1-4 ある幼女の霊
まだ痛む。俺は鳩尾辺りをさすりながら、学校の外に出た。そういえば、加賀さんは剣道部の女子部長だ。転校してきた初日に、この学校は部活に入らなくてはならないと言われ、それなら少し自信のあった剣道部にしようと一度だけ見学しに行ったことがある。その時に女子を指揮していたのが加賀さんだった。素早い動きと正確な打突、そしてなによりも眼の良さが一級品だった。おそらく男女引っ括めても、あの中では一番強いだろう。――何が言いたいかというと、あれほどの女丈夫に肘打ちされては痛いに決まっているだろうということだ。べつに俺が情けないわけではない。……たぶん。
結局時間の都合が合わないので剣道部ではなく、ほとんど帰宅部と同じだという合唱部に入った。まだ一回も顔を出していないが、何も言われないということは、きっと大丈夫なのだろう。
外に出ると、晒された顔の素肌がひんやりとした冷気に触れて身体全体を強ばらせた。緩やかに吹く風が頬を冷やす。
流石に十月の半ばともなると、夕方時は肌寒くなってくる。西に沈み掛けた陽は寂しそうに世界を照らしているように見えた。
この霞丘高校は小高い丘の上にあり、丘全体に桜の木が植えられている。春になれば桜に包まれる美しい学び舎になるという話らしいが、今の見当はずれなシーズンにおいては、寂しさを引き立てる材料にしかならない。殺風景な丘は生気が吸い取られたかのように枯れていた。
気持ちの悪い雰囲気だ。今朝感じた頭痛が再び俺を襲う。
「嫌だなぁ」
こんな時には絶対に何かがある。それも良くないことが。経験上、黄昏時には死霊が寄って来やすい。それはおそらく、俺の気が沈むからだろう。精神的に弱まり、霊魂に隙が生じたときに最も死霊が憑き易いからだ。
昔からこの時間帯が一番嫌いだ。小さい頃、俺が狂ったように暴れ出すのは決まって夕陽が沈むときだった。そんな俺に向ける、母親の泣き出す顔、蔑む顔、怒り狂った顔、そして諦めた顔。全てが夕陽に照らされたものだった。母親が俺を捨てるときも、こんな黄昏時だったはずだ。いつもいつも、夕陽を見れば頭痛がとまらなくなり……火がついた。それも、ついさっきまで忘れていたわけだが。
なぜ、今になってこんなことを思い出すのだろうか。母親のことなんて、何年も思い出せなかったことだ。これもやはり、夕陽のせいなのだろうか。
「やばいなぁ」
近頃は夕陽を見ても嫌な気分になるだけだった。だから、もう大丈夫だろうという安易な考えもあった。その結果がこの激しい頭痛である。……いや、今日は頭痛だけではない。松島の言葉が耳に残っている。
――親がいなければ、クソみたいな人間が出来上がるというのは本当らしいな。
あのたった一言で、俺はかなり動揺した。加賀さんがいなければ、おそらくあの場で暴れていただろう。俺は、自分が精神的に弱すぎることを失念していた。……いや違うな、強くなった気でいた。厳しい修行が自分を精神的にも強くしていたのだと勘違いをしていた。多少は強くなったのだろうが、こんな臆病者の成長など、たかが知れている。現にこうして、さっきから母親が頭から離れない。夕陽に照らされた母親の顔。耳を切り裂くような甲高い声。そうして母親は俺を殴り続ける。俺の身体が熱いからって、木刀で俺を殴りつける。
――啓介、なんで他の子と同じようにできないの……?
破裂する。
頭の中身が外に飛び出る。
そうしたほうが楽になれる。
それほど、頭が痛い。
――お願い、啓介を嫌いになんてなりたくないの。
人をあれだけ殴りつけておきながら、
よく言えたものだ。
――病院に行っても恥をかくばかり! なんで狂うなら病院で狂わないの!?
膝が崩れる。
あのころのように。
地面でうずくまることしかできない。
硬い地面だ。
コンクリートなのかリビングの床なのか、
そんなことは思い出せない。
――啓介、もう学校には行かないでちょうだい。
はっきり思い出せるのは、
母親を醜く照らす、
真っ赤な……
『啓介、あなたには悪魔が憑いているの。母さんが殴るのはね? あなたじゃなくて悪魔のほうなの』
『啓介、今度こそあなたの悪魔を払ってくれるところを見つけたの。きっとあなたの腫れた顔も一緒に治してくれる』
『けーすけ、どーして治らないの? 答えてよ。借金までして面倒見てるのに。答えなさいよ。いつまでも寝てんじゃないよ! 出てけよ悪魔! 出てけ! 出てけ出てけ出てけ! ……どう? その中は居心地悪いでしょ!? こんなに蹴られる身体なんて嫌でしょ!? 死んじゃうよ? 早くこの身体から出ないと死ぬよ!?』
そうだ。殺す気だったんだ。
あの女は俺を殺したかったんだ。
……だから。
――だから真っ赤な炎で焼いてやったのだ。
『ああッ、ああああああ!』
それは、俺の声だったか、母親の声だったか、わからない。両方叫んでいた気もする。ただ、皮膚が焼ける匂いと、醜くなった母親の顔は鮮明に覚えている。あの顔は、人間の顔ではなかった。だから、そのときの俺は罪悪感なんてものはなかった。正義のヒーローが、化物を退治するような感覚だ。むしろ俺は、ヒーローになれたことを、とてつもなく、喜んだ。
『ケースケェェエエ!』
それは呪詛に満ちた声だ。化物が自分の名前を叫んでいる。それがひどく恐い。
『啓介!』
燃えている。化け物だけではない。部屋のもの全てが燃えている。窓から差す夕陽が、火をより一層に大きくしているのだと思った。
「やめてくれ!」
なぜ気を失わないのか不思議なほど頭が痛い。
過去と現在が一緒くたに頭を駆け巡っている。記憶が流れてくる。傍で燃えている木が、過去の記憶なのか、今起こっていることなのか全くわからない。
『啓介!』
やめろ。名前なんて呼ぶな。痛ぇ。痛ぇ痛ぇ痛ぇ・・・!
「啓介! しっかりしてください!」
冷たい感触が、俺の額を包んでいる。それが俺の意識を現在に引き戻す。
「え……?」
額を探ると、誰かの手が置かれていた。頭の痛みが、その手に吸い取られるように退いていく。後頭部に、暖かいものを感じる。誰かに膝枕でもされているのだろうか。
気付けば自分の部屋だった。どうやら無意識にでもたどり着いたらしい。
「だ……れ……?」
顔を上げ、額にある手の主を見た。幼くも美しい少女だった。……どこかで見たことがある。
写真の――。
――皐月だ。
「さ……つき……?」
「ごめんなさい。少し、力を返しすぎたようです。余計な記憶を思い出させてしまいました……」
「…………」
俺の頭は、皐月に優しく抱えられていた。大事そうに抱えながら、柔らかい笑顔で俺を見つめている。
「啓介の、都合の悪い記憶だけでも、奪ったままでいられたらいいのに……」
皐月から目が離せない。完全に釘付け状態になっていた。本当に……本当に美しい笑顔を俺に向けている。
腰まであるだろう長い髪が、俺の頬に触れて心地がいい。皐月の顔が俺の方に降りてくる。
「啓介……こんなに近くで、やっと……私を、見てくれて…………やっと……!」
皐月の唇が、俺の唇と重なる。柔らかい感触が、5秒ほど続いた。離れた皐月の顔は幸せそうに微笑んでいる。
……知っている。
……俺は、この少女――皐月を知っている……。最近みた写真ではない。ずっとずっと昔から、知っている。
「ころ、さなきゃ――」
喉から声が漏れた。声を出したつもりは全くなかった。が、俺の口から言葉が出た。
「早く……! 殺さないと――」
信じられないことに、俺は大きな力を込めて、皐月の首を締めていた。俺の身体ではないかのように、手と口が出る。
「殺さないと……!」
こんなのは、俺の声じゃない。
だから嫌わないで。
母さんみたいに嫌わないで!
皐月だけには絶対に嫌われたくない。
でも、早くこの死霊を葬らないとだめだ。ダメなんだ。
「くっ……!」
皐月は一瞬だけ苦しそうに声を漏らしたが、さっきと変わらず、優しい笑顔のままだった。
「けっ……いすけ……。だい……じょうぶ――」
皐月の手が俺の首筋に触れた瞬間、俺は脱力した。皐月の首に張り付いた手も解ける。皐月は激しく咳き込んだ。
「こ、れは……。違う……! 俺じゃあない。違う……! だから……」
動揺は収まらない。今でも俺の中で、何かが、この女を殺せと叫んでいる。
「大丈夫――」
皐月は、怯える俺を胸の中に強く抱き込んだ。つつましくも柔らかい胸と懐かしい香り。子供をあやす様な優しい声。その全てが、俺を安心させる。混乱が、溶けていく。
「――ああ、よかった――」
いつのまにか俺は泣いていた。皐月の胸の中で、涙が止まらない。
もう大丈夫だ。何も恐いものなんてない。皐月がいてくれれば、俺は大丈夫だ。
そう思うと、すっかり気が抜けてしまった。
俺はそのまま、意識を落とした――。
(第二章へ続く)