魔物
1
闇に閉ざされた荒野が一夜にして光の満ちた聖なる場所に変わることがある。
聖者が降り立つ地。天使が光臨した地。神が力を示した地。
それらを人々は聖地と呼ぶ。
しかし聖地が必ずしも祝福を受けた平和な地とは限らない。
歴史を紐解くまでも無く、人々は聖地をめぐり血で血を洗う闘いを繰り返した。
聖地は全て多くの血に彩られていた。
そして今、人々の心の隅にすら思い出されることの無い
この辺境の地「どきどきランド」にも一人の天才が降り立った。
やがて聖地と呼ばれるその場所も矢張り神の祝福は無かった。
それは争いの始まり、最強の座を巡る争いの、始まりの地に過ぎなかった。
多くの格闘ゲームプレイヤーは帰属意識が強い。
自分たちを好んで、関東勢とか関西勢、九州勢などと称する。
それがより狭くなると、東京、や福岡などの県になり、更に小さくなると市になり
やがてその最小の勢力は、己の属するゲームセンターと言うことになる。
格闘ゲームプレイヤーの帰属意識が強いのは、思うに、格闘ゲームと言うものが
一人では強くなれない性質のものであり、
仲間との戦いが研究であり自己の研磨であるからだろう。
一人の技術の向上は、意識せずとも仲間の技術向上につながり、
ゲームセンター全体のレベルアップに繋がるものである。
プレイヤーはそれを意識的にしろ無意識にしろ感じるから、
その場所を愛しく思い、守りたいと思い
そして最も強くレベルの高い場所にしようと思うのだろう。
しかし多くの場合、やがてその帰属意識は肥大して排他的になる。
他者を認めず、他者を見下し、自分達しか受け入れなくなる。
それも又、格闘ゲームのプレイヤーの悲しい宿命なのかもしれない。
だとすればそれは悲しい事である。
まさに上代は、その様な排他的なプレイヤーといってよかった。
上代の徹底した冷笑主義と、実力主義は、
サードは愉しむためではなく、勝つためにあるという信念に由っていた。
そしてその信念は彼の地元のゲームセンター「オセロット」に深く根付いていたのである。
彼はオセロット勢であった。オセロットも又、弱者には無慈悲で排他的な「聖地」であった。
彼はそこで力をつけるたびに、弱いものに無慈悲になった。
彼の自意識は肥大して、やがてある日爆発した。
彼は久遠零に負けたとき、負けて哀れみを受けた時、全てを失った。
そして彼は己に対しても、冷笑的になった。
上代は、冷笑を浮かべ久遠との闘いのことを思い出していた。
そしてその度に思う、過去の自分のなんと愚かな事か、
過去の自分の誇りは、なんと矮小な奢りであったことか。
上代は思い出すたびに、過去の自分に侮蔑を禁じえない。
しかし、今は違った、今はあの時とは比べ物にならないほどの知識、経験、技術を得ていた。
そして努力ではどうにもならなかったもの、
自分と並ぶ強者をも、あと少しで手に入れることが出来た。
相馬香湖。
上代の瞳に、日野桜の姿は無かった。只一途に香湖に向けられていた。
「…お前と俺が組めば…すべて手に入れられる…」
そう呟いた上代の表情には矢張り、あの冷やかな笑みがあった。
桜はサードの1P側の筐体に座った。両隣には、香湖と亜弓が方膝をついて控えていた。
素人同然の、桜になにがしかでも助言をするためである。
その後ろには日高が不安げに、三人を見つめていた。
見つめながら、日高は思う。
自分が不甲斐ないばっかりに、大谷に迷惑をかけ、香湖に迷惑をかけ
亜弓に迷惑をかけ、そして、何も知らない桜に迷惑をかけた。
この勝負が終って、桜が負け、次に闘う香湖が負ければ、
香湖は組みたくも無い上代とチームを組み、闘激に出なければならない。
それはあってはならないと日高には感じた。
しかし日高には、香湖は上代に勝てないと思えてならなかった。
彼は、今しがた上代達の会話を聞いた。
その中で彼らの口からオセロットと言う言葉を聞いて愕然とした。
オセロットとは、隣県にあるサードの聖地の一つで、
そのレベルは県下でも1,2を争うといわれている。
まさか自分がそんな連中を相手にしていたとは思わなかった。
彼は何とかしなければと思った。
何とかこの闘いを止めなければ、と思えば思うほど日高は、悲しくなった。
自分がサードプレイヤーとして、男として、情けなくなった。
彼は余りに無力だった。しかし本当にそうだろうか。
俺はやれることを放棄して逃げていないだろうか。と思うと心が締め付けられる。
俺は、俺のリュウは確かに弱かった。それを認め、あいつ等の罵倒に耐えるべきだったんだ。
案山子に頼り、大谷さんに頼り、あの子達に頼るなんて最低だった。
相手の実力も分からず喚き散らし、一騒動を起こした挙句、人に頼り自分は傍観する。
そして有ろうことか、こんなにサードの好きな娘達に不自由な思いをさせるかもしれない羽目になる。
男としてこんな情けないことが有るか!そう思った日高は、矢も盾も堪らなくなった。
彼は突然、2プレイヤー側に駆け出すとそこにいる上代と中条に叫ぶ。
「やめてくれ!もう!俺が悪かったんだ!こんな勝負しないでくれ。
PS64分の金は俺が払う。
それで勘弁してくれ。俺は弱かった。
お前たちの言うとおりだ。許してくれこの通りだ!!」
日高は、本心よりそう言った。彼はただ男として、云った。
サードが弱いからと卑屈になり、全てを流れに任せようとしたが、そうすればするほど
自分が許せなくなったのだ。今の彼の言葉には偽りは無かった。卑屈は無かった。
それを聞いた香湖と亜弓、そして大谷は驚き、急いで日高に駆け寄った。
その様子を椅子に座って見ていた上代は呆れるように席を立つと蔑んだ瞳を向け日高に云った。
「じゃあ金をだしな。そして二度とサードはやらないと誓うんだな。」
上代は興醒めしたといわんばかりの苦々しい表情で冷たく言った。
日高は、震える拳を握り締めて、云われた通りに土下座しようとし、膝を折ろうとしたとき
誰かが日高の肩に触れた。振り向くとそれは亜弓であった。
亜弓は微笑んだ。そして「よしなよ」と言う。
「…でも。あいつは、上代達はオセロットのプレイヤー何だ!
君でも、相馬さんでも負けるかもしれない!そしたら俺は…」
日高は涙を浮かべ、亜弓と香湖に訴えた。
香湖は何も答えない。ただ強い瞳で見つめた。亜弓は暫く考えてから
「まあまあ。日高さんは悪くないよ。それに私たちも興味本位なとこあったしね」
と云い、日高だけに聞こえるように顔を近づけて小声で
「あの人達ムカつくし」とおどける様に云ったが、
それが自分を慰めるために云ったことだと分かると、我慢していた涙が溢れた。
「…あいつ等…ムカつく…本当…あいつ等…弱いって…
回しプレイや、神龍拳とか選びやがって…悔しい、悔しかった…俺は…」
亜弓は困ったような笑みを浮かべ、日高に云った。
「…分かるよ…私だってそんな事されたら悔しいもん。
それに、あの人のケンより日高さんのリュウが強くなるよ」
日高は驚きに表情で亜弓を見た。恐らくお世辞だろうがその気持ちが嬉しかった。
「日高さんのリュウは一度もぶっ放さなかった!
ぶっ放さない人は強くなるって氷河がよく云うんだよ。ね?カコ?」
「…ああ」香湖は無表情に頷いた。
「で、氷河のケンは、あいつの百倍強くて、
その百倍強いケンに勝てるカコは絶対に負けないから安心して」
それを冷やかに見ていた上代は、ただ薄ら笑いを浮かべただけで、再び席に着いた。
そこにコインの投入音が聞こえた。
「それにどうやら、あの子もやる気満々らしいよ」
日高は亜弓に促されながら、桜のいる2P側の席に向かった。
日高は、絶対に負けるな、とその時心の中で叫んだ。
2
上代も桜に従いコインを投入した。そして二人は同時にスタートボタンを押した。
キャラクター選択画面が現れ、上代はケンを選択、スーパーアーツは疾風迅雷脚。
1P側の桜は、リュウを選んだ。スーパーアーツ選択で暫く逡巡した様な間があり、やがて真空波動拳を選択した。
逡巡は、誰かの助言を聞いていた所為だと、上代には分かった。
素人に今更どんなアドバイスを送ろうが無駄な事だ。と思い、上代は冷笑を浮かべた。
これは勝負ではない。と上代は思っていた。
一方的な陵辱であるとそう思って疑ってもいなかった。
それは後ろで見ていた中条も同じであった。
サードとは、知識、経験、技術、の差が大きければ、勝負にならない。
そして自分と桜の差は、天と地ほどの差があった。
それは概ね正しい判断であった。
しかし上代は思い違いをしていた。
目の前のリュウは、 ではなかった。
目の前のリュウ使いは であった。
上代は元来、慎重な男である。勝つことに対して貪欲な男である。
香湖の強さを量るために、下沢を捨て駒に使う程には。
しかし何故上代は同じことを桜にはしなかったのか。
なぜ桜をただの初心者と判断したのか。
しかしそれは上代の咎ではない、人の咎ではない。
それはただの必然だった。
―――やがて闘いが始まった。
但しそう呼ぶ事が出来ればの話であるが...
3
サードのみならず、格闘ゲームにおける初心者を倒すための最良の方法は
「ガードを固めて反撃確定の技を待つ」と言うものがある。
初心者は得てして大技を振り回しがちで、それらの大技には得てして
反撃可能な隙がある。それらの技が来るのを待って、反確を取るのが、最も安全で確実である。
何故ならば、差し合いや牽制等の、中技の置きあいは、格闘ゲームの理屈が分かっているもの同士ならば
機能するが、初心者には返って、大技に潰される可能性がある。
牽制は本来相手に接近を許さない為の阻止行動であるが、初心者は、元々その知識と経験の不足から
接近から崩す手段も乏しく、近づいて自滅、と言うのが一つの典型的な例である。
上代もその事を知悉しており、桜のリュウに対して、ケンはしゃがんで何もせずに待っていた。
時折ゲージを溜めるために中パンチを振っていたが、それも最低限にとどめていた。
どういうところに平気で大足を差し込んでくるのが素人と知っていたからだ。
上代は所謂ガン待ちをしながら桜のリュウの動向を見ていた。
桜のリュウは、波動拳を数発撃つ。上代はそれをブロッキングし処理しながら言う。
「こいつヤッパリド素人だぜ。波動拳で俺を飛ばせる積りだ。そんな古い手が通じると思ってやがる」
上代は画面を注視しながら後ろで見ていた中条に言った。
古い手とは、波動拳で飛ばせて、昇竜拳で落とすというような、所謂「波動昇竜」を指していた。
波動拳で体力を削られる事を嫌った相手が、飛び込んできた所を完全対空技である昇竜拳で迎撃すると言う
波動昇竜は、その本来的な戦法としてはサードにおいて崩壊したと言って良い。
サードには所謂ブロッキングがあり、レバーを前に入れるだけで削りのダメージをゼロにすることが出来る。
これで波動拳などの飛び道具の削りに対するプレッシャーは無くなり、波動拳を盾に飛び込みを待つことが
不可能、もしくは非効率となった。
勿論その理由はそれだけではなく、空中ブロッキングが完全対空と言う概念をなくしたことも大きい。
昇竜拳が信頼できなくなったのだ。
これは昇竜拳と波動拳が弱体化したというより、
ブロッキングと言うシステムがプレイヤーにより多くの選択肢を要求した事に他ならない。
飛んだら昇竜拳は今や崩壊した戦法である事は否定し得ない。
桜が波動昇竜に拘る事は無理からぬことであった。
彼女はスーパーストリートファイタ2xしかプレイしたことが無かった。
スパ2こそが波動昇竜拳の最も強い格闘ゲームだからである。
桜は兄と良く対戦していた。それは恐ろしいほど濃密であった。
4
桜は対戦しながら漠然と兄の言っていた事を思い出していた。
兄は良くこういっていた。
「どんなに進化しても、どんなにシステムが複雑化しても
2D格闘は詰まる所、飛ばせて落とす事が基本だよ。
それが格闘ゲームにおける意識配分の基礎なんだ。
守るためにも攻めるためにも重要な基礎なんだ。
その基礎が無ければ、プレイスタイルは、ネタや連携、セットプレイに陥りがちになり
負けた反省も出来なくなるんだ。難しい顔をしてるね桜?」
まだ幼い桜は、兄の言葉にちんぷんかんぷんと言った感じで目を丸くしている。
「例えば桜は良く跳びこむだろう?それを僕は昇竜拳で落とす。
反対に僕の跳び込みは、桜には落とせずよくガードしてる。それは何故か分かる?」
幼い桜は無邪気にお兄ちゃんが強いからだよ。と微笑を浮かべていった。
兄は微苦笑を浮かべ言う。
「そう思うだろ?でも僕が強いんじゃないんだよ。
僕は分かってるだけなんだ。桜が跳ぶのを。
そしたら予め跳ぶのが分かったらもう簡単だ。
後は昇竜拳を出す準備をすれば良いだけの事さ」
何で分かるの?
それが強い事なんじゃないの、と幼い桜は思った。
「分かるよ。桜のリュウは波動拳を怖がっている。
何とかしたいと思ってる。怖がった人は何をすると思う?」
逃げる?
「実は怖いとやっつけてやろうと思うんだ。
怖いものを倒して楽になりたいと思うんだ。
その時少し切っ掛けを作ってやる。例えば波動拳を出す振りをして、少ししゃがむ。
すると相手はそれを波動拳の隙と思い飛び込む。その時はもう終わりなんだ。
それは跳んだんじゃなくて、飛ばされたんだ」
幼い桜は良くわかんない。と言った。
兄は寂しげな笑みを浮かべ桜に言った。
「桜はこんな事考えなくても強くなれる。僕は弱いから何時もこんな事を考えているんだ…」
桜はその悲しげな兄の顔を今も鮮明に覚えている。
リュウの波動拳に対してブロッキング(以下BLとする。尚ボーイズラブでは無い)で処理しているケン。
その勝負を後ろで見ていた香湖は、桜の意図が何かを察した。
そしてそれが上代には通用しない事も分かっていた。
「桜。ケンの放つあの青い光はBLと言って、削りのダメージを無くすことが出来る。
お前の知っている戦法は、サードでは通じない」
香湖にとってこれは桜に出来うる限りの最低限の助言であった。
波動昇竜拳は通用しない。だが、お前はそれだけではあるまい。
香湖はそう思っていた。
桜は香湖の言葉に小声で「そうなんだ」と呟く。
「でも私はこれしか出来ないから」と桜は更に小声で呟いた。
香湖にはその呟きは聞こえておらず、ただ厳しい目つきで画面を凝視していた。
上代はある違和感を感じた。
桜は間違いなく初心者であった。それは闘い方から言って間違いなかった。
しかし一言でそう片付けられ無いような何かを持っていた。
それに説明が付けられない、上代はリュウの波動拳をBLミスして喰らった。
上代は察したサードでも、待ちに対して波動拳はある程度機能する。
しかも桜のリュウは極端にジャンプを嫌っていた。跳ばなかった。
それは素人離れした立ち回りだと上代は感じた。
桜のリュウは波動拳を打ち、少し間を作る。
そして再び波動拳を打つ。を繰り返していた。
「スパ2はしたことあると言っていたがその影響か…。ただのド素人じゃねえと言う訳か」
そう言った上代の顔にあの笑みは消えていた。
そうかなら飛び込んでやる。サードはこういう闘いも出来るんだよ!
そう心の中で叫んだ上代は、桜のリュウに対して飛び込んだ。
その飛込みに対して桜は昇竜拳を放つ。
しかし上代は余裕を持って空中BLした。
昇竜の隙にケンは、しゃがみ中Kから昇竜拳を二回、所謂双竜拳を決めた。
すかさず起き攻めに持ち込むケン。クイックスタンディングを知らない桜のリュウはその場で起き上がる。
上代は冷静に桜のリバーサル昇竜拳を読むと、それをガードして再び中足双竜拳を決めた。
桜には最早為す術はなく、桜は一ラウンドを落とした。
先取した上代の表情はしかし浮かなかった。
恐れている、上代は恐れている。桜は兄の言った事を忠実に守っている。