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傍らで偲び咲く桜の花  作者: 堀口直
第四章 薄幸の女
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4-1 おさき(幕末編)

 加賀末次。

 その名前は彼女にとって特別で、暖かな感情を沸き立たせる魔法の響き。

 口にするだけで、彼女は幸福を手に入れることができた。

 それは一種の娯楽のように、あるいは麻薬のようにのめりこむほど危険な存在。

 彼女の名前は〝おさき〟という。

 彼女は彼に恋をしていた。

 


 父が厚意にしているということで、おさきは一四才で加賀家に奉仕することになった。奉仕先の徳之丞という主人は厳しかった。農民の娘で、礼儀を知らない彼女を厳しく躾た。

 優しかった父は一度も顔を見せない。それが不思議だった。会いに行くことも許されなかった。

 徳之丞は気性が荒く、彼女はよく暴力を振るわれた。誰も助けてはくれない。彼女はその家の全ての人間が、自分を虐める酷い人間なのだと思った。自然と心を閉ざしていく。彼女は機械のように従順に家事をこなした。決して誰にも逆らわない。やがて彼女は叱られなくなったが、年頃の娘のような面影は消えた。それどころか、大人の色気のようなものを出すようになった。

 たったの一年で、身体も成長して美しくなった彼女を、放っておく男どもではない。ある日の夜、同じく加賀家に奉仕していた下男に、彼女は台所で犯された。盛平という名で、歳は三十くらいの、身なりだけは清潔な下衆だった。彼女は久しぶりに感情を表し、助けを乞うた。嫁入り前の処女に対し、しかも奉仕先の武家でこのような不埒極まりない行為など、許されるものではない。彼女は声の限り叫んだ。殴られても、首を絞められても、彼女は叫んだ。やがて徳之丞がやってきた。これで助かる。彼女はそう思った。しかし徳之丞は、人間とは思えないほどの醜い笑みを、彼女の美しい裸体に瞠目しながら浮かべていた。

「おい盛平。わしが手をつける頃には、従順であるように躾ろよ」

「へい、旦那さま」

 盛平は当然だと言わんばかりに頷いた。

 信じられなかった。いくら厳しいとはいえ、近頃彼女は、徳之丞の厳しい躾もすべて彼女の成長のためなのではないか思いはじめていた。しかし違った。聡明な彼女はすぐに理解した。

 彼女は実の父に売られたのだ。

 徳之丞の妻は何年も前に亡くなっている。彼女は性の捌け口として、この家に買われたのだろう。一年間手を付けなかったのは、自分には一切逆らわないような躾をするためか、身体の成長を待っていたのか、わからない。彼女は絶望した。逃げることもできない。帰る家もない。この先身体が朽ちるまで、この下衆な男どもに嬲られ続けるのだろう。それならば、いっそ死んでしまった方がましなのではないか。そう考えた頃にはすべてを諦め、抵抗することを止めた。彼女は盛平の為すがままになった。男たちは、より一層の邪悪な笑みを浮かべて、彼女の未成熟な肉体を楽しんだ。

「ところで旦那さま、若さまが戻ってくるのは明後日でしたか?」

 盛平は彼女の全身を隈なく舐め続ける。人形のように動かなくなった彼女を、最初は喜んだものの、やはり詰まらないと思ったらしい。時折、びくん、となる反応を楽しみながら、身体を舐め続けている。

「うむ。奴め、本家から養子として貰ったものの、わしの手には余る。このまま江戸で剣術を習っていればよいものを……。〝おさき〟はなるべく、奴の目に触れないようにさせろ。声を上げさせるのも今日で最後だ、いいな?」

「へい。しかしこの娘、もう人形のように大人しくなりましたから、大丈夫でございましょう」

 どうやら徳之丞の息子が江戸から帰ってくるらしい。名前は末次と言うそうだが、彼女は見たことがない。彼女がこの家に来たときにはすでに、末次は潘に剣の腕を認められて江戸へ修行に行っていた。

 この家に男がもう一人増える。

 それだけで、彼女にとっては悍しいほどの事実だった。しかしもう関係無い、と彼女は思い直した。その男が彼女を見ることはない。彼女はすぐにでも、自ら命を絶つことを決意しているのだから――。

 徳之丞は見ているだけで楽しいのか、時々「もっと激しくいたせ」と急かし、盛平は「いえいえ、まだまだほぐさないと」と諌める。徳之丞は興奮したような顔で何度も急かす。

 盛平が「そろそろいい具合でございましょう」と、血に濡れた彼女の股を大きく広げたとき、玄関のほうで物音がした。続いて、どん、どん、と戸を叩く音。

「父上、盛平……! う〜ん、もう寝てしまったのかな」

 声が聞こえた。耳に心地よい、涼やかな声。

「父上、夜遅くに申し訳ございません。加賀末次、只今江戸より帰還いたしました。開けてくださいませんか。……困ったなあ」

 徳之丞と盛平の二人は、明らかに青ざめた顔で、お互いに見合っている。とくに盛平はこの世の終わりのような顔で取り乱している。

「だ……旦那さま! 若さまが帰ってくるのは明後日だと言っていたではございませんか!」

 声を潜めながらも、厳しい口調で主人を罵っている。そういう響きがあった。

「て……手紙にはそう書いてあったのだ。慌てるな、わしが何とかする。おさきに服を着せろ」

 そう言って徳之丞は玄関に向かう。盛平は狼狽し、震えた手つきで彼女に服を着せようとする。しかし、上手くいかない。しまいには癇癪をおこして彼女を殴り、「自分で着ろ」と怒鳴った。この男は末次を恐れている。この行為が末次に露見することを恐れている。彼女にはそう感じた。

「おお、末次。早かったではないか。手紙には明後日になるとあったが」

「申し訳ございません。途中で路銀が尽きまして、仕方がないので夜も歩いて帰ってまいりました」

「そうか、そうか。では疲れたであろう。すぐに休むといい。いま、夜具を用意いたそう」

「そんな……。父上が動かなくとも……盛平はどうしたのですか?」

「も、盛平はもう寝てしまった。今日は疲れていたようで、気持ちよさそうにぐっすり寝ておる」

「……ん? 盛平は父上の目の前で寝てしまったのですか?」

「い、いや、そうではない、そうではない」

 玄関の会話がはっきりと聞こえてくる。徳之丞もまた、末次を恐れている。

「……ん? 台所に灯りが点いておりますが? 誰かいるのですか?」

「誰もおらん、あ、いや、盛平が寝ておるのだ」

「それはいけません。風邪をひいてしまう。どれ、私が運びましょう」

「いかん、いかん、奴は疲れておる、そっとしといてやれ」

 もしかしたら、末次なら自分を救ってくれるかもしれない、と彼女は思った。

 その思いは絶望の底に差す、針のように細い期待だった。

 だがそれは、真っ暗な暗闇に、眩しいほどの光を彼女に当てた。

 自分はまだ生きられるかもしれない。

 強い希望となって彼女の口を動かした。

「助けて!」

 波打つように震えた声で、しかし静寂な夜にはよく響く声で――彼女は叫んだ。

 瞬時に盛平は彼女の口を強く塞ぐ。恐怖と怒りが同時に吹き出したかのように彼女の顔面を締め付けた。徳之丞が何か叫んでいたが、何も聞き取れない。意識が遠のいていく。いつの間にか首を絞められていた。死ぬ。嫌だ。助けて。誰か。誰か助けて、助けて助けて助けて! しかし、いくら叫んでも、それは心内に留まったままで口には出ない。目の前が真っ白に染まる。

 台所の戸が開く気配がした。瞬間、ふっ、と締め付けられていた力が抜け、空気を勢いよく吸った彼女は激しく咳き込んだ。見上げると、盛平は死人のように顔を白くしている。

「わ……若さま。お、お帰りなさいませ」

「…………」

 末次は沈黙している。精悍な体つき。非の打ち所がないほど整った顔の美男子が巍然として佇立していた。初めこそ呆然としていた末次だが、やがてその綺麗な眼が、この世全ての生物を震え上がらせるほどの冷たさを持って盛平を貫いた。美しい顔が、さらにその冷たさをひきたてているようにも見える。

「ち……違いますよ、若さま、こ、この娘は最近雇った女中でございまして、まだ礼儀がなっとらんようなので、こうして躾ているのです」

「ならばなぜ、貴様はそんなに震えておる? 貴様の狼藉は飽きるほど見た。その度俺が注意してやったのだ。覚えておるか?」

「お……覚えておりますとも。忘れはいたしません」

 盛平の身体が、跳ねるように大きく震えていた。

「ならば正直に答えよ。何をしていた?」

 静かに、ただし怒りを込めた声で――末次は問う。

「ひ、ひぃ……! だ、旦那さまに命じられたんです。この娘を犯せと」

「父上、どういうことです? もうこういうことはしないと、私と約束したはずです」

 末次がその冷たい眼を、今度は徳之丞に向けた。

「し、知らん。盛平が勝手にやったことだ。わしは知らん」

「旦那さま! そ、それはあんまりです!」

「父上、このことは本家にお伝えしますぞ? 噂はすぐに広まります。そうなれば、あなたはもう城で働けなくなるでしょう。いかがなさいますか?」

 徳之丞は周りの風聞をとにかく気にする。自分の価値を落としたくないのだ。色町に通わずに、農民の娘を性の捌け口にしようとしたのも、このためだろう。

「ま、待て。お前はこの家の長男だぞ? そんな噂が広まればお前にとっても面白くないだろう?」

「俺はいっこうに構いませんが?」

「ぐっ……!」

「……父上、御家老が山奥に建てた別荘を、私どもの好きに使ってよろしいとおっしゃってくれました。どうです? そちらで余生を送られては?」

「わ、わしを追い出すというのか?」

「察してください。これは恩情です」

 しっかりと頭を巡らせた徳之丞は、悔しそうに歯噛みをしながら沈黙した。家老が出てきてはどうしようもないと思ったのだろう。

 末次は次に、盛平のところへ歩み寄る。そこで気がついたのか、彼女に目を移し、半端に着せられた着物を正してやった。彼からは長旅でかいたであろう汗の匂いがする。決して嫌な匂いではない。彼女はその匂いに、くらっとして末次の胸に寄りかかった。

「さあ、盛平。貴様も俺との約束を破ったな? 次は容赦しないと言ったはずだ」

「ひぃ……! ご勘弁を! あ、アレだけは勘弁してください!」

 もはや可哀想なほど震えて、地面に頭をこすりつけている盛平に、末次は少し悲しげな顔を向けていた。

「ならば、俺の言うことは全て聞け。今日からお前の雇い主はこの俺だ。いいな?」

「は、はい!」

「まず盛平、父上が近々引越しをするそうだ。手伝って差し上げろ。お前はそこで父上の面倒をみて、変わった様子があったら俺に知らせろ。心配だからな。いいな? 変わったことがあったらだぞ? わかるな?」

「はい!」

 徳之丞は項垂れながら部屋に戻り、盛平は土下座をしながら動かない。なぜ二人がそこまで末次を恐れるのかはわからなかったが、彼女は助かった。

 さっきまで冷たかった末次の眼が、彼女を慈しむように優しく見開かれていた。

 自然と涙が出てきた。

 この家で必死に抑えてきた感情が涙となって溢れ出てきた。一度溢れると、決壊したダムのように彼女は泣いた。末次の胸にしがみつき、声を上げて泣いた。いままでの辛い思い。全てを諦めることで和らげた痛みが、思い出したかのように胸を掻き毟る。

「怖かったろう? すまぬ」

 彼は彼女の長い髪を撫でながら、真剣に謝った。

 この家に売られてから、初めて優しさに触れた。悲しいのか嬉しいのかわからない。ただ胸が痛かった。我慢などできない痛み。嗚咽を漏らす。だがその痛みの中に、少しだけ、心地の良い思いもあった。自分は生きている。父に捨てられて、見ず知らずの家で虐められ、好きでもない男に犯されて死んだはずの心は、こうしてわずかだが、生き返っている。胸の痛みと彼の手の暖かさは、生きていることの証だと感じた。

「これからどうする? こんな家にいては辛いだろう? 実家に帰るか?」

 彼女の涙が静まったころ、彼は子供をあやすように優しく尋ねた。

「わ……私は……親に売られてここに来たようです。帰る家など、ございません」

「何? 本当なのか? 盛平」

「へ、へい! 旦那さま……い、いえ、徳之丞さまは、多額の金でその娘を買ったようです」

「そうか……。ならば、どうする? この家はもうすぐ俺一人になる。この家でよいなら雇おうと思うが」

 降ってきた言葉に、胸が熱くなった。

 この方と暮らせる。

 今までになかった明るい道が、一気に開けたような感覚。無意識に彼女は首を縦に、何度も振った。涙で枯れた声を大にして言う。

「はい! お願いします、お願いします! どうか私を、ずっとお傍に……」

「お主、名前は?」

「おさきです!」

「俺は末次だ。ならばおさき、これからよろしく頼むぞ」

「…………はい!」

 こうして彼女は、彼と暮らすようになった。

 彼は何度も彼女に謝った。どうやら、徳之丞と盛平は以前から同じことを繰り返していたらしい。そして彼は二年前にとうとう怒り、盛平を締め上げ、厚意にしてもらっていた家老寺内将権に打ち明け、家老直々に徳之丞を叱ってもらっていた。これで懲りただろうと思った彼は、安心して江戸へ修行に向かった。それが甘かったようで今回の悲劇を招いた、と彼女に謝った。

 このような身分の卑しい私に頭を下げる武士など他にいないだろう、と思った。最初は美しい絵を観るように憧れた。触れてはいけない存在だ。

 しかしその憧れは、月日を重ね、やがてどうしようもないほど大きな恋心へ移っていった。

 飯を作り、洗濯をする度に礼を尽くす彼の優しさ。家事をして感謝されるなどありえないと思っていた彼女は、本当に嬉しかった。生来の明るさを取り戻した彼女は、町で評判の美人として成長していった。彼の優しさが、自分を女として成長させたのだと信じた。それはきっと、自分に同情しているだけなのだろう。責任を感じているだけなのだろう。そんなことはわかっていた。それでも、彼に名前を呼ばれるたびに嬉しくて、苦しいほど胸が締め付けられるのだ。

 抑えていた。恋心が表に出ないように、必死にこの気持ちを抑え、殺していた。彼は武士。彼女は農民の子で、彼に奉仕する端女にすぎない。彼に恋をするなど、おこがましいにもほどがある。

 しかしある日、抑えていた何かが崩壊した。理由ははっきりしている。

 彼の結婚が決まったからだ。


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