動き出す運命
香湖は、目を瞑り静かに息を吐くと小声で「よし」と呟いた。
筐体の向こうで亜弓は何事かを叫ぶと、トタトタと小走りに香湖の方に寄って来た。
その表情は、多少の悔しさが表れていたが、それ以上に清清しさが滲み出ていた。
「もう!カコったら本気出すんだもん!少しは接待プレーてもの考えるべきだよ!」
その言葉とは裏腹に亜弓の声色は明るく、その表情は満足の笑みに満たされていた。
香湖は軽い笑みを浮かべて言う。
「何を言う。手を抜いたら怒るくせに」
「当たり前だよ。私は何時も真剣なんだから!」
亜弓は、相手が手を抜いたと解ると酷く不機嫌になる。
それこそ手が付けられないくらいで、一日中取り付く島がないほどである。
そうなった亜弓の機嫌を取り戻すには、ハーゲンダッツが2ダース半は必要だった。
「しかし、矢張りお前は、攻め過ぎだ。幾らヤンの雷撃蹴が速いとはいえ
そう猪のように攻め立てたら見切られる。
お前のスタイルは、対空の乏しいキャラや、暴れる相手には有効でも
ガードの固い相手には単調になり、連携に割り込まれ致命的な一撃を貰う。
ヤンは繊細なキャラなんだ。お前とは違って」
何事にも無口な香湖だが、事サードの事に関すると途端に口数が多くなる。
「香湖が悪いんだよ!豪鬼使いくせにガード固すぎだよ。
もっと攻めてよ。それに豪鬼、ヤンは豪鬼有利でしょ?」
香湖は呆れた表情でやれやれといった感じに首を横に振った。
「あべこべだ。ヤンが有利」
「嘘だよ。豪鬼強すぎだよ」
「本当だ」
「何よう!それじゃあ自分が強いっていいたいんだ?カコはナルシストだ」
「何故そうなる」
亜弓は頬を膨らませて駄々をこねるようにナルシストナルシストと言い立てた。
香湖は瞳を伏せると暫く何事かを考える。そして瞳を開くと亜弓に向かって言う。
「亜弓、私はキャラ差、というものは言い訳の理由にはならないと思っている。
サードの19のキャラのどれでもを私達は選ぶ権利を持っている。
いや、それとは関係なく、自分が誇りと自信を持ったキャラを信じられなくて如何する?」
そう言うと香湖は真剣に亜弓の顔に向き直って、
その猫のような瞳をジッと見つめ
「ヤンがお前を裏切ったのか?」と云った。
亜弓は尖らせていた口をキュッと固く結んで、首を横に振ると
「ううん、私が上手に出来なかっただけだよ…」と悲しげに答える。
そんな亜弓に香湖は珍しくニッコリと笑うと優しく言った。
「ならば、何時か答えてくれよう。そういうものだ」
亜弓は顔を赤らめコクリと嬉しそうに頷くのだった。
その時コインの投入音が響く。
そしてモニターにはNow fight a new raivaru!の文字が映し出された。
亜弓は爪先立ちに背伸びして、筐体の向こう側に座る男を確認し、香湖に小声で耳打ちした。
「カコ、あの三人組の一人だよ。何か一番背の大きい人」
好奇心旺盛に目をクルクルさせて、亜弓は嬉々として言った。
香湖は、怒ったり、笑ったり気落ちしたり、と思うとまた笑ったりと、
感情の赴くままの亜弓に対して相変わらず猫みたいな奴と、内心苦笑した。
「やっつけちゃえ!」
と隣で嬉しそうに歓声を上げている亜弓を横目で見ながら、
香湖は結局こうなってしまったかと思った。
「どうも、私は亜弓に引っ張られるな…」
独り言のように香湖は呟くと、気を引き締めるように画面を凝視した。
相手は、ユリアンを選択した。
スーパーアーツは当然ながらエイジスリフレクターであった。
「ユリアンだよ!どうするの?どうするの?」
と、亜弓は、はしゃいでいる。
「闘うだけだ」
そう淡白に言うと、スーパーアーツを亜弓と闘った時と同じ滅殺豪波動にしてボタンを押した。
ユリアン対豪鬼、香湖対下沢の戦いが始まった。
ラウンド開始数秒後、香湖はある違和感を感じた。
それは何か恐ろしい得体の知れない脅威の予感だった。
香湖はその予感を否定するように、首を軽く横に振ると、闘いに集中する。
「何を怯える事がある」
香湖は静かに力強く呟いた。
上代と中条は下沢の座る1p側の筐体の後ろで、この闘いを注視する。
中条がモニターを見ながら、「勝てると思うか?下沢は?」と上代に云った。
上代は横目で中条を見ると、冷笑を浮かべ答えた。
「さあな。キャラ相性も、腕も、実力は相手の方が上だ」
そう言うと何時もの冷笑を浮かべ付け加えるように続けた。
「だが勝敗がそれだけで決まる事はない。
サードの勝敗が実力や相性だけで決まると思っている奴はド素人だ。
どんなにあの豪鬼が強かろうが、立ち回りが完璧だろうが、ミスが一つでもあれば終る。
ユリアンの肘一発、EXヘッド一発で、紙みたいな装甲の豪鬼は死ぬからな」
そういうと上代は再び画面に眼を向けた。
しかし画面上の白い豪鬼は磐石な立ち回りで、下沢のユリアンを上下左右に揺さぶり、
上代の言うようなミスを犯す素振りは微塵も無かった。
ユリアンは、スーパーアーツのゲージを一本も溜めきれずに一ラウンドを失った。
上代は苦々しげに舌打ちをすると、
「ゲージが無いユリアンなんぞ、只の独活の大木だ。奴と同じな」
と、下沢の背中を忌々しげに睨みつけ、辛辣に掃き捨てた。
スタッフルームから出てくる大谷に日高は興奮気味に眼を向けると、捲くし立てるように云った。
「あの女の子たちが凄いんだよ!ホラ、今あいつ等の一人と戦っているんだ」
大谷が云われるがままにサードの筐体の方を見ると、画面上では豪鬼とユリアンが闘っており
それを上代と中条が後ろで何事か呟きながら見てる光景を眼にした。
「ほう。先取してる白い豪鬼が女の子?ユリアン相手にやるな」
などと大谷は適当な感想を述べた。
「それより今まで何してたんだよ?」
日高は今まで姿をけしていた大谷が何をしていたのか気になり質問した。
「おお。実は案山子が助っ人を送ってくれたらいいんだ。
なんだかんだ言って俺のことが心配らしい」
「へえ」
日高は軽く聞き流した。そして続けて
「でももう要らないんじゃないかな」
と、モニターに映し出されている、ユリアンの残り僅かな体力を見ながら言った。
下沢には、最早何が起きているかも解らなかった。
ただ見る見るうちにユリアンの体力は削られていった。
こいつに勝てば、俺は、斗激のメンバーに入れる!上代と組める!
それなのに!何故こいつは!邪魔を!女くせに!せめて肘が当たれば、いやEXヘッドでもいい!
当たれば、こいつは死ぬ!死ぬんだ!
しかしその思いも空しく、ユリアンのEXヘッドは無残に空を切り、貴重なゲージを空費した。
豪鬼は忌々しいほど冷静にユリアンの着地に中足払いを差し込む。
そして滅殺豪波動を決める。
それで戦いは終った筈だった。
しかし香湖は致命的なミスを犯した。中足払いにキャンセルが掛からず、滅殺豪波動が暴発する。
ユリアンはそれをガードした後に、豪鬼の硬直に肘を入れた。
空中に打ち揚げられる豪鬼にチャリオットタックルが決まる。
その瞬間、ユリアンにスーパーアーツゲージが溜まる。
ユリアンはスーパーキャンセルしてタックルに繋ぐ。そして再びタックル。
豪鬼は倒れ、香湖は二ラウンド目を勝利目前で落としてしまった。
大谷と日高からは溜息交じりの悲痛な叫びが上がった。
「よっシャー!!」下沢は雄叫びを上げた。
「云わんこっちゃねえな」
その後ろでは上代が倒れた豪鬼を見ながら、冷笑を浮かべ冷たくそう呟いた。
側らで見ていた亜弓は、香湖のミスが信じられなかった。
そしてそのミスに呼応するかのように、香湖の表情も苦痛に満ちていた。
「カコ…大丈夫?凄い汗だよ?」
「何、心配するな、少しミスしただけだ…」
そう言った香湖の額からは汗が滲み出ていた。
ファイナルラウンドが始まっても、香湖の豪鬼は本来の動きを取り戻せなかった。
「どうしたんだよ。カコ…」
「…少し…黙っていてくれ…」
その声は明らかに怯えにも似た響きが携えられており、心なしか香湖の手が震えているのに気づいた亜弓は、
コンパネに添えられている香湖の右手の甲にそっと触れた。
香湖はモニターから視線を離さず、焦りの混じった不愉快そうな声で亜弓に言った。
「…何をする。操作の邪魔をするな亜弓」
苦しみながらも、香湖は必死に豪鬼を操っていたが、
当初の華麗な立ち回りは完全に失われ、今や完全に精彩を欠いていた。
「カコ…」
亜弓はおろおろと香湖の名前を呟くだけだったが、彼女に触れた手はけして離さなかった。
豪鬼の体力は、ユリアンに大きく離されていった。
「如何したんだろうな上代?あの豪鬼使い。
一ラウンド目とは明らかに動きが違う。ワンミスで動揺したのか?」
中条は不思議そうに上代に聞いた。
「だろうな。詰まりその程度だったという事だ。残念だが、所詮女と云う事だな」
そういうと上代は、呆れるように中条に肩を竦めて見せた。
ユリアンのゲージはマックスだった。
体力1ドットで画面端に追い詰められた豪鬼に最早為す術は無かった。
私は恐怖を感じているのか、と香湖は己に問う。
このユリアン使いに?だからミスを犯した?(違う)
この震えは、恐怖?(違う)敗北を恐れている。(違う違う)
集中しろ。(違う)考える刻があるものか。(違う)
「…黙れ」
香湖は憎らしげに呟く。傍らで、手を触れている亜弓は、自分の事かと不安げに
香湖の顔を覗いたが、香湖の視線は、苦しげに、モニターに向けられたままだった。
その香湖の呟きは、誰に向けられたものでもなかった。
「何が違う…黙れ」
震えるな、恐れるな、考えるな、倒れるな、逃げるな…。
いや…。この感覚は、一度、あった。
香湖の脳裏には刹那、(一)、過去の記憶が、(三)、よぎる。それは、遠くない過去。(九)、
何を考えている、私は、(八)、闘いに集中しろ。(闘いに集中しろ)
(一)、そんな事が、これは、(三)、何だ。
亜弓。手をどかせ!重い。ボタンが押せない。
(九)、亜弓!(八)。手をどかせ!でなければ負ける。
私は、(一)、に、勝てない、
(三)、に、(九)、に(八)、
から、再び逃げる訳にはいかない。
(逃げる訳にはいかない!)
ああ、そうか、香湖は思った。
(これは、…だ…。)
これは、三九八か。
(一三九八…。ニノマエサクヤ…だ)
…居るのか…近くに。
私はそれを感じているのか…。
「ニノマエサクヤ!」
香湖がそう呟くと、彼女には、まるで止まっていた時が動き出す様に感じた。
そう思えるほど、永劫の逡巡であった。
香湖は、亜弓の方を向かず、迷いの無い声で云う。
「もういい、手を離せ亜弓。ありがとう」
毅然とそう言った香湖の声には、以前の力強さが戻っていた。
亜弓は手を離し、「頑張れ」と云い、信じるように香湖を見つめる。
正に、その時。刻が動き出した。
香湖の耳には雑多な音、歓声、吐息、雑踏、電子音、心音。
そして死を告げる、訃音が目の前から聞こえた。
下沢のユリアンは止めのタックルを豪鬼に放つ。
香湖は恰も、それが来るのが解っていたが如く、軽々とブロッキングする。
下沢の口元には勝ちを確信した笑みが浮かぶ。
ユリアンは、スーパーキャンセルで斜め上にエイジスを張った。
弱P弱P前弱K強P。
それは淀みない刹那の動作であった。
瞬獄殺。
天。
―――。
…香湖は立ち上がった。
最早その闘いには何の興味もないように躊躇いなく立ち上がった。
そして一点を見つめた、彼女が戦いの最中感じた、一点。
その一点には、一人の少女が立っていた。
その少女も又香湖を見つめていた。
不安げにそして不敵に…。
香湖は嬉しげに呟く。
「…私は運命を信じよう…」
香湖の瞳は、神妙なほど冷たく輝いていた。