序章
深夜の城下は水に浸っていた。
叩きつけられた豪雨は一面に溢れ、荒れ狂う地上の傀儡となって渦を巻く。大気を震わすほどの音量を以て撃ち落とされた稲妻が、時おり闇を切裂く光源となっていた。
氾濫する二つの川に挟まれた町は為すすべもなく大量の水に流される。
そこに住まう人々は果たして何人生き延びることができようか。
彼らは川が氾濫することなど微塵も考えなかっただろう。とくに川上の普請に関わった者であるなら尚更である。川の堤防が決壊しない様に毎年工事を行っていたのだ。事実、このような豪雨に見舞われた日も、洪水が起こった事など百年間一度もなかった。念のためと川上に向かった普請組の連中は何をしているのか。流されながら町民は呪っていることだろう。
――慶応2年(1866年)江戸時代末期。
幕府の権威が地に落ち、薩摩藩と長州藩の同盟により倒幕の起爆剤が完成したこの年、そんな中央の歴史的出来事など全く関係のないところで――小塙潘の城下は大洪水に見舞われていた。このような大惨事を冷静に見ていられるのは、小高い丘の上にあるこの家老屋敷のみである。
空が次第に仄かな白い明るみを見せ、町を襲う惨状が視覚でもわかるようになってきた。
「末次、見てみよ、人々が流されて死んでいくのがわかる」
加賀末次に話しかけるのは初老の男。あまりにも自然な笑顔が薄気味悪い。
「はあ」
末次はこの男の本意を掴みかねている。前代未聞の災厄を前に、男は恍惚とした表情を隠さない。まるで、この状況を望んでいたかのようだ。それにしても、この男の名前がどうしても思い出せない。懸命に思い出そうとしても、やはり思い出せない。
「そろそろ教えていただきたい。一体何が起こっているのです? この災害は、あなたが招いたことなのですか?」
その言葉に応えたのかはわからないが、男は独り言のように言葉を続けた。
「妖魔の国が完成する。不死の体が手に入る」
「なんですって?」
「儂は不老不死になる。儂だけでない、お主らもじゃ」
「なにを……」
「儂の国じゃ。不死の国じゃ」
男は喜びを抑えられないのか、狂ったように「不死」という言葉を繰り返す。
「…………」
末次は焦っていた。町を襲う未曾有の災害に……ではない。この屋敷に連れてきた妻のことが心配で気が狂ってしまいそうだ。彼の妻は結核で、危篤の状況である。今にも彼女のもとへ飛び出したいのだが、先程から目の前の男が大丈夫だと言う。何を根拠に、と聞いても、大丈夫だと繰り返す。
「貴様も、貴様の妻も、不死国の民となる」
こればっかりである。
いい加減に怒りがこみ上げてきたころ、この男の名前が寺内将権だということをやっと思い出した。なぜ今まで忘れていたのだろうか?
もしかして自分は異常なのではないかと思い始めたとき、寺内がいきなり刀を抜いた。どの潘も逼迫した経済状況であるにもかかわらず、莫大な富を有するこの男の刀は加州清光。京にて多大な活躍をしているという新選組一番隊組長、沖田総司も使用しているという名刀である。その美しい刀身を眺めながら、寺内は相変わらず笑顔を貼り付けている。
「どうなされた?」
戸惑い気味に、末次は訊いた。
「これほど美しい刀ならば、必ず霊が宿っておる」
寺内将権はそう応えた。
「モノにも霊が宿りますか……?」
「霊とは、すなわち意思のこと。刀匠がこれほどまでに意思を傾けて仕上げたものならば、おのずと霊が染み付いておる」
寺内は刀の腹で自らの姿を眺めている。末次にはその顔が化け物じみているように思えてならない。
「儂を守るための刀じゃ。霊の国が完成した後も、儂を守ってくれる霊刀。仕手は貴様しかおらぬ。藩内きっての秀才といわれた貴様こそ、この刀は本領を発揮できるであろう。霊体となった後も儂を守れ。よいな?」
――突然。
寺内は刀を自らに突き刺した。
止める間もない。
顎下から入った剣先はそのまま脳まで突き刺さっている。
――寺内は絶命した。
あまりの出来事に呆然とする。
倒れている身体を確かめても、やはり死んでいる。
意識が薄れてきた。その時点で、これは夢なのかと思い始めた。よく考えれば、俺は加賀末次などという名前ではない。
声が聞こえた。
生まれたての赤子ように繰り返すが、老人の枯れた声だ。なんとも禍々しい声である。
ああ、ああ、と繰り返す。
振り向くと、死んだはずの寺内が立っていた。驚いた末次は足元をみる。が、やはり男は変わらぬ場所で死んでいる。もう一度声の方へ振り向く。男はいたが――顔が無くなっている。
末次は刀に手をかけ、そいつに近づいた。
男の顔は鬼のように禍々しく変形していき、身体は二、三倍に膨れ上がっていた。
そのあたりで俺は、これは夢だと気づいた。これは加賀末次という死霊の見せた、彼の最期の記憶だと確信した。
「化物め――」と末次は叫んだ。
「妖怪か――」と俺は思った。
すでに意識は分裂して、断片的に失せている。
化物、化物、と狼狽する末次に、妖怪だ、退治しろと叫ぶが届かない。
「美月! 美月!」
彼は妻の名前を叫ぶ。どうか生きていてくれという思いを込めて。そこで、自分はもう死ぬなと覚悟した。
意識が飛び始める。
妖怪の類はほとんどいなくなったとされる幕末に、これほど強力な鬼が出てくるなんて有り得ない。当然、俺は見たことがない。これは本当に記憶なのだろうか、と疑った。
「死に給へ、死に給へ」
鬼が初めて言葉を発する。
それ以降の言葉は俺の耳には届かない。
――すでに意識は失せていた。




