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傍らで偲び咲く桜の花  作者: 堀口直
第四章 薄幸の女
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4-4 禊の夢(幕末編)

 ――時が移る。

 木々を薙ぎ倒す強風。その風に乗って勢いよく大地に叩きつける豪雨。巨大な川から流れ出た大量の水は畝ねる怪獣のように家々を潰して回る。

 この日、小塙潘の城下は水没していた。なんとか洪水を逃れた人々は示し合わせたかのように高台へ登ってきた。

 彼らは助かったと思っている。安堵した者もいれば、これから先どうしようか悩んでいる者もいる。

 彼女はそんな彼らを残らず殺した。男は喰い散らし、子供は踏み潰して殺した。女はすぐに殺さず、手足をもぎ、胸を抉って放置した。夫や子供を殺された女はさぞ苦しむだろうと考えたが、女どもはそれに目もくれず、必死に命乞いをした。

 あてが外れた彼女は女どもの浅ましさと醜さに狂喜した。

 末次さま見てください、女はみな醜い生き物です、私と何ら変わらない化物です、と叫んだ。

「おやめなさい」

 背後の声に振り返ると一人の女がいた。この暴風雨の中でも凛とした空気を纏う美しい女。一番ぶち殺してやりたかった女。高貴な身分で清らかな身体の女。自分とは全く正反対の、最も忌むべき存在。加賀美月がそこにいた。

 ――殺してやる!

 降って出てきた極上の餌に、自分は飛びついた。

 そこら中に這いつくばっている醜い女共のように、手足と乳房を切り落としてやる。

 自分と同じように絶望の只中で殺してやる。

 醜く命乞いするか? それとも殺してくれと泣き叫ぶか? お前はどっちかなぁ?

 彼女は霊体化した手足を自在に操り、美月を嬲り殺す想像で悦に入る。自分は強者であり相手は圧倒的弱者。美月が高貴で美しくて彼の選んだ女であっても、自分の方が強い。

「ケケ……ケケケケェェ!」

 止まらない、止まらない止まらない、笑いが止まらない、興奮が止まらない。血肉を喰む化物が、醜い妖魔が、いまこの場では絶対者だ。彼女は顎を外してしまうほど笑う。外れた顎がブラブラと揺れて胸元を叩いても笑いを止められない。

 ――殺してやる!

 まずは美月の白い手を喰いちぎってやろう。彼女は牙を向けて疾駆する。

 一瞬のうちに距離を縮め、美月に襲いかかった。

 美月は身じろぎ一つせずに佇んでいる。

 恐怖で動けないのだろう。そう思った。

 風が――

 風が顔に当たる。

 さっきから吹いている、荒れきった天候による風ではない。

 暖かく、自分の顔面を包み込む風。

 その風を感じた瞬間、おさきは黒々とした空を仰いでいた。

 手足を動かそうにも、首以外の身体がない。

 首だけになった自分を、美月が見下ろしている。

 あの日の夜の、彼と同じように、

「かわいそうに……」

 憐れむような目で、自分を見ている。

 何が起こったかまったくわからない。

 やめろ、見るな。ああ、そんな目を向けるな。

「永い時は禊……。さあ、ゆっくり眠りなさい」

 また同じように暖かい風が吹く。

 おさきは白い光に包まれ、長い眠りについた。



 ――さらに時は移る。

 目覚めた彼女は正常な心を取り戻していた。とても清々しい気分だ。

 ああ、早く起きてご飯の用意をしなくては……。また彼のために一日を捧げよう。そう思った彼女はゆっくりと起き上がろうとする。しかしどういうことか、身体が動かない。何も見えない、聞こえない。こんなことをしている場合ではない。大好きな彼に愛想を尽かされてしまう。必死になってもがくが、まったく動けない。声を出そうにも、呻き声しか出ない。

 男だ。何人もの男が自分に絡みついている。彼女に手足を絡ませ、締め付ける。男どもの顔が浮かび上がる。男どもの声が彼女に語りかける。

『殺してやる』『化物め』『憎い』『呪ってやる』『よくも妻と子供を……』

 何を言っているのだろう。自分は化物なんかじゃないのに……。

 助けて、末次さま。自分はまた下賎な男どもに穢されてしまう。

 熱い。男どもが声を上げる。

 炎が男どもを燃やし尽くす。

 パチパチ、パチパチ、と燃え上がって灰になる。

 ざまあみろ。みんな消えてしまえ。

 ああ、でも熱い。自分も燃えてしまいそうだ。

 男どもが燃えたおかげで視界が一気に開けた。

 これでやっと、一日が始まる。昨日の夜はちゃんとお米を研いだっけ? あれ? 昨日は何をしたんだっけ? 彼女は何も思い出せない。

 それにしても熱い。彼女は身に纏った灰を払い落とそうとする。でもおかしい。手足がない。それどころか身体の形がおかしい。大福のように丸々と太っている。まるで人間じゃあないみたい。まだ夢を見てるのかな? 早く起きないと……。彼女は焦り始めた。

 強く念じて目覚めようとする。そうしたら、たくさんの眼が開いた。これは便利だ。背中の向こうまで見渡せる。

 痛い。体中が痛い。何かが無数に身体を貫き、爆発した。

 熱い。また燃える。耐え切れずに太った身体を脱ぎ捨てた。

 誰だろう、こんなひどいことする奴は。もういい加減にして欲しい。

 彼女は怒りをもってそいつらに眼を向ける。

 〝先生と俺〟だ。

 俺が夕陽のような橙色をした槍を投げてくる。それが、彼女に突き刺さった。

 それが、彼女が見た最後の世界。

 真っ赤な炎が彼女を包む。

 助けて、末次さま。これは夢じゃない。本当に死んでしまう。

 助けて、末次さま。熱いんです。身が沸騰してしまう。

 助けて……助けてよ! 

 必死に声を上げる。

 しかしそれは言葉にならない。

 醜い化物の呻き声としか、その時の俺には思えなかった。


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