4-7 目覚めた美女の涙
――全く眠れん。
顔を上げ、時計をみる。五限の授業はまだあと三十分もある。
考え事をしていたら仕事の困難さに緊張してしまい、眠気が吹き飛んでしまった。少し心臓が高鳴っている。
妖怪には勝てないが、人間に近い死霊(今回でいう末次)には勝てるかもしれない。先生が言うには、それが俺の長所なのだそうだが、退魔師としては三流だと思う……。死霊に勝てない退魔師って存在する必要あるのか?
なぜ、爺様は俺に術を教えなかったのか……術ではなく剣を徹底的に教えたのか……わからない。
まあ、何か爺様なりの考えがあったのだろう。ならばその考えに従うことに、弟子としての理があるのではないか。とりあえず今はそう思うことにしよう。
黒板は数式を示した白い文字でほとんど埋め尽くされている。いまは数学の時間だ。周りを見ると、俺のように退屈を持て余しているも生徒が多い。携帯電話をイジっている猛者も数人見受けられる。進学校のくせして、詩織のように授業を真面目に受けているのは少数派だろう。
ふと、右斜め前方の席にいる詩織へ目を移す。凛として背筋を伸ばす彼女の後ろ姿は、一流の武道家並に隙がない。今日は髪を下ろしているため、美しさが際立っていた。ここからでは見事な御御足を拝見することが難しい。それが残念でならない。
その詩織が、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。上体がふらついている。眠いのだろうか、彼女にしては珍しい光景だ。黒髪が彼女の動きに合わせて、さらさらと揺れている。そこまでは微笑ましい姿だった。
しかし突然、彼女はピタリと動きを止め、しばらくしてから両手を大きく上空へ伸ばした。いわゆる「伸び」というやつだ。それだけで驚嘆すべき行動であるが、あろうことか彼女は授業中にもかかわらず、
「……ふあぁ〜」
と、可愛らしい欠伸を漏らした。その声は当然、教室中に響く。
数学教師も含めたほぼ全員が、詩織に注目した。殺到する視線に驚いたのか、彼女は慌てふためく。
「……え? え? 何です?」
様子がおかしい。まるで別人と入れ替わったかのように、さっきまでの詩織とは雰囲気がガラリと変わっている。
……まさか?
「……あれ? ここは……どこです? 末次さんは? 紫! 紫ぃ〜? あれ?」
間違いない!
「美月さん…………!」
「あ……! そうでした、ここはもう違うんでしたね……」
彼女が呟いた。
加賀詩織の身体には、加賀美月というもう一人の魂が存在している。
俺と先生は、詩織の中にいる美月さんと接触しようとしたが、まったく出てくる気配がなかった。さらに詩織は先生を怖がっているため、警戒してしまう。まあそれは先生の自業自得だから仕方ないが、とりあえずは俺一人が詩織の様子を見ることとなった。
あれから一週間経つが、やっと、目的の美月さんが出てきた。
中年の数学教師は信じられないといった顔で固まり、生徒のほとんどはクスクスと笑っている。
これは……非常に拙い。
「先生! 加賀さんは朝から具合が悪いそうで、もう限界のようです。僕が保健室まで連れて行きます」
教師は、はっとして俺の言葉に頷いた。
「そ、そうだったのか、じゃあよろしく頼みますね……えっと、君は確か……」
「霧島です、先生」
「あ、ああ霧島くんね……わかりました。担任の松島先生には私から……」
「いえ、松島先生には僕から伝えておきます」
「そ……そうか? じゃあよろしくお願いします」
気の小さい教師で助かった。
俺は立ち上がり、狼狽している美月さんの手を掴む。彼女は俺の顔を見て、「あなたは……この間の……」と言いかけたが、俺が制した。
クラス中の視線が痛い。女子は好奇心の視線だからまだいいが、男子からの敵視はキツい。中には露骨に舌打ちするイケメンや、「ペっ」と唾を吐き出す強面ヤンキー風の男、「僕の天使が……」と呟くキモオタ眼鏡がいる。やだもう……どんだけ人気あるんだよこの女。
だが俺はこんなことには屈しない。足をガクガクさせながらも彼女を引っ張って教室を出た。
加賀美月。江戸時代末期の人物で、一流の陰陽師。
今回の仕事を終わらせるキーパーソン、と俺は見ている。それは松島先生も同じらしい。まずは話を詳しく聞かなくてはならないが、どういう質問をすればいいだろうか……。
廊下を歩きながら、彼女はまず、自分の服装に興味を持ったようだ。黒を基調としたシンプルな制服だが、当然、彼女にとっては初めて着る類の衣服だろう。
「これは、また……足が変な感じです……太腿を出すなど……」
彼女はスカートの裾を掴んで伸ばそうとしているようだ。
「そんなことをしても、服は伸びませんよ?」
「そう、ですよね……。ああ、でも……袴より動きやすいかも……この履物もなかなか……」
そう思ったらスカートと靴を気に入ってしまったのか、彼女はぴょんぴょんと跳ねだした。
「こ……子供ですかあなたは……」
飛んだ拍子に、スカートが大きく揺らめく。
顕になる足の付け根。
突然の出来事に俺は反応が遅れた。
あれ? スカートの中って何があるんだっけ? という一瞬の間抜けな思考が吹き飛ぶ。
――なん……だと……?
目がくらむ。
約束された聖域が……。
絶対領域が……!
「どうかしましたか?」
「青……か……」
「青?」
俺は首を横に振る。見てはいけないものを……見てしまったからだ。
「……いえ、聖域と楽園は隣り合わせだということに、今更ながら気がついた次第です」
「……はい?」
そう、楽園が見えた。それは母なる海、あるいは晴天の美しい空を思わせる青だった。
しかしそれは隠されていてこそ――秘匿されているからこそ映える世界であると判断した俺は、見てしまったことを悟られてはいけないと思った。
「今日はいい天気です……空が青い……美しいですな」
「は……はあ……」
彼女は首を傾げ、くりくりと瞳を大きく広げていた。見た目は同じでも、詩織とは違った魅力に溢れている。俺は慌てて視線を逸らす。
俺の言葉に反応したのか、美月さんは外の風景を見渡し、感嘆の息を漏らした。
「これが、小塙の町なのですか? すごい……なにもかもが変わってしまったのですね」
小高い丘の上にある学校の、さらに三階の高さからみえる景色は、町の全貌とはいえないが小塙町の大部分が覗けた。
ここが、彼女の生きていた時代から百五十年近く経っている世界、ということを彼女は理解していた。以前、俺の部屋で彼女が目覚めたとき、その場にいた皐月が教えたのだろう。桜花皐月が何者であるかはわからないが、美月さんの旧姓が同じ「桜花」ということから、二人は少なからず縁があるのだろう、と俺は思っている。
職員室に寄り、ちょうど空き時間でパソコンに向かっていた松島先生を呼ぶ。先生は特に驚いた様子もなく、「保健室で待っていろ、すぐに行く」といって自席に戻り、再びパソコンをいじり出す。何かの作業中だったのだろうか。しかし見ると、机の上には競馬新聞が広げられていた。
……あの先生、けっこうダメ男なのでは?
そう思ったが口にはできず、美月さんと一緒に保健室へ向かう。
その道すがら、彼女は何かを思い出したのか、急にそわそわし始めた。
「あの……退魔師さん、でしたっけ? 先日、末次さんの話が出ましたが、彼はこの時代にいるのでしょうか?」
彼女は目を伏せている。心中を察するに、期待と不安が同じくらいあるのだろう。末次がこの時代に存在するとしたら、死霊という形で、生前の正気を保っていることは限りなく不可能に近い。ようは、末次には会いたいが、その姿が哀れなようであるなら居たたまれない、といった感じだろう。
「います。加賀末次という死霊は百五十年間、この町でさまよっているそうです」
「そんな……」
美月さんは明らかに動揺している。
「それは、本当に、私の夫……末次なのですか? なぜそれがわかるのですか?」
哀れと思うほどに、声が震えている。
「俺は……死人の記憶を、無意識ではありますが、見ることができます。この町にきてから、末次やあなたの記憶の一部を覗いてしまいました。そしてあなたの記憶の中にある末次と、この町で接触しました」
戦ったとは言わない。
「そんな馬鹿な、あの人が死霊になどなるはずがない……」
彼女の断定が少し気になったが、俺は会話を続ける。
「彼は……末次は、あなたを探し続けているそうですよ?」
彼女の足が止まる。
振り向くと、彼女は信じられないといった顔をしている。
「もしかして彼は、正気を保っているのですか?」
「……はい。それどころか、身体、人格、記憶、全て生前のままだと推測します」
彼女の顔が、みるみる血の気を失っていく。
唇を震わせ、目線は宙を彷徨っている。
「そ……んな、まさか……あ……ああ……!」
膝が崩れ、しゃがみこんだ。俺が近づこうとすると、彼女は手を突き出してとめる。
「全部………………」
彼女は何かを呟いたが、聞き取れない。虚ろな瞳から涙が溢れ、頬を流れた。自分が泣いていることにも気付いていない様子だ。
「………………」
泣きながら彼女は、また呟く。今度は注意して聞いたため、わかった。
――私のせいだ。
確かにそう言った。




