで突き飛ばされた。
「なっ……なにを……?」
末次を掴んでいた鬼の右腕はどこかに吹き飛んでいる。
「なんだ……今の力は……? 貴様はいったい……」
『――黙れ』
今度は口が吹き飛んだ。下の顎と舌が外れ、ちぎれて飛んだ。
「あああああああっぁぁぁ」
「ちっ、飛んだのは顎か、喉が無事とは、やはり私の腕も落ちたものだ」
言霊とは言葉によって相手の霊をコントロールするもの。つまり、効果は相手の行動を操作する程度のはずだが、美月はその次元を軽く凌駕している。美月は相手の霊を支配することができる。腕・足・腹・さらには内蔵の各機関に宿る霊にも強制的な命令を下せる。「黙れ」と言えば、相手の脳ではなく、喋るための機関が反応して、自ら破壊させる。
倒れている末次を、美月は抱き上げた。
「……お前さま」
見開いている夫の眼を優しく閉じる。
「なんで……どうして……もうすぐ私は死ぬというのに……なぜ最後にあなたの死に顔を見なくてはいけないのです? こんな仕打ちはひどすぎる。私が何かしましたか? あなたに嫌われるようなこと、しましたか?」
着物が末次の血に染まった。それほど強く抱きしめる。
「嫌だ……死なないでぇ……お願いします……お前さまぁ……うああぁ」
今度こそ、絶望した。美月の考える死に方はできなくなった。末次のなかで美しく生き続けるという死の美はもう達せない。彼に看取られるという幸福も潰えた。そしてそれ以上に、夫の死が直接に、純然として美月の悲しみを煽った。これ以上の悲しみを、美月は想像することはできなかった。そしてこれ以上の憎悪を、美月は知らなかった。
「なぜ殺した……?」
美月は問う。
鬼が立ち上がり、美月に襲いかかってくる。飛ばされた右腕と口をそのままに、醜い顔を捻じ曲げて、一直線に走ってきた。彼女に焦りなどなく、ただ怒りをもって化物を睨む。
『――這え』
凛とした声で言霊を放った瞬間、鬼の股から激しい血しぶきがあがり、見えない刃に裂かれたかのように両足が根元から切り飛ばされた。鬼は畳に滑り落ち、自然と美月に頭を垂れるような格好となる。
「答えろ……と言っても、その状態では話せないか……」
まるで別人に変わった美月は大きく息を吸い込み、
『――話せ』
と言った。どこからか、飛ばされたはずの顎と舌が現れ、鬼の顔に張り付いて元通りにくっついた。彼女の言霊は、肉体という物質に守られた人間には通じないだろうが、むき出しの霊体である死霊に対しては何でもありの魔法だ。直接語りかけられた霊は御言に逆らえない。
「何だ……貴様……いったい何者だ……」
治った口で、鬼は問う。
部屋の隅に転がっている死体から、美月はこの鬼が寺内将権だということはわかっていた。
「寺内将権、なぜ私の夫を殺した? いったい何を企んでいる?」
美月は問いで返した。
『――答えろ』
強制されては、鬼に抗うことはできない。
「殺さねば霊獣にはなれない」
霊獣という言葉に、美月は反応した。
「まさか……志摩殿が……」
「そう、志摩蓮介に霊獣のことを聞いた。感情が昂ぶった状態で生き物を殺せば、その生き物は呪をもった不老不死の霊獣となる……と。儂は不死の身体と兵が欲しかった。しかし志摩は違った。儂らをただ観察しておったのだ。許せん、儂を愚弄した。だから殺した」
「……あの方は、桜花を追放されたことに懲りず、まだそのようなことを……。人を使った呪の儀式は固く禁じたはずなのに」
鬼は顔を上げて皐月を見た。
「桜花……だと? 桜花家のことか? なぜその名を知っておる……?」
醜い顔が歪められ、皺だらけになった。どうやら驚いた表情をしているらしい。
「ま……まさか……先ほど使ったのは言霊か……? 貴様もしや……桜花のものか」
「私は桜花家当主――陽条が長女、桜花流陰陽術大目録免許――加賀美月」
「桜花の血族だと!? なぜそのようなものが我が潘におるのだ? おのれ志摩蓮介、謀ったな!」
「もう聞くことはありません。あなたは私の夫を殺した。そのことを後悔しながらこの世から消滅しろ」
美月は大きく息を吸い込んだ。鬼がドロドロに溶け、透明の水になって美月のなかに吸い込まれる。断末魔の叫びをあげる間もなく、寺内将権の霊は分解され、この世から消え去った。
鬼喰いを終わらせた美月の肉体は、僅かに活気を取り戻す。それでも病気のほうはどうにもならない。彼女の命はほんの少し息を吹けば消えてしまう灯火のようだった。
末次の死体を畳に寝かせ、美月は禊を行なった。舞うように、優雅に両手を振り、彼の身体全体に風を送る。それだけで、末次が死の直前にあったときの感情は洗い流された。霊獣が感情を利用した呪いで生まれるのなら、これで末次は霊獣にならないだろうと思った。
しかし美月は間違っていた。
この土地はすでに手遅れだった。
今、小塙潘で死んだものは例外なく死霊となる。
禊をしたことによって、末次は他の霊獣のように醜い容貌とならなかった――ただそれだけの効果しかなかった。
そのことに、美月は気づかなかった。
「……時間がない」
自分が死ぬ前に、城下に蠢く死霊すべてを葬らなくてはならない。また多くの意思を奪うことになる。
「でもやらなくては……」
そうしなければ、未曾有の大災害がこの国を襲うだろう。
「さよなら、お前さま」
優しく接吻をし、美月は立ち上がった。不思議と咳はとまっている。それでも間近に迫る死を彼女は感じていた。
――一人では無理かもしれない。
「…………」
美月は寺内将権から得た霊力で紫を呼ぼうとしたが、やめた。この状況を彼女に見せることはできない。自分の愚かしさから起こったことは自分一人で始末する。そう思った。
ゆっくりと歩きだす。
そして激しい雨が吹き荒れる外界に、美月は身を出した。
すでに陽はあがったようで、分厚い雲の奥からかすかな白が見え隠れしていた。それでも黒々とした世界はそのままで、時おり指す雷が、一瞬ではあるが陽光よりもたしかに城下を照らした。
巻き起こる洪水のなかから、多くの叫び声が聞こえる。あまりにも多いものだから、陰陽師である美月であっても、その声が生きたものか死んだものかは判断しにくかった。
「どこから行こうか」
そう呟いた美月はすでに加賀美月ではなく、桜花美月となっていた。
――その日、桜花美月は約千体もの霊獣を喰い、そのうち約百体もの霊獣は消化しきれなかったため己の体内に封じ込めた。もし、この事実が記録されていたならば、間違いなく、桜花家の歴史における最高の術師として、美月の名が刻まれていたことだろう。さらに美月は、この地の霊を抑えるために、霊の異常点であった寺内屋敷の土蔵に自らの身を投げて封じ込めた。封じ込めるための霊力と術式を保存するために、自分の死後の依代を加賀本家に置き、永い眠りについた。




