3-3 幸福の只中(幕末編)
蓮介が帰ったあと、美月は再び台所に立った。
「紫、出てきなさい」
美月がその声に威厳を持たせて呼びかけると、何もなかったはずの空間が歪み、一人の美しい女性が浮かび上がった。紫と呼ばれた人物だろう。歳は二十前後だと思われる。
紫は動きやすそうな格好をしている。丈の短い着物からは、艶かしい脚がすぅっと伸びていて、腰には短剣が差してある。その姿は『くのいち』を思わせた。男のような短髪だが、切れ長の眼や整った鼻の形、そして湿りを帯びた唇からは抑えきれない色香が漂っている。膨らみのある胸と尻、しっかりとくびれた腰の見事なプロポーションは、完璧な女性を感じさせた。
「何か御用でしょうか?」
艶がある声だ。少し不機嫌そうに口を尖らせている。
「あ、あの……。また料理を教えて欲しいのだけど……」
申し訳なさそうにしている美月を見て、紫は深く息を吐いた。
「私は飯炊き女ではないのですが……? それとも、主さまはそういう認識なのでしょうか?」
「そんなこと思ってない! ただ、今日は末次さんに美味しいもの食べさせたくて……。紫ぃ……お願い……!」
呼び出したときの威厳はすでに消滅している。
「……はあ。旦那なら、主さまがつくる料理というだけで喜びそうなものですが?」
紫は末次のことを、旦那と呼ぶ。
「今日だけ! 今日だけだから!」
「その言葉はすでに十回は聞きましたよ、主さま。それに、料理ができないのなら飯炊き女を雇えばいいのです。旦那にもそれくらいの甲斐性はあるでしょうに」
「そういう問題じゃないんです。以前雇っていた女中は出て行ったそうですし……。それに、いまこの家には、私と末次さんだけいればそれでいいの」
おさきという女がこの家に住み込みで働いていたそうだが、美月は詳しく知らない。
「さようですか。なら私は必要ありませんね。さようなら」
そう言って紫は美月に背を向ける。
「ちょっと待って! ああ! 主に背中を見せるなんて、いけないのですよ! ……ちょっと紫ぃ!」
やはり子供っぽいのが、美月の本性であると確信した。手をじたばたさせて叫んでいる内容と伴う行動は、どうしても子供にしか思えない。
「あ、旦那が帰ってきますよ」
主に背を向けたまま、紫は言った。
「夕餉の支度はもう出来たのですか? 主さま」
「ああ……! もう!」
紫が、小馬鹿にするように主を笑う。目に心底楽しそうな輝きを帯びさせて。
ガラガラ、と戸の開く音がした。末次が帰ってきたらしい。紫が笑いながら走っていく。
「ちょ、ちょっと待ちなさい、紫!」
美月が急いで玄関までいくと、末次が認識できないのをいいことに、紫が彼の背中に纏わりついていた。紫は美月が使役する式神だ。陰陽師が霊に式紙という依代を与えることで現界したものが式神と呼ばれる。その霊体は肉体とほぼ変わりない機能を与えられているが、飽くまでも霊的な存在だ。だから普通の人間である末次には視認できない。
「お、お帰りなさいませ、お前さま」
「ただいま」
紫は末次の肩越しに、舌をだして主をからかっている。
「こ……このぉ……」
美月は怒りをもって、自らの式神を睨みつける。
「ん? どうした? 俺の顔に何かついているか?」
「い、いえ……何もついてなどおりませんよ、おほほ」
「……そうか?」
それでも気になるらしく、末次は自分の顔に手をあてた。
「あいかわらず旦那はいい男ですねえ……んっ……」
「ああ! こら紫!」
紫が末次の頬をペロリと舐めていた。
「……紫? 誰だ?」
「もう許しません!」
紫を夫から引き剥がそうと飛びついた。
末次を真ん中にして、三人が押しくらまんじゅうをしているかのように寄り添う形となった。
「こ、これ美月」
「まあ! 主さま、大胆ですねえ」
「もう! 離れなさい!」
「な、なにを言っている。離れるのはお前だろう?」
「そうですよね? 旦那。主さまは何を言っているのでしょうねえ?……んん……逞しい胸ですわあ」
紫は指を末次の体に這わせて、艶っぽい声を出していた。
「ああん! もう! 違うのにぃ! 末次さぁん……」
「ど、どうしたのだ……? 美月?」
とうとう泣き出した妻を見て、末次はおろおろとして困っている。しばらく手を宙に浮かせてから、意を決したかのように、その手を妻の肩に添えた。
紫はそんな主を見て申し訳なく……も思っていないらしい。指を差して大笑いしている。
美月は夫の胸にしがみついて泣きっぱなしだ。
紫の笑い声が止まった。もう飽きたのだろうか。
ゴーン、ゴーン、と寺の鐘が響いた。
外から差す陽の光は暖かい赤に染まっている。
紫がそっと離れて、寄り添うのは二人だけとなった。
鐘の音が、一層大きくなったように感じる。
美月が顔を上げると、視界は夫の困ったような笑顔で埋め尽くされた。
ドクン、と胸が高鳴る。
「もう、大丈夫かな?」
「……いえ……もう、少し……」
美月は再び夫の胸に顔を埋め、耳を傾けた。
ドクン、ドクンと早鐘を打つ夫の胸の音が聞こえた。
二人はしばらく、そのままで鐘の音を聞いていた。
夕陽の暖色が、二人だけを照らしているかのように包み込む。
自分には似つかわしくないとしても、
この幸福を手放したくはない。
美月は強く思った。
ふと、その二人の光景が写真を見ているかのように遠ざかる。
ザザ……ザザ……と何かがノイズのように意識を妨害した。
激しく荒れる雨と風。
それは断片的な記憶だ。
抑えようとしても、指間から漏れ出る液体のようにドロリと滴って意識を支配する。
ザザ……ザザ……。
洪水に呑まれる町を見下ろしている。きっと誰も助からない。
ザザ……ザザ……。
末次が大きな部屋の真ん中で倒れている。
血まみれの畳は絶望の赤に染まっていた。
鬼がいた。
その醜い顔を、血まみれの末次に向けている。
その醜い手を、大量の血で濡らしている。
ザザ……ザザ……。
金切り声が響く。
美月の絶叫が、やがて慟哭に変わった。
……ザザ……ザザ……。
とうとうノイズだけの視界となった。
聞こえるのは、美月の呪詛に満ちた声のみ。
その声すら遠ざかった時、
俺はノイズまみれの世界から意識を引き上げられた。




