3-5 いざ、死霊退治へ
時刻は深夜3時半。
中途半端な時間に起きてしまった俺は、外を出歩くことにした。
まだ深い闇夜は、ありったけの黒色を集めているかのように暗い。
やがて死霊に襲われた商店街まで来た。ここは街灯によって、いくらかは明るかった。
「さすがに、もういないか……」
末次と戦った商店街でもある。
『――今度は俺も本気を出そう』
死霊と末次にやられた傷は、すでに完治している。最初は不思議に思ったが、なぜかすぐに納得できた。
正直、勝てる気はしない。次に相対すれば恐怖すら感じるかもしれない。それでも、死霊に負けるようであれば退魔師など名乗ってはいられない。つまり、俺の退魔師としての意地が、自然と末次を求めている。
路地裏に入る。街灯が遠ざかり、視界が黒で埋め尽くされる。月すらも、ここには顔を出せないようだ。
――来る。
背後に気配を感じたのと、振り向きざまに高温の剣を走らせたのは、ほぼ同時だった。
「シェェェァァァァア!」
そこには腕らしきものを切り取られた化物が、切断面から火を吹いて苦しんでいた。
「やっぱり死霊は俺のところに寄ってくる……」
化物は健全なほうの腕を伸ばしてくる。若干、空気が歪むのを感じる。身体の動きが鈍り、空気の歪みに引き込まれる。
「くそ……こいつ、術が使えるのか」
得体の知れない存在と力に、未知の恐怖が湧き出てくる。末次に敗れたときの絶望感が膨れ上がり、俺の判断力を一時的に麻痺させる。負ければ死ぬ。当たり前の結論。末次が俺を殺さなかったのは、奴の気まぐれで、ただの偶然だ。この死霊に負ければ、当然、死ぬ。怖い。死ぬのが怖い。怖いから、わけも分からず、何も考えずに剣を振り回した。何も考えないことで、気持ちが楽になる。だけどこれじゃあ負ける。つまり死ぬ。そこまで行き着いて、また恐怖を感じた。
『――いいか少年、生きるか死ぬかの戦いになったとき、大事なのは気だ。これまで研鑽してきた技も当然大事だが、人間が底知れぬ力を発揮するのは、生きたいという気がみなぎったときだ。弱気になってはいかんぞ』
ふと、末次の言葉が蘇る。
『――小手先で技を決めようとしてはいかん。道場ならば一本とれるやもしれんが、真剣勝負は重みを持たねば死ぬぞ?』
その言葉が、俺の頭のなかで反芻された。
落ち着け……。落ち着け……。こいつは末次よりも、爺様よりも弱い。俺の方が強い。
思えば、退魔師の修行といっても、妖怪のように強力な死霊に対する訓練はほとんど受けていなかった。爺様が教えてくれたのは、剣の造り方と、扱い方のみ。どうして妖怪に対する修行をさせてもらえなかったかはわからない。必要なかったからかもしれない。ということは、俺を任務に就けたということは、俺には妖怪を倒せる力がすでにあると爺様が判断したからだろう。
――勝てる。
そう思えば気持ちが楽になった。恐怖は完全には払拭されてないが、必要な緊張感だと思えなくもない。狭まっていた視界が大きく開ける。敵の姿がはっきりと見えた。
なんだ、たいした敵じゃない。
『――悔しければ俺の技を盗んででも勝ちに来なさい。そうすれば、君はもっと強くなる』
……わかったよ、上等だ。お前の技を盗んでやる。
死霊の力は渦を巻いている。風の渦は身の自由を奪う。俺は剣を地面に突き刺して、吸い込まれる身体を引き込めた。伸ばした醜い手が間合いに入った瞬間、引き抜いた剣をそのまま振り上げた。
吹きすさぶ風に真紅の彩を飾る。
化物の腕は切り裂かれ、風の渦も消えた。俺は勢いよく飛び込んで化物の面を撃った。ほぼ同時に胴体を切裂く二の太刀を浴びせる。一度の踏み込みで二度の斬撃……口で言うなら簡単だが、これがなかなか難しい。末次のように、剣を砕くほどの破壊力は望めない。
それでも化物はけたたましい声を上げ、ドロドロに溶けていき……やがて消え去った。
着実に強くなっていく自分を感じる。剣の腕もそうだが、気の力も……
――いや、違う。
――霊力を取り戻している。
よくはわからないが、そういう感覚があった。
『――少年は不自然に気が弱いな。何か欠けているように思えるが……わからん』
末次はそう言っていた。いまならわかる。たしかに俺は、欠けている。いままでなかった記憶も少しずつ取り戻している。ぶつ切りにされた記憶が、ふと蘇る。
優しかった母の変貌と暴力、その時の恐怖。その恐怖を夕陽に向けた。
爺様に預けられた時の戸惑い。その戸惑いが安堵に変わった。
そこで共に暮らした、人形のように美しい少女への想い。顔は、よく思い出せない。
そして……辺り一面を、ギラつく赤で染めた光景。
燃えている。
少女が泣いている。それとも、母だっただろうか。
俺の名前を、ひたすら繰り返し、叫んでいる。
自分はここで死ぬ。
とてつもない恐怖。
そこまで思い出した。あと少しで、欠けていた――あるいは月のように遠くて掴めなかったものが戻ってくる。心の一部が戻ってくる。いつまでも欠陥品でいるわけではない。
路地裏はすでに、もとの空漠とした闇に帰っていた。
ここにはもう何もない。
俺は道を引き返そうと、後ろを振り向いた。
「っ……!」
反射的に身構え、素早く後退り――前方を睨みつける。
男が立っていた。
「夜歩きはいけないなあ、霧島啓介」
何の気配も感じさせなかったことに驚き、その知っている声に、さらに驚いた。
「あんた……なんでここに……?」
「おいおい、そんな怖い声を出すなよ。まあなんだ、そんな暗いところにいないで、こっちにきたまえ」
そう言って男は歩き出した。その後ろに俺もついていく。やがて灯りがある道に出て男は立ち止まった。
灯りに照らされて明瞭となった男の顔は、やはり担任の松島正だった。いつもと変わらないスーツ姿で、相変わらず気味の悪い笑みをその眉目秀麗な顔に貼り付けている。
なぜこんな時間に松島があのような路地裏に来たのか。偶然か? いや、時間的にも場所的にもありえない。意図してやってきたに違いない。その理由はなんだ?
「どうだ? この町について何かわかったか?」
「…………何の話ですか?」
「まあいい。話している時間はないようだ。とりあえず走るぞ」
そう言って松島は勢いよく駆け出した。
「な、なんだよ……」
「早くしろ! でなければ明日は一日、生徒指導室だ!」
「それは勘弁してくれ!」
わけはわからなかったが、とりあえず松島と走る。やがて全力疾走となった。
――速い。
松島の脚力は想像を絶するものだった。地を蹴る姿は、短距離ランナーというよりも、忍者のように素早く、静かな動きだ。スーツ姿の忍者というのも、なにやらかっこいい。
一方。俺はそろそろ限界に近い。瞬発力には自信あるが、持続力はない。きっと走るフォームもぐちゃぐちゃだろう。息が荒くなる。酸素が足りない。……もう少しで倒れる。
そんな俺を振り返ることもなく、
「すまんがもう少しスピードを上げるぞ」
と鬼教師はのたまった。
「ま……まって……」
夜の町を走る。
もう朝といってもいい時間だが、まだ暗い。
二人の足音だけが、世界に存在しているかのようだった。
それと、ぜぇぜぇと喉で息をしている音。これは、俺だけだけど。
……もう無理だ、帰ろう。そう決意して足を緩めようとしたとき、松島は急に止まった。
広い公園……いや、古墳の跡である。全長100メートル級の巨大な前方後円墳だ。これほど大きな古墳ならば国指定史跡とされてもおかしくないはずだが、ずさんな管理をされているようで、草が伸び放題となっている。周りに民家は見当たらない。
「よし、間に合ったか」
鬼教師は全く息を切らしていない。対して俺は、胃の中のものが喉に引っかかって酸っぱい思いをしている。酸素を急いで取り入れながら、ゲロ候補を全力で胃に戻す。
「な……なんの、ために……こんな……ぜぇ……体育を……? あんた、古典の……先生……」
「まだ大丈夫そうだな……」
「全然大丈夫ではない!」
「ん? ああ、お前のことではないよ、あいつだ」
松島が指したほうを見やった。だいたい20メートルほど先に、うっすらと影が浮かんでいた。集中して見る。すると、墳丘の頂上にでかい死霊がいた。大体直径十mくらいの、球のように丸まった化物だ。手も足もない。腹か背中かわからないところに、ギロリと光る眼があった。鼻はなく、大きく「あ」の形で開かれた口が不気味だった。完全に生前の記憶を失っているように思える。しかし……。
「強いだろう?」
松島の言う通り、あれはやばい。さっき斃した死霊をスライムとするなら、目の前の化物は魔王レベルだろうか。まあ、数えられるほどしか死霊を見てきていないからわからないけど、あれはもう妖怪と言っていい圧倒的な力を感じる。
「なんだよ、あれ……あ、あんなの、勝てるわけないじゃないですか……!」
「じゃあ逃げるか? お前は退魔師だろう? 死霊を前にして、お前は逃げろと教わったのか?」
こいつは、俺が退魔師だということを知っている。
「あんたは何者なんだ?」
それが気になって仕方ない。
「ふぅ……本当はお前一人で全てやらせるつもりだったが……、こんなものが出てきてはもう無理だろう? 私が出張るしかなくなったではないか」
「何言ってるかわからないし、質問の応えにもなってないし、後半はもう文句ですね!」
松島は心底面倒くさそうな顔をしている。
「ちっ……。あれを見つけたので退治しようと思ったが、一人では無理だと判断した。ちょうど近くにお前がいたようから迎えに行ったのだ。今はこれ以上説明している暇はない。あいつがいつ暴走するかわからん。行くぞ!」
そう言って松島は、ポケットからジャラジャラと玉を大量に取り出した。あれは……パチンコ玉か?
「何をしてらっしゃる?」
「うるさい。とりあえず、あいつの相手は主に私がする。お前は反対側に回って、私が指示したら一気に叩け。いいな?」
「……はい」
そう返事したものの、俺は半信半疑……いや、ほとんど怪しんで動けない。許されるなら、今すぐ逃げ出して爺様に助けを求めたほうがいい気がする。それくらいあの化物はやばい。
松島はそんな俺に舌打ちをしてから、球体妖怪の前に躍り出た。本当に何者なのだろうか。
スーツ姿の先生は、ジャラジャラとパチンコ玉を両手で弄び、それから空中に全てばらまいた。俺がポカンと空を見上げた途端、散りばめられた全ての玉が空中でピタリと止まった。パチンコ玉一つ一つが、霊気で練られた風を纏っている。そして、その風がひゅうひゅうとうねりをあげて、玉を妖怪に運ぶ。それは弾丸のように弾かれた凶器だった。あまりにも速いものだから、初めはどこかに消えたと思ったくらいだ。
その弾は球体妖怪に、雨のように降り注ぐ。松島はポケットからどんどんパチンコ玉を……おい先生、どれだけパチンコ玉もっているんだよ?
「グアアァァァァァァアア」
妖怪が声を出した。「あ」の形で固定してある不気味な口から、吐瀉物を巻き散らかすかのような音が漏れる。身体には無数に穴があいていることだろう。体液のようなものが吹き出ている。
どうやらパチンコ玉……いや、パチンコ弾は、敵を貫通してから勢いを付け、再び敵に向かっているようだ。つまり、8の字を描いて攻撃を続けている。その一定のリズムを刻んだ無限の連射は、ハードロックの凄まじい早弾きを連想させた。
「す……すげぇ……」
間違いない。俺以外の退魔師は爺様を含めて二人しか知らないが、松島正は凄腕の退魔師だ。俺の知らない退魔師だ。
松島は警戒しながら、今度は懐からナイフを取り出す。そして、ゆっくりと妖怪に近づいていった。