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傍らで偲び咲く桜の花  作者: 堀口直
第六章 桜の花
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6-11 引き裂かれた未来(過去編)

「紫……出てきなさい」

「はい」

 草木も眠る丑三つ時。

 誰もいない八十島邸の道場に、皐月は一人で佇んでいた。

 彼女の呼びかけに従い、月の薄暗い白光に照らされた板張り床の上に美女が姿を現す。

 忠実な従者は主に頭をたれ、跪いた。

 まるで時代劇のように現代離れした光景に、張り詰めた空気が順応する。

「あたしね、好きな人ができたんです」

「………………は?」

 しかし、張り詰めていた空気はお姫さまの一声で途端に弛緩した。

「好きな人と、一緒にいたいんです」

「…………」

 要領を得ない主の意思を汲むため、式神は表をあげた。そして驚いたように息を飲み、主の瞳を凝視する。

「主さま……なにかありましたか?」

「どうして?」

「素晴らしい眼をしておられます。私のように卑しい式神では、危うく吸い込まれてしまいそうなほど、強く、美しい瞳です。桜花の名を背負う当主にふさわしい光を手に入れられました」

「以前とは違いますか?」

「恐れながら、その域に達するにはあと五年はかかるかと踏んでおりました」

「そう……」

 小桜模様の青い和服に身を包んだ皐月は、月の光を受けて年不相応の妖艶さを引き出していることだろう。

「紫……好きな人と一緒にいるためには、どうしたらいいのでしょう?」

「お慕いする殿方がいるのですか?」

「ええ、死ぬまで添い遂げたいです」

「想いを伝えればよいのです。主さまを拒む殿方など、この世にはいないでしょう」

「そうですか? しかし、万が一ということがあります。その場合は、やはり監禁するしかないのでしょうか?」

「…………え?」

 珍しく間抜けな声が、艶かしく濡れる紫の唇を開いて漏れる。

「たとえ想いが通じたとしても、万が一、他に好きな人ができる場合があります。心苦しいですが、やはり拷問と調教の心得も修めておくべきでしょうか?」

 真剣に考え込む皐月の様子から、紫はこの主が本気だということを悟った。

「ああ……どうしよう。紫、あたしはこの想いを抑えることができない」

「そう……ですか。しかし主さま、その……まず想いを伝えるまえに、道徳というものを学んでからのほうが……」

 監禁、拷問、調教という物騒な言葉が、紫の頬をヒクつかせる。

「なるほど、たしかに……。御言による強制では意味がない。心からあたしを愛するように、人道的に強制……いえ、調教することが大事ということですか」

「あの……まずは正当法を学んでは?」

「正当法? 調教にもいろいろある?」

「…………」

 どうも言葉を探しあぐねている紫。

「ごめんなさい、紫。こんなときだけあなたに頼るのは、都合良すぎるかもしれないけど」

「……? いえ、そんなおおげさな」

 急に肩を落とした皐月を、紫は訝しげに眺めた。

「想いを伝える……か……。でもそれは、彼を助けてからにします」

 皐月は意を決したように強い光を帯びた瞳を開いた。

「教えて、紫」

 弛緩していた空気が再び引き締まる。

「時間がないの」

 声のトーンが落ちる。

「このままだと、啓介が死んでしまう」

 落ちたトーンは、悲しみと焦りをわかりやすく伝えた。

「だから教えて、紫……」

 初めて受けた主の懇願に、式神は強く頷いた。



              ◇



 啓介の様子がおかしくなったのは三日前――ショッピングモールでの騒ぎからちょうど一週間過ぎた日のことだった。

 ショッピングモールの件は、なんとか警察沙汰にはならなかったものの、美瑠久の彼氏は鼻の骨が折れており、大変な騒ぎとなった。現場に駆けつけた源次郎は皐月と啓介を叱ることは一切なく、あとの処理を引き受けた。ただ一言、「飯島美瑠久にはやはり遠くに引っ越してもらわなくてはなりませんでしたな。余計な情けをかけて申し訳ありません」となぜか謝罪した。

 叱りはしなかったものの、二人はしばらく外出禁止を言い渡され、再び部屋に引きこもることとなった。しかし、これまでとあきらかに違うのは、皐月が不自然すぎるほど啓介にベタベタするようになったことだ。

 ゲームをするときは啓介の膝の上に乗り、彼が「重いよ」と言うと口を尖らせながら説教をした。皐月は身を乗り出し、自らの唇で、言い返そうとする啓介の口を塞いだ。閉口した彼に「言い訳はダメですよ」と無言で圧力をかけ、また膝の上を占拠する。皐月にとってはファーストキスであったが、特別なことだとは思わなかった。これから死ぬまでずっと一緒なのだし、もちろんこういうこともあるだろう、という程度のことしか思わない。

 お風呂には一緒に入った。「ごめんなさい、キスより先はもう少し大きくなってからです」と啓介の身体を隅々まで洗った。なにも恥ずかしいことはない。一生共に暮らすのだから、こういうことも、そういうこともあるだろう。

 寝るときは一緒の布団で寝た。「暑いよ」と抗議する啓介を言霊で制し、彼の匂いが濃厚である首筋に己の鼻先を押し当て、流れる汗を舐めとりながら眠りについた。このあたりで皐月は自分の異常性に気づきつつあったが、やはり夫婦となるならこれくらいは当たり前だろうと、飛躍した関係を妄想でつくりあげながら、飛躍した考えで納得した。

 まごうことなき幸福な日々。

 そんな日々を謳歌し、さらなる幸福を渇望した。

 望みは輝かしい未来の設計図を正確に描き、その縮図をいまの思い出として脳に刻んだ。

 しかしその設計図はすぐに破られた。修正できると信じていても、どうしても上手くいかない。

 啓介の症状が悪化したのだ。

 夕方、いつも通り苦しみだした啓介を言霊で鎮めようとしたが一向に鎮まらない。何度言霊をかけても苦しむばかりだ。啓介はうめき声をあげながら部屋を飛び出した。部屋で発火しては迷惑になると考えたのだろう。後を追った皐月は、中庭で転げる啓介に近づく。

 頭をかきむしった啓介は焦げ臭い煙を吐き出した。内蔵から発火している。皐月は泣きながら、何度も術を使うが全く効かない。

 紫を呼ぶが、焦りでぐちゃぐちゃになった式ではとても彼女を現界させることはできない。

 日が落ち、源次郎が帰ってくるころには、啓介の症状はおさまっていた。皐月は安堵とともに、気絶する啓介を抱きしめていた。

「もって二週間、といったところですかな」

 源次郎は眼を伏せ、静かにそう宣言した。

「なにが……ですか……?」

 事態を全く把握できていない皐月は問う。

「啓介の身体はもう持ちません。姫の言うことが正しければ、啓介には火山活動という大地の現象霊が宿っている。大地でも悲鳴を上げるようなこの霊が、なにを間違えたか人間に宿ってしまっている。そんなもの、耐えられるわけがない。たとえ言霊でも、もはやとめることは不可能です」

「なんで、ですか? だって、いままではこの術で抑えられたのに……」

「わかりません。単に限界がきただけかもしれません。焼かれた内蔵は回復できていない。もって二週間。それ以上は無理でしょう」

「死ぬ……ってこと……?」

 嘘でしょう? という言葉が出てこない。源次郎はけっして嘘はつかない。源次郎を嘘つき呼ばわりはできない。

「間違い……じゃないですか?」

 そう思いたい。

 震える唇を必死で引き結びながらも、皐月は無理矢理に笑顔をつくりだす。

 笑えば、違う結果になると思った。笑っていれば、幸福な設計図が修復されると思った。

 だから、今流れている涙は違う。悲しいからではない。それをどうかわかってほしい。

 そんなのってない。これはきっと違う。楽しい日々が約束されたから、きっと神様がそのかわりの悪夢を見せているんだ。夢だ。現実じゃない。

「嘘だ」

 神様なんていない。少なくとも、全知全能の創造主たる神はいない。そんなのは皐月がよく知っている。じゃあこれはなんだ。現実だ。なんだこれは。幸福な想いをさせて絶望に突き落とす悪いやつは誰だ。誰だ、誰だ誰だ誰だ!

「……姫」

 かわいそうな源次郎。なんでそんな苦しそうな顔をしているの? なんで悲しそうな顔をあたしに向けるの? やめてよ。そんな顔であたしを見ないで。かわいそうなのはあたしじゃなくて源次郎だ。あたしじゃない。だっていまあたしは笑ってる。かわいそうな人は笑わない。

「……姫!」

 そんな逃避に近い無益な皐月の思考を、源次郎の一喝が遮る。

「まだ諦めてはなりません。姫はいろんな御言を試してください。爺は新しい手を考えます。ただ……覚悟はしていてもらいたい。この仕事に就くつもりなら、こういうことは多々あります。それをお忘れなく……」

 そう言って、源次郎は去った。

 残された皐月は放心状態で、ただ頬を流れる涙のみを感じていた。



「だめだ」

 何度試しても効かない。一度発作を起こした啓介は、どんな御言を唱えても鎮まらない。

 とうとう啓介は、なにも話せなくなった。なにも食べられなくなった。呼吸もままならない。それでも意識はしっかりしている。

 点滴をうたれ、人工呼吸器をつけられ、夕方になればどちらも燃やして捨てた。また新しい点滴と呼吸器が用意される。

 高温物質が体内を焼き、内蔵は黒焦げ、死なない程度に再生され、生と死の狭間で彼は苦しんでいる。それはどれほどの地獄だろうか、と皐月は考えたが、とても想像できない。

 ――いっそ死んでしまったほうが楽なのではないか。

 今の啓介はあきらかに延命措置という結果の先延ばしをされた状態だ。

 啓介はもう死にたいのではないか。心のなかで、殺してくれと叫んでいるのではないか。

 ――嫌だ。

 死なせたくない。

 いくら彼が死にたいと叫んでも、死なせてやるものか。描いた未来はまだ捨ててはいない。啓介が生きていてくれさえすれば、まだ修復可能だ。

 皐月は彼の黒焦げた手を握り、必死で考えた。

 ――どうしたらいい?

 源次郎はあれから何処かへ消えてしまった。啓介を助けることができる人に心当たりがあるのだろうか。人探しに行く、と言って出て行った。

 使用人室には、啓介と皐月、そして源次郎の知人である医師と看護師の四人がいた。医師と看護師は朝、昼、晩の決まった時間に顔を出してくれることになっているが、彼らには期待できない。はじめから諦めているように、啓介を看ている。

 ――とにかく、あたしだけで考えなくてはならない。

 だから必死で考えた。

 そして考えついたものは、とても突拍子のない、未知なる術であった。

 皐月が考えたオリジナルの式。

 この術が成功するかどうかは、全く想像がつかない。

「紫!」

 呼んでも、式神は出てこない。

 今の皐月は、御言を多用しすぎたせいで、体内の式のバランスがおかしくなっている。これではあの強力な式神は呼び出せない。

 しかし、このオリジナルの式についての意見が聞きたい。もしかしたら、紫にも策があるかもしれない。

 ――頑張るしかない。

 皐月は気力を振り絞り、体力を付けるため、ろくに喉を通らなかった食べ物を無理やり咀嚼して、大量に嚥下した。風呂に入り、身を清め、源次郎に買ってもらったお気に入りの和服に袖を通した。小桜模様の青い着物。儀式にはあまり向いていないが、持っている清潔な和服はこれしかないので、仕方がない。

 そして丑三つ時、静寂に包まれた道場の大きな神棚のしたで、皐月は己の従者たる最高の式神を呼び出した。


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