4-3 化物の始動(幕末編)
次の日の深夜、彼女は屋敷の裏にある土蔵の前にいた。この蔵は寺内将権本人から決して入ってはならないと念を押されている場所で、使用人にとっては近づく機会もない。
寺内家の家宝が納められているという噂が立ち、何度か泥棒に入られたことがあるが、なぜかその度に泥棒が廃人となった状態で、土蔵の前に倒れているところを発見される。そのことから使用人の間で、この土蔵の中に入ったものは呪いにかかって廃人にさせられるといった説が定着してしまった。最近の幽霊騒ぎも、この蔵の呪いなのではないかと、密かに囁かれている。
昨夜の出来事は夢ではない、と彼女は確信を持っている。あの化物が「蔵」とつぶやいたときに思いついたのは、この土蔵だった。
ここに入って何をするのか、というのは全く考えていない。もしバレれば、運が良くて解雇、悪ければその場で手打ちにされるだろう。そんな危険を冒してまで、彼女をこのような得体の知れない行動に走らせているのは、やはり化物の、「末次」「危ない」という言葉だった。久しぶりに聞いた彼の名前は、彼女にとっては魔法のように心に響いた。その彼に危険が迫っていると思うと、じっとしていられない。
蔵の扉にある錠は老朽化しており、強い力を加えれば簡単に壊せることはわかっていた。不思議と寺内は、この錠を替えることはしなかった。彼女は持ってきた匕首の柄の部分で、錠を叩いた。大きい音が鳴らないよう力を絞ったせいか、びくともしない。慌てずに、今度は力を込めて叩きつけた。バキ、と金属が外れる音がした。
その音は思ったよりも大きく鳴り、屋敷の中まで響いたかと、彼女を怯えさせた。しばらく警戒していたが、誰も起き上がってくる様子はない。
屋敷の裏は夜の暗闇の中にあり、現実から切り離された異界のように感じた。虫の鳴く声と土草の臭いのみが、かろうじて世界があることを認識させたが、現実味はどんどん薄れ、別の国へ飛ばされたように感覚が希薄となった。
扉をゆっくりと開ける。ギギ、ギギ、と古びた木の引き攣る音がしたが、すでに現実から離された彼女は構いもせずに動かした。
中に入り、手燭に火を灯す。辺りを見回したが、何の変哲もない蔵だった。とりわけ書物の類が多く、古びた紙の臭いで充満していた。落胆した思いで中を歩きまわる。すると六畳くらいの空間を見つけた。何もないな、と思っていると、なにか硬いものに引っかかって彼女は転びそうになった。
足元を照らすと、異様としか思えない不可解な模様が床に刻まれていた。模様の骨格となるのは五芒星のようだが、蛇のようにうねった線が複雑に絡み合って奇妙な形となっている。まるで魔を退ける五芒星を、邪悪な蛇が破壊、または支配しているようにも見える。
その模様の真ん中辺りに、小さい把手のようなものが突き出ている。さっきはこれにつまずいたようだ。彼女はその把手を引いてみるが、彼女自身が重みとなって持ち上がらない。反対側に移って再び持ち上げた。すると、床が上に開かれ、人が一人入れる程の穴が現れた。
途端に生暖かい空気が立ち上ってくる。
血肉の腐ったような強烈な臭いが鼻口に入り込み、思わず彼女は穴の中に胃のもの全て吐いた。
着物の袖を鼻に当て、灯りを持って穴の中を覗き込んだ。しかしあまりにも深すぎるのか、全く底が見えない。手燭を穴に入れ、目を凝らす。それでもやはり、何も見えない。
だがこの中に何があるのかは、だいたい想像ができた。
死体だ。それもおびただしい数の屍が無造作に転がっているに違いない。
寺内に仇成す者が、ここに葬られるのかもしれなかった。寺内将権の深い闇を垣間見ているようだった。
いくら家老とはいえ、こんなことが許されるはずもない。
彼に……末次に知らせるべきだ。彼なら何とかしてくれるはずだ。もしかすると彼に褒められるかもしれない。また、彼に触れることができるかもしれない。
そんな浮き足立った妄想に熱中していたせいか、背後に忍び寄る気配に全く気づけなかった。
「これは驚いた。その紋に触れて、気が触れないとはな」
「ひっ……!」
あまりの驚きに、持っていた手燭を穴に落とした。灯りは消えずに、穴の底を照らす。しかし覗く余裕はあるはずもない。振り向くと、寺内将権が立っていた。
恐怖で震えた身体は言うことを聞かない。背骨が外れたかのように力が入らない。これから先のこと少しでも考えると嘔吐感を抑えきれない。背後にある穴が自分を吸い込むのではないかと錯覚した。
「ふん……田淵がお主を手引きしたか」
「あ……お、た……お助けを……」
ここへ忍んだときの強い心は微塵にも残っていなかった。彼との妄想に耽っていたせいだろう。新しい希望が見えたのがいけなかった。突き落とされた絶望は暗黒の底だった。
「助ける? お主をか? これはまた異なことを申す」
寺内はゆっくりと近づき、彼女の首を鷲掴みにした。爪が皮膚に食い込み、肉がちぎられる感覚があった。
「お主は運がよい。これからは儂とともに、永遠を生きられるやも知れんぞ? もっとも、そのためには一度死なねばならんが……」
首を絞める力が強まる。夜目にも慣れたはずの視界は真っ黒に塗りつぶされた。
まだ生きている。着物をすべて剥がされ、さらに天井に吊るされた状態で目覚めた彼女は、あたりが暗いことから、まだあまり時が経っていないことを知った。目の前に立つ老人は好々爺といった感じの表情をしているが、それがあまりにも不気味だ。足のすぐ下に例の穴があることに気付いた彼女は「ひい」という声を漏らす。
自分がそこに落とされることは明白だった。
そして土蔵に入るという浅はかな行動に出た自分に、残痕の念を刺した。
「す……末次さま……末次さまぁ……!」
彼に会いたい。触れたい。もう一度……抱かれたい。彼女が持つ生の執着は全て、彼への想いからくるものだった。彼とはもう会わないと誓ったはずなのに、心のどこかで、また彼と触れ合えるという根拠のない確信があった。何度も、何度もそういう甘い妄想に耽った。その度に熱くなる身体を、幾度となく慰めた。彼女が生きているということは、彼を想っていることと同義だった。
「やはり……お主、末次に惚れておったか。……しかし残念だの。末次は今、自分の妻に夢中になっておるぞ。勤めがおろそかになってしまうではないかと心配するほどじゃ。病気持ちの妻女のために、城下中の医者をかき集めるほどの傾倒ぶり……。仲睦まじい夫婦は城下でも有名……。はて、お主の付け入る隙などはたしてあるかのう?」
「嫌……嫌ぁ……!」
やめて、聞きたくない。そんな話なんて聞きたくない! 彼女は耳を塞ごうとするが、両腕は縄に阻まれて動かせない。
「いいぞ、その悋気、まさしく理想のもの!」
寺内は目を爛々と輝かせながら、彼女の胸を揉みしだく。優しく、情の入った手つきは彼を思い出させた。
「恐怖、憤り、苦しみ、悲しみ、そして嫉妬。死ぬ間際に込めたこれらの感情は霊体を生み出す。負の力は永遠を手に入れる。我らの領地は死霊が生まれやすく、さらにこの蔵は魔境。必ずお主を救ってみせよう。霊獣に生まれ変われ」
彼女から手を離した寺内は刀を抜く。白い刀身が淡い月光を宿していた。
「それにしても憎いのは志摩蓮介よ。わしを騙しおって……。奴は消さねばならん……しかし……どうやって殺すか」
白刃がゆらりと揺れる。やがて上段で止まった切っ先が鋭く振りおろされた。彼女の豊かな乳房が綺麗に切り取られた。胸から大量の血が吹き出し、抉られた乳房は直下の穴へ落ちた。
「嫌あああああああ!」
彼女は泣き叫ぶ。その声と涙は尋常な量ではない。
血が流れ、足の先から赤い雫が滴った。
この出血の量では、彼女の死は確定だろう。
彼女は絶望に打ちひしがれた。
しかしその絶望は死に対するものではない。
この期に及んで彼女は『このような身体では末次に抱いてもらえない』という事実に絶望していた。
「幕府も、もちろん薩摩、会津、長州さえも我が潘には敵わぬ。たとえ異国が攻めてきてもわしらは倒せぬ。この国は不死身の力を得る。藩主は無論、わしだ。くふふ、心躍るではないか……」
老人は振り下ろした刀の刃を上に返し、今度は彼女の膣を切り裂く。下腹部辺りまで刀が持ち上がった。狂ったように叫ぶ彼女の目には、もはや何も映っていない。女の機能を失った今、彼女にとって自分はもう人間ではない。
「こ……殺して……! 早く……私を……殺せ……殺せぇ!」
彼女の声は狭い蔵の中に谺した。呪詛の念は寺島将権に向けられている。しかし当の本人には届かない。老人の目は相変わらず、子供のように楽しげな光を宿している。
「そういえば儂は、強い霊獣を生むことばかりを考えて、大事なことを見逃しておったの。古来、生贄とは若い女と決まっておる。死霊や妖も女が多い。よかったのお主、きっと立派な霊獣になれるぞ?」
寒い、寒い。凍えそうだ。暖かさが欲しい。
あの日の夜のように、熱い体温が欲しい。
彼に会いたい。しかし浮かび上がった彼は、明らかな侮蔑の目を彼女に向けている。彼女の醜い身体を見て、眉をひそめている。あの心地良かったはずの涼やかな声で、「汚らわしい」と吐き捨てている。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 必死で彼にしがみつこうとするが、彼は刀を抜いて彼女の乳房と膣を切り裂いた。「お前に女の部分など必要ない。卑しい身の上で穢れた身体、お前に触れる男が可愛そうでならん」そう言った。
その瞬間、彼女の中にある何かが壊れた。彼と過ごす中で養い、それまで彼女を生かしてきた支えが崩れ落ちた。代わりに湧き出てきたのは計り知れない憎悪と嫉妬。何不自由なく生きる人間を恨み、健全な身体を持つ女に悋気を発した。
彼女を縛り支えていた縄が切られた。
彼女は落ちる。穴の中に吸い込まれる。深い深い闇の底は夥しい数の屍に溢れていた。
充満した血の匂いは興奮を誘った。恨めしい、憎い、殺してやる。渦巻く負の感情をとめられない。しかし、それでも、彼女は彼を愛していた。愛の感情は正と負では分けられない。角度を変えて見れば、正であったものが負に変わる。負であるものが正の元となっている。複雑に絡んだ形は決して掴めない。
彼女の憎悪と嫉妬もまた、愛だった。女の執念の根源を、彼女は忠実に心で育て、そして熟成させた。彼女はその完成品を持って、化物となった―――。




