6-2 イジメ(過去編)
昼休みが終わり、五時間目の授業が始まった。斜め前の席に座っている建太が、ちらちらと皐月の方を見てくる。さっきのことを気にしているのが丸わかりだったが、皐月は無視をすることにした。もうこんな連中とは関わらないと決めた。
こんなところはもう嫌だ。明日からはもう登校しない。学校の勉強くらいなら簡単だ。自分で勉強して、中学は遠いところの私立にでも行こう。源次郎はわたしの言うことならなんでも聞いてくれるから大丈夫だろう……と皐月は思考をめぐらせていた。
ランドセルの中にある市松人形の黒い髪を、皐月は愛おしげに撫でた。父が唯一、彼女に渡したプレゼントだ。父が行方不明になって二年以上も経っているが、この人形に触れるたびに、父を感じることができる。
優しい手つきで、人形を撫でる。この人形が、唯一の、自分の味方のように思えた。
六時間目の体育が終わり、放課後となった。
――今日でこんなところとはさようならだ。
なんの感慨も湧いてこない。逆に、すっきりとした気分でいっぱいだった。
ロッカーの残骸や机の中のゴミをまとめる。
「なあ、桜花……さっきは……その……」
人がいなくなったのを見計らって、健太が話しかけてきた。
ああ、もたもたしてたから……。
「……なに?」
少し乾いた声になってしまったなと思ったが、もう気にはしない。
「あの……ごめんな」
「なにが?」
「あんなこと言って……」
「え? 本当のことなんでしょう? じゃあ謝る必要なんてないよ。建太君は悪くないんだし」
「違うよ、悪いよ。だってあれは……その、嘘だし」
「嘘?」
「うん……あの、俺……桜花のことが……」
拙いな、と思ったとき、それとは別に底知れない不安感が漂い始めた。喪失感と言ってもいい。
「…………ぁれ?」
……ない。
「どうした?」
言葉を遮られて、建太は困っているような、ほっとしたような顔になっている。
「ない!」
「ないって、なにが?」
市松人形がない。
「お父さんの人形が……。どこ? ねぇ!」
「人形? 知らないよ……」
「どこ!? どこにやったの!」
健太の胸ぐらをつかみあげる。近くなった距離に、健太は顔を赤らめた。
「だから、知らないって……あっ、そういえば、体育終わったときに飯塚たちがいきなり教室入ってきてさ、俺らまだ着替えてるのに……」
また、飯塚美瑠久か。
「どこに行ったの?」
「さあ、でもあいつの鞄まだあるし、どっかにいるんじゃ……」
言われて、皐月は弾かれたように教室を飛び出した。
屋上、体育館、中庭、飼育小屋……運動が苦手な彼女は、すぐに息が上がってしまう。それでも走る。もしあれがなくなってしまえば、自分はもうどうすればいいかわからない。父が唯一残してくれたモノがなくなってしまえば、きっと自分は、自分を許せない。
いつの間にか、泣いていた。自分が涙を流すなんて、少なくとも記憶にはない。父がいなくなったときも、涙は出なかった。
二十分ほど走り回ったころ、聞き覚えのある軽薄な笑い声が聞こえた。見つけた。美瑠久たちだ。廊下を曲がり、階段を上るところだ。人形は持っていない。
近くの女子トイレに目がとまる。
「まさか……」
女子トイレに入り、一番手前の扉を開ける。……ない。二番目、三番目……
「あった……」
見つけた……しかし、人形は便器の中に沈んでいた。
髪は全てちぎられ、服は剥ぎ取られ、腕は両方とも根元から折られていた。
便器に手を突っ込み、人形とちぎれた部位をすくい上げる。便器の中は薄茶色の汚水に満たされていた。美瑠久たちはわざわざ汚いトイレを探していたのだろう。思わず吐き気がこみ上げてくるくらい、この便器は汚くて臭い。
「……あぁ……」
もう、元通りにはならないだろう。
もう、お父さんには何ももらえないのに……。
「ぁ……ぁあ……」
――なんで……?
――なんでわたしなの……?
――なんでお父さんの人形なの……?
「……ぃ……いぁやぁぁ」
初めて、声をあげて泣いた。
なにが悪かったのだろうか。桜花の人間だったことだろうか。霊が見えること? 陰陽師の修行がいけなかったのだろうか。でもそれが、誰かに迷惑をかけただろうか? 美瑠久たちにどんな不快感を与えたというのか。それが、こんな酷いことをされるほどのことだったのだろうか。皐月にはわからない。
返して欲しい。自分のことならどれだけ傷つけてもいい。お父さんの人形だけは返して欲しい。写真も残っていないお父さんの、形に残るたった一つの、あたしにとってたった一つの宝物を返して欲しい。
「ごめん……ごめんなさい……あたし……大事にできなかった。お父さんの言うこと聴けなかったよぉ……」
水浸しの人形を大事に抱える。そのまま便器に座り込み、皐月はすすり泣いた。
突然、バタンと扉が閉まった。
「っ……?」
せせら笑う声とともに、上から冷たい水が落ちてきた。次いで、硬い感触が額にぶつかる。
けたたましい音を立てて、アルミ製のバケツが地面に転がり込んだ。
ずぶ濡れになったことより、顔を傷つけられた痛みが全身をこわばらせる。
狂った音響のようにでかい笑い声が、扉の向こうで沸き起こった。
「ね? 言ったっしょ? 絶対泣くって!」
「あはっ! でもやりすぎじゃね? 水かけるとか」
「いやそれよりバケツ直撃したっしょ! やばいっしょ」
額に触れた右手が真っ赤になった。かなり深く切れているようで、血が止まらない。皐月の白い制服と、腰まで伸びる黒髪は余すことなく汚水にまみれている。
……ここまでするか?
こんなベタなイジメ、今どき本当にしようとする愚かでくだらない人間はやっぱりいるんだ。やっぱりイジメみたいなくだらないことをする人間の思考はどれもいっしょなのだろうか? と皐月は、凍えそうになる心で、そう思った。
「許せない」
――もう許せない。
術が人間相手に通じればどんなにいいだろうか。それならあいつらを――ぶち殺してやれるのに。
でも……。
術は人間相手には通じなくとも、脅かす手段くらいはある。
「なんか言ってんだけど? 許せないって言った? つーかあんなきしょい人形、いつも大事そうに持ってるって、やっぱ異常でしょ」
「許せなかったらどうするんだろうね?」
右手にべっとりと付いた血を人形に塗る。手順さえ守れば誰にでもできる簡単な降霊術。皐月にとっては呼吸するよりもたやすい芸当。
そして震える声で、皐月は人形に話しかける。
「かくれんぼしましょう。最初の鬼は皐月」
今度は左手で人形に触れる。
「はいタッチ。今度はあなたが鬼よ」
人形の目が赤色に変色した。
「隠れていない間抜けが扉の向こうにいるわ」
そう言った途端、人形が宙に浮かぶ。
間抜けどもは相変わらず下品な笑いを漏らしている。
「まじでなんか言ってんだけど、きっしょ! 気でも狂った?」
「あはっ! ありえる! やりすぎっしょ」
「ねっ……ねぇ、あれ……」
「は? ……え? なにあれ」
宙に浮かぶ人形。髪は抜け落ち、服は剥がされ、腕を折られた、皐月の大切な市松人形。
「わたしの人形があなたたちにお礼がしたいそうよ。受け取ってあげてね」
皐月がそう言い終わる前に、美瑠久たちはまた狂った音響のように……今度は悲鳴をあげた。
逃げ去っていく足音、遠くなっていく悲鳴。その悲鳴の中に、男のものが混じっていた。誰か巻き込んでしまったかなと思い、様子を見に行くと、腰を抜かした建太が女子トイレの前で震えていた。
鬼となった人形は建太を捕まえてしまったらしい。
「ああ……建太君が鬼になっちゃったんだ。つまんない……」
呪をかけられた建太は可愛そうなほどぶるぶると震えている。
皐月は人形に触れ、
「わたしの勝ちよ」
と言った。人形の目は元通りの黒になり、皐月の手の中におさまる。
しかし建太は相変わらず震えている。
「どうしたの? もう呪は解けたはずだけど?」
「お……お化け……?」
「はあ?」
「なんだよ、その人形。ほ……本当に……桜花は幽霊だったのか? そんなの、人間のできることじゃないよ」
思ったよりも、呪が効いてしまったらしい。父の力がまだ残っていたのだろうか。健太の表情は青ざめている。
「……えっ? ちがっ……」
「寄るなよ! お前……怖いよ……」
「……あっ……」
健太はたどたどしくも、その場を離れていってしまう。
「なによ……そんなことなの? 顔から血が出て、水浸しになっている女の子にかける言葉が、それなの?」
返事はなかった。
建太が見えなくなってしまったあとも、皐月はそのまま動けないでいた。
「醜い……」
――なんて醜い。
――これならまだ、霊のほうがましだ。
――人間のほうが醜くて……怖いじゃないか。
「帰ろう……」
どれくらいここで立ち止まっていたのか。
外はすでに陽が落ちており、黒々とした夜を迎えていた。
雨はまだ降り続いている。




