3-2 疑わぬは間違い(幕末編)
末次が出て行くのを見届けてから、蓮介は腹に響くほどの低い声を唸らせた。
「ううむ。やはりいい男だねえ、加賀末次という男は」
「……ええ。私にはもったいないお方です」
美月は先ほどとはうって変わって、落ち着いた大人の女性のような声を出した。末次がいないところでは子供らしさが鳴りをひそめるのだろうか。どちらが加賀美月……いや、桜花美月の本性であるかは、複雑な心が絡みついていて判断がつかない。
「ところで美月くん。桜花家から手紙が届いたよ」
「兄上、ですか?」
「たぶんそうだろうねえ」
蓮介は袖から手紙をとりだして、美月に渡した。
「…………」
「なんと書かれてあるんだい?」
美月は一通り読んでから、再び手紙を丁寧に折りたたみ、蓮介に渡した。
蓮介は手紙を広げ、瞳をギョロつかせる。
「……ふむふむ。なるほどねえ。もしかしたら、桜花家はこのまま潰れてしまうかも知れないねえ。せっかく君を追い出したのに……あ、いや、口が悪かったねえ。ごめんよ」
「いえ、かまいません。それよりも兄が心配です。手紙によると、まだ厳しい状況にあるようですし……」
「兄上が心配なのかい? 君を国元から追い出したのは彼じゃないか」
「あれは仕方のないことですよ。当主にはなれない女の身で陰陽道にはしり、鬼の一族という悪名をさらに広めてしまった私が悪いのです」
「君が悪いとは思えないんだけどねえ。それに桜花流を極めるなんて、二百年に一人の逸材だそうじゃあないか。そんな才女を追い出すなんてもったいないと思うけどねえ。……もう術は使ってないのかい?」
「はい。もう使っておりません。桜花家を出た以上、それが絶対の掟ですから」
「桜花流の陰陽術を使えばどんな妖にでも勝てるだろうに……もったいないねえ」
じつは料理をつくるさいに術を少し使っているのだが、それは黙っておいた。
「……もう妖など、滅多にいませんよ」
「妖はいないといってもねえ。この町は死霊が生まれやすいのだよ? 明らかに異常な土地柄だ。このままにしておけば、いつか必ず妖が生まれてしまう」
「……ええ、確かに。この町の異常性にはすぐに気がつきました」
「桜花家の現当主――つまり君の兄上が、君を私のところへ養子に出したいと言った時には、この地を納める強力な助っ人っていう役目だと思ったんだがねえ。本当に違うのかい?」
「実を言うと、監視の役割もあって送られたのではないかと思います」
蓮介は顔をしかめた。
「まだ私を疑っているのかね、桜花家は」
美月は窺うように蓮介の顔色を探っている。
「もう霊獣の研究はしていないのですね?」
「してない、してない」
あっけらかんと、蓮介は言った。
「……まあ、信じましょう」
「私はもう純粋に、祈祷師としてこの地をおさめている。まあ、美月くんの力なら一発で解決できそうだけどねぇ」
「すみません。これも掟ですし……それに、その……」
「末次くんにばれたくないかい?」
蓮介は魚のようにギョロリとした大きな眼をしばたたかせた。
「ええ……夫には、あの鬼のようだと蔑まれた力を見せるわけにはいきません。……絶対に嫌です。死んでも嫌」
美月はブンブンと首を横にふる。
やはり末次が絡むと、子供らしさが出るようだ。
「まあいいさ。私と、あの社さえあればなんとかなるだろう。それに、今は異国が攻めてくるだの、異人を追い払えだので、もう死霊や妖を恐れる時代は終わるかもしれない。だから陰陽師や霊能力者も必要なくなるかもしれないねえ。それどころか、陰陽術すら使えない世がくるかもしれない。すでに半分は、そうなってきている。それはそれで、悪くない世だと思うよ」
「…………」
「ただねえ、気になることがあってねえ……」
蓮介は大げさに思えるほど声を落とした。
「気になること?」
「うん。じつは、家老の寺内将権殿が近頃、妙な動きをしていてねぇ」
「寺内殿が……ですか?」
寺内将権とは藩の政治を取り仕切っている執政だ。
美月は寺内に会ったことがない。寺内については、末次を高くかっている人物ということしか知らないので、少し好印象を抱いているにすぎない。
「その寺内殿がねえ、この土地の霊について、しつこく訊いてくるのだよ。それでいろいろと教えてあげたんだけどねえ、この間ビックリすることを言い出したのさ」
蓮介はそのとき心底驚いたらしく、興奮気味で唾を飛ばしながら話している。
「いきなり、『不死の国はつくれるかね?』と言い出したのさ」
「不死の国ですって?」
「そうなんだよ。それで私が、不死の国とはなんですかと訊くと、寺内殿は『永遠に存在できる国、滅ぶことのない魂が欲しい』と言った。……狂ってるね。そんなものはつくれるはずがないと言ったのだけど『いや、できるはずだから協力してくれ』と。もう馬鹿馬鹿しくなってねえ、協力なんてしない、ときっぱり断ってきた」
「確かに馬鹿げた話ですね」
「そうだよねえ? 馬鹿げている。死霊がうじゃうじゃいる国ならできるかもしれないが、永遠に存在できる国なんて、できるはずがない」
「霊獣の国なら可能かもしれませんが……?」
美月は挑発を混ぜて言った。
もし、かつて蓮介が研究していた霊獣の理論をこの地で利用したなら、不死の国は実現できるかもしれなかった。
「おいおい、怖いことを言わないでくれよ。それだと、まるで私が寺内家老と協力しているみたいじゃないか。もしそうなら、君にこんなことは言わないよ」
「それもそうですね……」
志摩蓮介には危険な思想がある、と桜花家現当主は考えている。蓮介はもともと犬神統の人間であり、霊獣を使役する。その呪術を応用すれば、霊力が豊富である人間をも霊獣化でき、式神を越える従者がつくれると蓮介は言い出した。桜花家では古来、人間の命を使った呪術は禁止している。だからこそ、志摩蓮介は桜花家から破門された。
しかし、彼の人柄を見るに、当主の疑りは杞憂だったのではないかと美月は思い始めている。
「なぜ寺内さまは、いきなりそのようなことを言い出したのでしょうか」
「わからない。わからないが、きっと狂気にでもふれたのだろうさ。ただ、寺内殿のことは放ってはおけないかもしれない。もしかすると、多くの人を巻き込んでしまうかもしれない。狂人が政治をしている状況っていうのは、怖いと思わないかい?」
「そう……ですね」
「田淵信三郎という男を知っているかい?」
「ええ、末次さんの友人ですよね。たしか脱藩したとか……」
田淵信三郎は、潘で一番の剣士と評判高い人物だ。末次と同じく剣の実力を認められて、江戸修行に行ったことがあるらしい。そこで昵懇の間柄となった尊皇思想の攘夷志士たちと、国の行く末を熱く語っていたそうだ。末次にも仲間になるようにと誘ったらしいが、あまり関心のなかった末次は断った。田淵は小塙潘に帰って来たものの、志士の魂を貫くために脱藩して行方をくらました。今頃は京で活躍しているだろう、と末次は言っていた。
「そう。その田淵くんだがねぇ、実は藩の追手に捕まったという話が囁かれている」
「え? そうなんですか?」
小塙潘において脱藩は重罪だ。捕らわれれば即刻死罪、家も取りつぶしとなる。
「うむ、夜中に田淵信三郎と思われる人物が寺内家老の屋敷に連れて行かれたという話があってね、それ以来、彼を見かけたものはいないそうだよ」
蓮介はここからが話の本筋だと言わんばかりに、美月にその大きな体躯を傾けた。
「これは噂だがねぇ、田淵くんは潘の――もしくは寺内家老個人に関する秘密を持ち出したため、寺内家老直々に処罰されたそうだよ」
近寄ってきた蓮介の顔面に慄き、美月は心持だがのけぞった。
「寺内さまの……秘密?」
「その秘密の内容は、もしかしたら不死の国をつくろうという馬鹿げた計画かもしれない」
「そんな、まさか……」
志摩蓮介が関わっていないのであれば、不可能だろう。
「そこで、だ。美月くんには、末次くんに何か変わったことがあったら私に教えてほしい」
「……え?」
「末次くんと御家老は最近、仲がいいからねえ。馬鹿げた計画に巻き込まれるかもしれない」
「末次さんがそんなことに加担するとは思えないのですが……」
「いやいや、御家老の命令は断れないものだよ」
「そう……ですか。わかりました」
「それに、いくら末次くんでも、永遠っていう言葉には弱いかもしれないからねえ」
「…………」
明るいはずの未来に、暗い影が落ちた気がした。ちく、ちくと胸が痛む。
「何事もなければいいんだけどねえ。まあ、用心しておくにこしたことはない。よろしく頼むよ」
――それでも。
それでも美月は、夫を信じる。
夫がすることは、きっと正しい。そう思えば、これから先が明るく感じられる。
光芒に似た輝きを胸中に抱いていられる。
「……はい。わかりました」
だから美月は、夫を疑うことをしない。
自ら未来に影を差す愚行など犯さない。
だから、蓮介への返事は、嘘になった。
思えばこのとき、蓮介の話をしっかりと心にとめていれば、あんな悲劇は起こらなかったかもしれない。寺内を疑い、夫を疑い、そして志摩蓮介という怪物を疑っていれば……。しかし、もう過去は取り戻すことはできない。何度後悔したとしても……今ではもう遅かったと諦めるしかない。