6-10 幸福から絶望へ、そしてまた・・・(過去編)
緊張しながらも店をまわり、啓介に似合うようなTシャツを三着、靴を一足、皐月が欲しかった漫画を五冊、洋楽のアルバムを二枚、それぞれ購入した。二人の手は何度か離れたが、その度につなぎ直し、荷物はそれぞれの空いた手で持った。
――来てよかった。
ことのほか楽しい。つながった手が熱くて心地よい。帰らなくてよかった、と皐月はきゅっと手を握って感謝の気持ちを送った。
壁にかかった時計はもう夕方の五時十五分を示していた。そろそろここを出ないと、源次郎と約束した門限の六時に間に合わないかもしれない。
映画館に行ったことがないという啓介に、なんでもいいから映画を見せてやりたかったが、どうやら今日は無理なようだ。しかし、また今度いっしょに来るための口実ができたことに皐月は嬉しさを感じた。
「映画館ってやっぱりすごいのかな?」
「すごいですよ。スクリーンは大きいし、音量も迫力があります」
「へぇ〜、見たかったなぁ」
「まあ、また今度来ればいいじゃないですか」
浮き立つ気持ちを、なんとか鎮めようとする。
「皐月、そのしゃべり方治らないね? まだ緊張してるの?」
「え? いえ、もう大丈夫です」
「じゃあなんで?」
「だってさっき、大人っぽくてかっこいいって……」
「うん、大人と話してるみたい」
「ならこれでいいです」
「……? まあいいや」
二人は手をつないだまま、バス停に近い出口のほうへ歩きだす。
雑貨店の前を通りかかった。ユニークなデザインの日用品などが並んでおり、興味を引かれる。
歩きながら店の奥を覗いたとき、見知った顔を見かけた。
「あっ」
と声をあげたのは相手の方だった。皐月は身を固まらせ、動けないでいる。啓介も立ち止まり、「どうしたの?」と怪訝そうに尋ねた。
小学生でありながらウェーブのかかった茶髪で、派手な化粧をした女子。ピンクでキラキラとしたシャツが彼女らしい。皐月が一番会いたくなかった人物……飯島美瑠久だった。
「あんた……なんでここに?」
それはこっちのセリフだ、と言おうとしたが、言葉が出てこない。硬くなってしまった口を引き結び、皐月は美瑠久を睨みつけた。
悔しかった。せっかく楽しい気分を今日の思い出としたかったのに、こんなくだらないやつに会ってしまっただけでぶち壊しになった。
睨まれた美瑠久はあきらかに動揺している。
無視して帰ろうと思ったとき、美瑠久が横にいた男に声をかけた。
「りっ、龍くん! ちょっと」
龍くんと呼ばれた男が振り向く。肩まで伸びる長い金髪、背は高いが猫背で丸まっており、不自然なほどにつりあがった眼がこちらを覗く。黒と金の刺繍が入ったジャージが誇らしげに輝いていた。ダサいがケンカは強そうだ、というのが第一印象。
「どした?」
男はひっくり返ったかのように甲高い声を出した。どう見ても中学生以上だ。
そういえば中学生の彼氏がいたとか自慢してたな、と皐月は思い出した。
「あいつだって、ほら、この前話した妖怪女!」
びくっと手が震えた。
「まじかよ、めっちゃカワイイじゃん。まじ好み」
「はぁ? なに言ってんの? まじやばいんだって、あいつ。人形動かして襲ってくるって」
「それまじかよ、何回も言ったべ? ぜってーねぇだろ」
「まじだって!」
男がこちらに近づいてくる。
「ねぇねぇ、君、こいつがさぁ、めっちゃ変なこと言うのよ、あのさぁ、俺にも見せてよ、人形動かすやつ」
――くだらない。
啓介の手を引き、この場を去ろうとする。
これ以上、嫌な気分になりたくない。
「ちょ、ちょ、待ってよ〜、ここじゃあなんだからさぁ、どっか行かない? 美瑠久怖がってるしぃ、よかったら俺と二人だけでもいいよぉ」
高い声が気持ちの悪い猫なで声をつくっている。吐き気を催すほど、嫌な気分だ。
美瑠久も寄ってくる。男の腕に指を絡ませた。
「ちょっと何言ってんのよ、そいつ顔だけはいいけどやばいやつだから、あんま関わんないほうがいいって」
男が美瑠久の手を鬱陶しそうに払い除けた。
「っせ〜な、とりあえずお前黙ってろよ、つか帰っていいよ、ぶっちゃけ今日つまんなくてどうしようかと思ってたし」
美瑠久が泣きそうにゆがめた顔で皐月を睨んだ。
かわいそうに、と初めて美瑠久に同情した。こんな男に突き放されたことよりも、こんな男といっしょにいたいと思っている彼女が、どうしようもなくかわいそうに思えた。
「行こう、啓介」
「……うん」
戸惑いながらも、啓介は皐月についてくる。
「おい、待ってってば……」
「…………」
「待てって言ってんだろ!」
無視されたことにキレた男が、怒鳴りながら皐月の腕を掴んできた。
その瞬間、彼女の腹に力がこもった。
『――触れるな!』
電撃のような痺れが、男の手に響く。悲鳴をあげて、男は皐月に触れていた手を引っ込めた。同様に啓介もつないでいた手を離した。
咄嗟に高ぶった感情が言霊をつくりだしてしまったらしい。
「あっ……」
やってしまった。
かなり強い命令の御言。魂から行動を強制された人間の脳は、とてつもない畏れの感情を術者に抱くはずだ。さらに、一般レベルの術師が放つ数倍もの呪がかかったことだろう。
案の定、男の顔は恐怖で青ざめている。唇は震え、崩れた膝が地面に叩きつけられる。そして、手を床につけた途端、再び悲鳴をあげてその場に倒れこむ。何度も何度も自分の掌を確認するが、男には原因がわからない。
「な……なんだよこれ、やべぇよ、これ……」
このままでは、男の掌はなにかに触れるたびに、今のような痺れを感じる。つまり、一生なにも触れられないという呪がかけられたことになる。
急いで男に駆け寄り、皐月は呪を解いてやった。
「ご、ごめんなさい。これで、大丈夫なはず……です」
皐月は周りを見わたす。他に呪がかかった人がいないかを確かめる。だがわからない。もしかしたらいるかもしれない。〝一生モノに触れられない人〟が、自分のせいで……。そう考えたとき、皐月の背に重いなにかがのしかかった。目の前が真っ黒になり、内蔵を締め付ける。
「どうしよう……どうしよう、啓介……」
すがりつくように啓介を呼びかける。しかし、右手を苦しそうに抑える彼を見て、皐月はまたしても自分の軽率な行動を呪った。荷物を放り出し、苦痛にゆがめられた啓介の表情は、彼女の心をかきむしった。あきらかに呪がかかっている。
「啓介! いま行きます」
泣きそうな声で叫んだ皐月の前に、美瑠久が割り込んできた。
「あんた……龍くんになにしたんだよ! ふざけんなよ!」
皐月の胸ぐらをつかみあげ、そのまま頬を打った。鋭い痛み。乾いた音がキーンという耳鳴りを響かせた。
「……妖怪女」
耳鳴りのむこうから、聞きなれた言葉が突き刺さる。
「……化物!」
聞きなれたとしても、皐月にはやはり、この言葉には耐えられない。
「まじかよ、まじでやべぇよ、おい、なにしたんだよ、おめぇ」
立ち上がった男がのろのろと寄ってくる。
「ふざけんなよてめぇ、調子こきやがって」
呪を解いたことで、皐月に対する畏れの感情は薄まっている。いま男のなかで沸き起こっているのは、自分がコケにされたという怒りだ。多くの人の前で悲鳴をあげ、地面を這いつくばったことで傷つけられたプライド。男にとってはなによりも大切なモノを傷つけられた。それは絶対に許されるべきことではない。
「龍くん、もう帰ろうよ、危ないよこいつ、本当に化物なんだって」
「っるせーよ! なめんじゃねーよ、ぶっ殺すぞ、あ?」
男のものすごい剣幕に、止めに入ったはずの美瑠久は一瞬で身を引く。
「おいこら、さっきのもういっぺんやってみろよ、あ? できたら化物だって認めてやるよ」
「……ごめん……なさい」
「なに謝ってんだよ、もういっぺんやってみろって言ってんの? わかる? ねぇ、わかりますかぁ?」
「……ごめん……なさい」
――化物でごめんなさい。
とうとう泣き出した皐月に、男は機嫌よく鼻で笑ってから手を伸ばす。やってみろと果敢に怒鳴ったにもかかわらず、肌に直接触れるのは怖いのか、皐月の長い髪を掴みあげた。
「きゃあっ!」
ぶちぶち、という感触とともに、皐月の美しい髪が何本か根元からちぎられる。
「痛ぃ……イタい! 助けて……」
「助けてじゃねーよ、なあ、さっきのどうやったんだよ、もういっぺんやれよ、なあ」
男のつり上がった眼が、ぐいっと近寄る。煙草臭い口臭と唾が皐月の顔にかかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「だからぁ……おいおい、言葉通じねーの? ねぇ、人間なんでしょう? 違うの? 違うのかなあ?」
男がさらに髪を引っ張り上げる。
「痛いっ!」
――もう嫌だ。
他人からの敵意が怖い。悪意に耐えられない。
自分の力が怖い。誰かを傷つけることに耐えられない。
――あたしは化物だ。
みんなとは違うから、みんなとは一緒にいられない。
誰かを傷つけるから、誰かに傷つけられる。
言霊という式を完成させてしまったいじょう、もう普通には生きられない。 きっとこれからも、自分の言葉一つで誰かを傷つけ、そしてしっぺ返しをくらうだろう。
人がはびこる現世のなかで、人と外れて生きていかなくてはならない。
はたしてそれは生きていると言えるのだろうか?
人ではない幽霊として人の世を漂うことと同じではないだろうか?
所詮、自分はそういう存在なのだ。美瑠久たちが言う「化物」や「妖怪女」という蔑称はあながち間違ってはいない。その言葉で傷つく自分が間違っているのだ。
そう思ったとき、胸の奥が強く抉られた。この先の未来が一瞬のうちに消し飛んだように思えた。
――嫌だ。
たとえ間違っていたとしても、やはり普通に生きたい。普通に学校に通って、普通に勉強して、普通に友達をつくって遊びたい。好きな人たちに囲まれて、楽しく暮らしたい。
「助けてっ!」
――誰か助けてよ……!
一緒にいてくれるだけでいい。この化物の力に怯えず、受け入れて、敵意も悪意も一切抱かずに、ただ一緒にいてくれるだけでいい。普通に生きるのは無理だとしても、一緒に人の世から外れて、隔絶された場所で一緒に引きこもってくれるだけでいい。
そんな都合のいい妄想に……ありえもしない夢想に……涙を流しながら皐月は浸るしかない。
ありもしない虚構の未来を、自分で擬似的につくりあげるしかない。
そして、あきらめた。
肩の力が抜け、抉られた心が凝り固まる。
そのとき――
「離せよ!」
硬くて鈍い音とともに、髪を掴まれていた感覚がなくなる。
後方に吹き飛んだ男が床に尻餅をついた。
「………………啓介」
握りこぶしを真っ赤に腫らし、啓介は怒りの形相を男に向けている。
横っ面を思いっきり殴られた男は、唇の端から一筋の血を垂らしていた。その唇をわなわなと震わせ、勢いよく立ち上がる。
「んだよてめぇ……上等だよ、殺してやる」
啓介にはまだ『触れるな』という呪がかかっている。拳を握るだけでも拒絶反応が出ているはずだ。電撃が走るような感覚が絶えず襲っていることだろう。にもかかわらず、グッと握られた拳をいっこうに開こうとはしない。
飛びかかってきた男を躱し、啓介は二発目の拳を繰り出す。パキ、という嫌な音が、男の鼻から響いた。
「あああっあああ!」
鼻を抑えた男の両手の隙間から、大量の血が流れる。鼻の柔らかい骨が折れたのかもしれない。
啓介は耐え切れずに拳を解いた。苦悶の表情で手のひらを揺らす。殴った衝撃と呪の痛みが同時に彼を苦しめている。
「龍くん!」
駆け寄った美瑠久を突き飛ばし、男は猛然と攻めかかってきた。体重を乗せた鋭い蹴りが啓介の腹に突き刺さる。
直撃を受けた啓介は腹を抑えながら倒れこむ。すかさずのしかかってきた男は、啓介の顔面を何度も、何度も殴りつけた。啓介は狙いをすまして、殴ってくる男の拳に頭突きを喰らわせる。たまらず仰け反った男をはねのけようとするが、そのまま押さえつけられた。
「この野郎、ふざけやがって」
「ふざけてんのはお前だ。謝れよ! 皐月に謝れよ!」
「はぁ? なんでだよ」
「皐月はなんにも悪いことしてないじゃないかっ。悪いことしたのはお前らじゃないかっ!」
「アホかお前。見てたろ? あの気持ちわりぃ女が気持ちわりぃことしたんだろうが」
「気持ち悪いとか言うなよ! 皐月はすごいんだぞ、誰よりもすごいんだ! 僕を助ける味方なんだ、お前らなんかより強くてかっこいいんだ!」
啓介は呪がかかっている右手で男の腕を握った。
これいじょう呪に逆らえば脳が異常をきたしてしまう。皐月が放った言霊はそれほど強力なものだ。
「謝れよ……」
「あ……つっ……なんだよ、お前の手、めちゃくちゃ熱ぃ」
「謝れよっ……!」
「あああああっ!」
突然叫びだした男が大きく飛び退く。腕には赤い手形がついていた。
――拙い。
そう思った皐月は、追い討ちをかけようとする啓介を後ろから羽交い絞めにした。
熱く、燃えそうな体温が皐月に伝わってくる。自然発火の準備が啓介の体内ですでに整っていた。
「啓介! もういいです、落ち着いてください」
皐月の呼びかけにも、啓介は応えない。怒りの眼差しを、今度は美瑠久に向ける。
唖然としていた美瑠久が、啓介に睨まれ、「ひいっ」という悲鳴をあげた。
「な……何なんだよ、あんたたち、おかしいよ……イカれてるよ」
「謝れよ」
啓介の右手から、黄色いなにかが現れた。ドロリとした液状の輝く雫。
マグマに似た高温物質だった。
「ひいっ! あ、あんたも、化物……!?」
「違う!」
「もういいです! 啓介」
いつの間にか、周りが慌ただしくなっている。
怒号とともに警備員らしき中年男性が割り込んできた。
「君たち、やめなさい! なにをしているんだ」
ケンカの仲裁をかってでた警備員は、面倒くさそうに倒れている男に駆け寄った。
騒然とした場は多くの野次馬が集まっている。
「僕も、皐月も、化物なんかじゃない」
「……はい」
啓介の背中をギュッと抱きしめる。
「あいつら、許せない。謝れよ、皐月に」
「もう……いいんです」
熱された鉄にでも触れているかのように熱い。
いまにも発火しそうな気配が、啓介の全身から漂っている。
早く啓介を鎮めなくてはいけない。彼にしか届かない御言で、彼の怒りを諫めなくてはいけない。一言、「鎮まれ」と言うだけでいい。それだけで、啓介は怒りの矛を納めてくれるだろう。
しかし――
『――気持ち悪いとか言うなよ! 皐月はすごいんだぞ、誰よりもすごいんだ! 僕を助ける味方なんだ、お前らなんかより強くてかっこいいんだ!』
そんなことはできない。
『――化物なんかじゃない』
こんな自分のために怒ってくれる人を鎮めるなんて……
これほど心地のいい熱を抑えることなんて……
「ありがとう……啓介……」
そんなもったいないこと、皐月にはできるはずがなかった。
胸の鼓動が激しく高鳴る。
心の底から、感謝の念が絶えず溢れてくる。
先ほどまで暗澹としていた前途の闇に光芒が差す。
源次郎のしわくちゃな笑顔と、啓介の頼りなさげな困り顔が、いつも自分の傍にいる。そんな、思わずうっとりとして我を忘れるような妄想が確かな形となって、一気に開けた。
辛いことも、悲しいことも、もちろん生きていればあるだろう。これまで体験してきた苦い思い出を軽く凌駕するような現実が待っているかもしれない。それでも、彼らと生きられる喜びに比べれば塵芥のように灰塵に帰す細やかなものとなるだろう、と皐月はおおげさにもそう確信した。
人の世を離れて静謐な檻のなかに引きこもってもいい。
勇気を出して人との和を重んじながら社会の荒波の只中を生きてもいい。
ただ一緒にいてほしい。
それだけでいい。
帰れば鬼の形相で待ち受けている源次郎を思い浮かべながら――皐月は楽しみにしている自分を受け入れた。それは家族を持つ幸福だ。
熱く弾けそうな彼を抱きしめながら――皐月は胸に疼く痛みを感じていた。彼を抱きしめるたびに大きくなるこの痛みを、彼女は恋だと受け入れた。




