4-2 幽霊屋敷(幕末編)
こういうことになるとはわかっていた。それでも彼女はひどく動揺した。震える声で「誰ですか」と聞いた。相手は志摩美月という神社の娘だった。
神社? なぜ神主の娘が彼と結ばれるの? 彼女は内より湧き出る憤りを止められない。怒りの矛先は自然と、その〝美月〟という女に向けられた。ドス黒く、ねっとりとした悋気が彼女を支配する。
自分は辛い思いをしてきた。だからこれからは幸せに生きられるはずだ。彼の傍で、ずっと幸せに生きられる。彼女は心のどこかでそう決め付けていた。しかしその幸せは今、美月という見ず知らずの、しかも武家ではない娘に壊されようとしている。こんなことになるなら、彼への想いを抑えるべきではなかった。なぜ? なぜ我慢してがんばってきた自分が報われないの? そういった怒りと嫉妬はやがて頂点に達した。
彼女は彼に内緒で、志摩の神社にいた。自分の憎むべき相手を、とりあえず一目見ておきたかった。そこで見た女性に、彼女は全身を叩きつけられたような衝撃を受けた。
志摩美月は美しすぎた。
長く清らかな髪を後ろに束ね、赤い袴姿で境内を掃除する美月を見たとき、自分を突き動かしていた憤りが灰燼に帰した。気品に満ちた佇まい。周りの空気をすべて自分の色に染め上げるかのように圧倒的な、しかしどこかで崩れてしまいそうな儚さを、絶妙なバランスで兼ね備えている印象。
自分とは決して相いれることができない。それどころか、触れることさえ許されない。
それはかつて抱いた彼への印象と同じく、美術品のように眺めるだけの遥かに遠い存在だった。
途端に自分の愚かな嫉妬心が浅ましく、恥ずかしく思え、項垂れた。
すぐに気がついた。
彼が美月に惚れたのだ。
二人はお似合いだった。自分という存在が弾かれた聖域……加賀家は近い将来にそうなるのだろう。
聞いた話では、この潘において神職は優遇されており、とくに藩主の信頼を得ている志摩蓮介は由緒正しい神社の宮司を任され、上級武士と同等の扱いを受けているらしい。さらに美月の実家は京都の名家だという。何一つ勝てない。身分も見た目も、きっと性格まで……。
彼女は諦めるしかなかった。
だけどせめて、せめて最後に一度だけ、彼と触れ合いたい。かつてのように、諦めても心が死なないのは、この想いのお陰だった。そしてこれからも生きていくには、彼に抱かれたという思い出が必要だと考えた。意を決した彼女は、彼が結婚する前に行動に移さなければいけなかった。
「旦那さま、私は、あなたさまをお慕いしております」
結婚まで一月と迫った日の夜、彼女は包丁を片手に、彼の部屋に忍び込んだ。燭台に灯された火は、彼の狼狽した顔を照らしている。
「どうかお願いです、私を抱いてください」
「どうしたのだおさき、あまり妙なことを申しては……」
瞬間、彼は大きく目を見開いた。心底驚いたのだろう。しかし慌てず、諭すように優しい声で彼女を宥めにかかった。
「落ち着きなさい。話は聞いてあげるから、取り敢えず刃物をおろしなさい」
彼女は包丁を自らの首に当てていた。つつ、と一筋の赤い血が流れ、首の下にある着物を薄く染めた。少し力を入れるだけで、頚動脈は断たれて致命傷となるだろう。
「私の願いを聞き入れていただけるのなら、私は明日にでもこの家を出て、旦那さまの前から姿を消しましょう。でも、もし断るというのでしたら、私はこの場で命を断ちます」
「…………」
彼は沈黙した。言葉を探しているが、出てこないといった感じだろう。もうひと押しだ、と彼女は思った。
「私は下衆な男に犯されました。この汚らわしい身体のままで生きていくことは我慢できません。せめて……せめてお慕いしている殿方に抱かれとおございます。この家で汚された心と身体……。旦那様には責任があるはずです。お願いです、私を、本当の女にしてください」
あまりにも狡い。こう言えば、彼が断れないということはわかっていた。盛平と徳之丞を野放しにした結果、取り返しのつかない傷を負った彼女に対して、彼は未だに責任を感じていた。そのことを知っていて、彼女は利用したのだ。
とうとう彼は折れた。
「わかったから、言うことを聞くから刃物をおろしなさい」
彼の表情から後悔の念が渦巻いているように思えた。このような娘、拾わなければよかったと思っているかもしれなかった。そのことに、彼女の胸はチクリと痛んだが、平静を装って礼を述べ、刃物をおろした。その震えた手を見て哀れと感じたのか、彼は灯りを消してから近寄ってきて彼女の手を握った。彼女は彼の胸に擦り寄り、肩を震わせながらむせび泣いた。
月の明かりに照らされた障子が微かな光となって、部屋に薄い白色を差した。
彼に抱きしめられ、口を吸われたとき、陵辱された記憶が恐怖となって身体を痺らせたが、彼の熱い体温と匂いが官能を刺激して痺れを強引に溶かした。それからは至上の悦びが身体を駆け巡り、幾度も達しては彼にしがみついて離さなかった。ビクビクと震える身体を、彼は何も言わずに眺めていた。
彼の憐れむように尖った視線は、彼女に一種の快感を与えている。今だけは、自分を想ってくれている。自分のことで頭をいっぱいにしてくれている。そう、今だけは美月に勝っている。そのことが何よりも彼女を幸福にしていた。しかし……。
その夜が、彼女にとって最後の幸福となった。
その後彼女は、家老の寺内家の女中として雇われた。彼が口利きをしてくれたのだ。そこはさすがに家老の屋敷というだけあって広く、礼儀にはうるさかったが、何不自由なく暮らすことができた。他にも使用人は多く、気軽に話せる友達もすぐにできた。
しかしそれでもどこか、満たされない想いがあった。もう彼には会わないと約束した以上、これからの人生は彼なしで生きていかなくてはならない。彼は時おりこの屋敷を訪問したが、それは寺内将権に会うためで、自分に会いにきたわけではない。彼女は一切、彼の前に姿を現さなかった。そして空虚な気持ちのまま、時を過ごした。
家老屋敷に来て一年ほど経ったころ、使用人たちの間で怪談話が囁かれた。この屋敷に霊が出るというありきたりな話だったが、これに共鳴した者、つまり自分も霊を見たと言った者は使用人のほぼ全員だったのだ。水面に浮かぶ目玉のお化け、土間にうずくまる子供の霊、庭の木に垂れた片足の怪物。寄せられた話は軽く十を超え、そのどれもが、多くの人間に目撃されていた。
彼女が見たのは侍の霊だった。
みんなが寝静まった深夜、カラン、カラン、と下駄を踏み鳴らすように硬い足音が廊下に響いた。跳ね起きた彼女は周りを見回したが、一緒の部屋にいる使用人は誰も目覚める様子はない。
やがて足音は、ドン、ドン、と木刀を床に叩きつけているかのようにうるさく響いた。それでも、誰も目覚めない。思わず耳を塞いでしまうほど、音は繰り返し大きく鳴った。訝しく思った彼女は、様子を見ようと起き上がった。
しかし障子を開けようと手を伸ばしたとき、彼女は抗えないほどの力を感じて、その場で金縛りにあった。突き出した指先がガタガタと震えるだけで、身動き一つ取れない。急に音が止まった。そして、すぐ目の前の障子が勢いよく開かれ、ぬうっと出てきた顔に、彼女は気が遠くなるほど驚いた。
ひょろっとした長身、二本差しの袴姿は間違いなく武士。その男の顔面はぐちゃぐちゃだった。右眼が無く、そのぽっかりと空いた空間は吸い込まれそうな闇へと続き、かと思えばしっかりと血が垂れている。顔は正中線で綺麗に裂かれた傷が縦に走っていて、右半分と左半分の顔が少しずれていた。口の中でころころと何か飴のようなものを舐めている。ふいに口が開かれ、二つに裂かれた長い舌が飴玉を取り出したが、よく見ればそれは飴玉ではなく、目玉だった。
その目玉はひとりでにキョロキョロと黒目を動かし、やがて彼女に向けて固定された。
彼女は恐怖のあまり叫ぼうとした。
しかし声は全くでない。必死になって喉に力を入れようとするが、腹を痙攣させるばかりで声にならない。化物はさらに彼女に近づき、何事か呟いた。「寺内殿、寺内殿」と聞こえた。その声には聞き覚えがある。三ヶ月まで頻繁に寺内を訪れていた、田淵信三郎という武士だ。
寺内は近年、腕の立つ剣士を集めて自分の周りに置こうとしているらしい。その一人が田淵で、末次もその内の一人だった。田淵は半年ほど前から行方がわからなくなっており、国境での目撃証言を得てからは、脱藩者の扱いにされているという話を聞いたことがある。その田淵に、この化物は似ていた。
まだ何か呟いている。何か伝えたいことがあるのだろうか。その口から突き出ている舌と目玉を引っ込めればうまくしゃべれるだろうに、と彼女は思った。その思いが通じたのか、化物は舌を引っ込め、さっきよりはまともにしゃべりだした。
不思議にも恐怖は薄まり、好奇心が勝っていた。やはりよく聞き取れなかったが、単語程度は何とか理解できた。「蔵」「国」「家老」様々な単語が連なったが「末次」「危ない」と聞こえたとき、彼女に衝撃が走った。その言葉について問いただそうとするが、やはり声が出ない。
廊下の奥から、何者かが近づいてくる気配があった。
「そんなところで何をしておる、帰りなさい」
低く唸るような声。寺内将権が化物に向けて放った言葉だった。それを受けた化物はもごもごと口の中の眼球を転がしながら、庭先へ飛び出していった。それと同時に、彼女の金縛りがあっさりと解ける。
「ふむ、あやつめ、よく動けておる。言葉も理解できる。成功は近いかもしれんな……」
寺内はご機嫌な様子で化物を見送り、再び歩きだそうとしてから彼女の存在に気付いた。
「む……? 貴様は……たしか〝おさき〟だったか? 今のを見ておったか?」
「は……はい……」
「怖かったであろう。今日のことは忘れなさい。これは夢の中だ」
言われた途端、景色がぐにゃりと潰れ、強い目眩が襲ってきた。天と地が反対になった感覚に我慢できず、彼女は足元の畳に倒れ込んだ。薄く目を開けて老人の姿を探したが、そこには誰もいなかった。




