第八話 狂人の虜囚
アーフェル王国の国王の第二子にして、唯一の王子。そして聖ユオル騎士団の団長。
リステス・ギイ・アーフェル──それがあの金髪の少年の名前であり、肩書きであるという。
ラダがジェフやヘイゼル、街の死霊たちにそれとなく聞いた話によると、王子は普段、エテルベリの街から何日か北に行ったところにある、聖ユオル騎士団の拠点の城で暮らしているのだそうだ。それが何故か今回、騎士団と離れ、わずかな供だけを連れて突如エテルベリを訪れたのだという。
「市の役人連中も随分慌ててたらしいよ。何せ先触れもなしに王族が、それもあの悪名高い聖ユオル騎士団の長が来たんだから。当の王子様は、観光が目的だったみたいだが」
「……呑気なものだな」
そう呟くラダの顔はまったくの無表情だ。けれどもその声色には、隠しきれない嫌悪が滲んでいるように感じた。
志穂も彼のことを思い出すと、まだ息が詰まるような思いを覚える。
王子は容姿に違わず、まだ十六歳の若さだという。だが彼は騎士団が山里を焼き払った現場にいた。ということは、決してお飾りの存在ではない。無惨に殺されたあの男に向けて言っていたように、皆殺しの命令を出したのもきっと彼自身。
志穂の命を奪っただけではない。彼はあの惨劇を作り出した張本人なのだ。
そんな少年にまた出くわしたらと思うだけで、平静ではいられなかった。
リステスと出くわした翌日、志穂とラダは改めて〈水煙亭〉を出発した。気を付けろよ、とジェフに何度も言われながら。
昨日、リステスを見たあの通りに差しかかった時は、少々どころでなく胸がざわめいた。けれども昨日の光景が嘘のように通りは閑散としていて、石畳の道のどこにも赤の痕跡は見当たらなかった。あの時殺された男性の遺体はどうなったのだろうか──そして彼の霊はどこへ行ったのだろうかと思うと、志穂の心は沈んだ。
そうして今度こそ二人は裏町にやってきた。
昼間の光に満ちた裏町の風景は、夜の時ほどおどろおどろしくは感じない。怪物を象った看板や山羊の頭部の剥製も、この明るい中ではどこか間が抜けて見えた。
先日訪れた家の扉には、家主の不在を示すらしい札が掲げられていた。
しかしラダが小さく扉を叩くと、やや間を置いてから、内側から扉が開けられる。そこから顔を出したのは陰気な顔をした灰色のローブの男性で、彼はラダを見ると、小さく頷いて彼を中へ通した。
先日老婆と面会した部屋に案内されたが、当の老婆はいなかった。
主人は今出かけている、呼びに行くからもう少しここで待っていてくれ──というような意味合いのことを、この家の下男らしい男性はぼそぼそと伝えた後、裏口へ向かった。
他に人がいるようには見えない家に一人放っておかれるくらいには、ラダは老婆との付き合いが深いらしい。
ラダは部屋に置いてある椅子に腰掛けた。
そのまましばらく待ったが、一向に老婆らが帰ってくる気配はない。
手持ち無沙汰の沈黙の中、志穂は誰も聞き耳を立てていないか確かめてから、彼に話しかけた。
「……ラダは、死霊が見えるよね」
「ああ。それがどうした」
「それで、ヘイゼルさんとか、多くの人たちは死霊が見えないものなんだよね」
「ああ。……この間のように、強い怨念や現世への執着を持つ悪霊なら、霊感のない人間の目にも見える場合はあるが。そうでない霊を認識する力を持つ人間はほとんどいない。そういう血筋でもない、ごく普通の家系に霊感を持つ者が生まれることは本当に稀だそうだ」
そこで一旦言葉を切り、ラダは今いる部屋の中を見回した。
壁の一面に本棚があり、中央に椅子とテーブルのセットがあり、床には絨毯が敷かれている。テーブルの上と壁際に一つずつ燭台も置かれていた。志穂の目にはごく普通の、しいて言うならちょっと裕福かもしれない民家の部屋に見える。
「ここのケル婆の亡くなった夫は、滅多にいないその異能の力の持ち主だったらしい。彼女はその頃築いた縁故を使って除霊の仲介をしている。……今の彼女は俺の他にも幾人かの死霊術士を名乗る輩に仕事を仲介しているそうだが、ほとんどは口が上手いだけが取り柄の詐欺師たちで、良くても多少霊が見える程度だそうだ」
無論ケル婆はそのことを分かっていて仲介している、と青年は補足する。
「俺はあまり関わらないようにしているが、この裏町に集まっているのはほとんどがそういう奴らだ。占い師、呪術師に、黒魔術師……皆様々に名乗ってそれらしい看板を掲げているが、本物はほとんどいない。詐欺を通り越して恐喝を行う盗賊紛いの者すらいる」
この界隈の雰囲気がやけに不気味なのは、そういう理由かららしい。別世界とはいっても、ラダのように不思議な力を持つ本物の魔法使いがたくさんいるわけではないようだ。
けど、と志穂はうつむきがちに呟いた。
「あの人は、見えてた、よね」
名前を口にすることすら厭わしく、曖昧な言葉遣いになる。
それでもラダには誰のことを指しているのか伝わったらしく、彼は眉根を寄せた。
「私のこと、確かに見てた。まっすぐに見て、笑って、……また会ったね、って……」
握り合わせた自身の両手に力を込め、恐怖を抑え込む。
そんな志穂を見つめ、ラダは一瞬手を伸ばしかけるような素振りをしたが、すぐに引っ込めてしまった。そのまましばらく沈黙してから、彼はこう答えた。
「……稀とはいえ、先天的に霊を見る力を持つ人間がいないわけでもないからな。さらにごく稀なことではあるが、後天的に霊感を得る者もいる。だが、見る力があるから、霊に干渉できる力もあるとは限らない。シホが危害を加えられる可能性は……」
そのとき、青年の言葉を遮るように、外から荒々しく扉が開かれる音がした。
続いて、複数人の足音がこちらに近付いてくるのが聞こえる。
椅子から腰を浮かしたラダが白い杖を握り直したとき、青年のいるこの部屋の扉も乱暴に押し開けられた。
そうして現れたのは、鎧兜に身を包み、剣を手にした兵士たちだった。
三人いた兵士たちは、押し入った部屋の中にラダの姿を認めると互いに頷きあい、全員でラダを取り囲んだ。
「……何事ですか」
あくまで無表情を顔に貼り付けて淡々と問う青年に対し、兵士の一人が威張ったような声を張り上げた。
「エテルベリ市参事会の決定により、我々都市警備隊は、本日この界隈にあるすべての家屋の立ち入り検査をしている。また、界隈にいた者は、すべて呪術師や黒魔術師などと名乗る怪しげな詐欺師及びその顧客と見なし、男女や氏素性の別なく連行して取り調べよとの命も受けている」
兵士の手には、羊皮紙の令状らしきものがある。
この国の政治制度について詳しくは知らない。だが、滅茶苦茶だと志穂は思った。
確かにこの裏町は、ラダの話を聞く限り犯罪者めいた人々の集まるところではあるらしい。けれどもラダは他の人たちとは違って、詐欺師ではない、本物の力を持つ術士だ。第一、有無を言わさず連行しようだなんて、いかにも横暴な気がする。
ラダは一瞬口を開きかけたが、すぐに諦めたように閉ざしてしまった。何を反論しても無駄だと思ったのかもしれない。
兵士たちが黙り込んだ青年の腕を両側から捕らえる。
それを傍から見ながら、志穂は焦った。
どうにかして助けなければ、と思い、けれども今回はどうすればいいのか上手い方法をとっさに思いつけないまま、連行されるラダの後を追いかける。
しかしそのとき、青年は横目でちらりと志穂に視線を送った。
まるで、自分は大丈夫だから逸らないように、と少女を制するように。
ラダは手に縄をかけられ、裏町を出て路地を引き回された末、街の川岸寄りにある大きな建物の中に連れて行かれた。どこか陰気な雰囲気の漂うそこは、警備隊の詰め所のような場所か、でなければ牢獄だ。
ここで志穂はラダの姿を見失う羽目になった。彼の手から奪われた白い杖は、兵士の一人によって物置のような一室に放り込まれたのに、ラダ本人は兵士たちに小突かれながらどこか離れた別の部屋に連れて行かれたからだ。
志穂はどうにかできる限り彼の後を追いかけようとしたが、地下へと続く階段のところで杖から離れられる距離の限界がきてしまった。
(ああ、もう)
そこで志穂は杖のところに舞い戻り、自分で杖を抱えて移動できないか試みた。
けれども、杖自体は無造作に物置の片隅に放置されているのだが、部屋の扉は閉ざされて鍵がかけられている。窓も見当たらない。志穂自身は難なく扉や壁をすり抜けることができても、実体ある杖と一緒にすり抜けることは不可能なのだ。
それでも何度か杖と一緒に壁抜けができないか挑戦した後、志穂は諦めた。よく考えれば、杖を抱えて移動できてもそこを誰かに見られれば、ひとりでにふわふわ浮いて移動する怪しい杖の持ち主、とラダが見られる可能性もある。
ラダは今頃地下牢にでも入れられているのだろうか。刑事ドラマの容疑者のように取り調べを受けているのかもしれない。あまり手荒な真似をされていないと良いのだが、先刻の兵士たちの扱いからして既に乱暴だった。
(……どうしよう)
志穂は杖の傍で膝を抱えて途方に暮れた。途方に暮れながら、今いる場所を見回す。
暗い物置の中には、ごちゃごちゃとした物品を詰め込んだ木箱がいくつも置かれていた。
これらも別のところからの押収品なのか、不気味な顔をした人形や動物の骨らしきもの、歪で濁ったガラス玉など呪術を連想できる物品から、ただの木皿や匙、ヒビの入った花瓶など生活用品にしか見えないものまで、無分別に詰め込まれている。
志穂がしばらく手持ち無沙汰にそれらの押収品を眺めていると、不意に物置の扉の鍵が外から開けられ、中に人が入ってきた。
──危うく、また悲鳴を上げるところだった。
とっさに傍にあるラダの杖を片手で掴まなければ、そのひんやりとした感触がわずかな冷静さを取り戻してくれなければ、志穂は恐怖の悲鳴を飲み込むことができなかっただろう。
物置に入ってきた人間は三人いた。
一人はランプを手にした警備隊の兵士。何か不安げな顔をしている。
もう一人も兵士のようだったが、身に付けている鎧や剣は警備隊の方より立派で、目つきも鋭い。
そして最後の一人の金髪の少年は、ランプの明かりに照らされた物置を見回しながら、木箱の一つに近付いて見下ろした。
「……ふうん、これが押収した品なの?」
そう呟いて、少年は──この国の王子リステスは、木箱の中から不気味な顔の人形を摘み出した。そして人形の腕をぶらぶらとさせながら、つまらなそうな顔をする。
「あんまり面白そうな物はないね」
「かの裏町の連中は、占い師だの呪術師だのと名乗っておりますが、実際にはただの詐欺師や盗賊、故買屋のような輩ばかりですので……その、殿下のご興味を引くほどの物は……」
と、遠慮がちに答えるのは警備隊の兵士である。
「そうなんだ。そういう怪しい人たちの持ち物なら、死んでるのに生きてる動物とか、恐ろしい魔物の標本とか、呪われた魔術書とか、あると思ったのにな」
訳の分からないことを言いながら、リステスは人形を放り投げて木箱から視線を上げた。
そして、少し離れた物置の隅で硬直している志穂の方に目を留めると、
「あ」
と、嬉しそうに声を上げた。
志穂はびくりと肩を震わせて、けれども身を翻して壁の向こうに逃げ出す勇気も出ないまま、杖を掴む手に力を込めた。そうして物に縋らなければ、また先日のような恐慌に陥ってしまいそうだった。
自分が今、どんな表情をしているか確かめることはできない。死霊は鏡に映らないからだ。けれども魂だけの存在である死霊の意思と感情がそのまま姿に影響を及ぼすのなら、きっとひどく青ざめた顔をしているはずだ。
「君、昨日も会ったね」
それなのに、リステスという少年は脳天気なほどに明るい声と表情で話しかけてきた。
この上なく美しい顔立ちがにっこりと微笑む様は、彼が彫像ではなく確かに血の通った人間なのだということを教えてくれる、魅力的なものだ。魂の底から湧き上がるようなこの恐怖がなければ、少女もきっと見惚れていたかもしれない。しかし現実には、ただ恐怖を深めただけだった。
少年の肩越しに、警備隊の兵士が戸惑った顔をしているのが見える。
彼には志穂の姿が見えないのだろうか、と恐怖を紛らわそうとする頭でそう考える。なら、彼の目には、リステスが突然何もないところに話しかけているように見えるはずだ。戸惑うのも無理はない。
もう一人の兵士が──もしかしたら昨日少年が連れていた衛兵の一人かもしれない──諦めたように小さく首を振り、警備隊の兵士を促して物置から出て行った。
物置には、金髪の少年王子と志穂だけが残された。
「ねえ。君、あの山の村にいた子だろう」
兵士たちが出て行ったことにも気付かない様子で、リステスは朗らかに言った。
「アーフェル人じゃないし、あの山の人たちとも違う感じの子だったから、印象に残ってたんだ。黒い髪も綺麗だったしね。一緒に焼いちゃったの、後でちょっと惜しかったなって思ってたくらいだよ。ねえ、君、どこから来た子なの?」
志穂は目を見開いてまじまじと彼を見つめた。
二つ年上の少年にしてはどこか無邪気に過ぎるような口調は、この際どうでもいい。けれども彼はあの山里の出来事を覚えているようなのに、自分が少女に対して何をしたか忘れているわけではないだろうに──いっそ無神経なほどのこの言動は一体何なのか。
「あなた、は……」
志穂は恐怖に萎縮する心を叱咤し、どうにか言葉を絞り出した。
「あの時、あそこにいた、……聖ユオル騎士団、の」
「うん。僕が団長だよ」
「……あなたたちは、どうして、あの村を」
「どうして、って?」
リステスは不思議そうに目を瞬かせた。
「決まってるだろう? もちろん、彼らが長年アーフェルに従わなかったからさ。王直々の命令で、聖ユオル騎士団が彼らを粛清することになったんだ」
──何が決まっているというのだろう。
祭壇の上で立ち尽くしていた志穂を囲み、歓喜の声を上げていたあの人々の中には、老人も子供もいた。けれども皆、無惨に命を奪われ、村は焼き払われた。王の命令だからといって、どうしてあんな真似が許される。
どうして──そんなことで、命を奪われなくてはならない。
「──じゃあ、どうして、私を殺したの!?」
志穂は抑えきれずに堪えきれずに叫んだ。
そうして、リステスの青い目を睨み付ける。湧き上がる怒りが恐怖を抑えた。
「私は、私は、助けてほしかったのに! 痛くて、死にたくなくて、──なのに、あなたが!」
それ以上言葉を続けられず、志穂は唇をわななかせた。
しかし志穂の叫びにも怒りを込めた眼差しにも、リステスは顔色一つ変えなかった。昨日、男に刃を向けられ憎悪に満ちた言葉をぶつけられて尚、平然としていた時のように。
少年はしばらく黙って志穂を見つめた後、やがて首を傾げた。
「もしかして、剣で刺したのが駄目だったのかな?」
意味を理解しかねる言葉を呟いて、彼は一人で納得したように頷いた。
「そうか、それならごめんね。君が苦しそうにしてたから、なるべく早く楽にしてあげないとって思ったんだけど。確かに剣で刺されるのも痛いからなあ。でも、あの時はあれが一番手っ取り早かったし」
少年の表情や声音は奇妙なまでに真面目ぶっていて、悪趣味な冗談を言っている雰囲気は感じられない。だからこそ得体の知れない気持ち悪さがあった。
志穂は絶句しかけたが、それでもなんとか必死に言い募ろうとした。
「そ──ういう、こと、じゃなくてっ……わ、私……人の、命、を──」
「命」
リステスは、今までで一番不思議そうに呟いた。
「みんな、命は大切だって言うね。そのくせ命を大切にする人は少ないんだ。……ねえ、でも、君は命がなくなってもここにいるじゃないか。それじゃあ駄目なの?」
ぞっとした。
この少年は、死霊と生きた人間の区別もつかないのだろうか。
(──おかしい。この人は、おかしい)
昨日もそうだった。彼は自分を暗殺しようとした男の憎悪に対して、何の良心の呵責も感じていない様子だった。
きっと志穂や、虐殺された〈山の民〉の人々に対してもそうなのだ。彼は志穂たちに対して、『悪いこと』をしたとは微塵も思っていない──だから、こんな言葉を吐けるのだ。
「ところでその杖、君の大切なものなの? ずっと抱きしめてるけど」
少年に指摘され、そこで志穂は、先程までそっと掴んでいただけだったラダの白い杖を、自分がいつの間にか腕の中に引き寄せ固く抱きしめていることに気が付いた。
リステスは興味深そうに志穂の傍へと近付いてくる。金髪が揺れ、あの白い顔が間近に迫ってくる。
来ないで、と叫ぼうとして叫べなかった。
恐怖に気を取られた隙をつくように、リステスは無造作に手を伸ばすと、志穂の腕の中から杖を奪い取った。そして杖をランプの明かりにかざす。
「ふうん。結構しっかりした作りの杖なんだね。材質は……何だろう、これ。石じゃない。白く塗った木でもない。象牙みたいな……ううん」
ふと、リステスの顔から表情が抜け落ちた。
彫像のような顔が、その一瞬、本当に彫像になったかのように志穂には見えた。
彼は無表情でしばらく考える素振りを見せた後、白い杖をくるりと回して、その先端を床にこつんと打ち付けた。そして、
「決めた、この杖は今日から僕のものだよ」
気味が悪いほどの無邪気な笑顔をぱっと浮かべて、彼はそう言い切った。
*
暗くて異臭のする地下牢に押し込められること丸二日、罰金という名の賄賂を支払って、ようやくラダは釈放された。
強引に連れてこられた割にはろくな尋問もされず、身分証明を求められたりもしなかった。不幸中の幸い、というよりは、あちらも元々本気ではなかったということなのだろう。悪趣味な示威行為に巻き込まれただけなのだ。
これで奪われたものがすべて返ってきてくれたなら、今回の件は通り雨に降られたようなものと思うこともできたのだが──。
慣れ親しんだ感触のない右手を握りしめ、傍に黒髪の少女の姿がないことを確かめて、ため息を吐く。
釈放されたその足でラダが向かったのは裏町だった。
先日の騒動が尾を引いているのか、界隈はひっそりと静まり返っている。山羊の剥製を飾っていた店の前には、乱暴に扱われて根元から折れたと思しき山羊の角だけがぽつんと一つ落ちていた。
兵士に引っ立てられた現場であるケル婆の家に行くと、家主の老婆が平然とした顔で出迎えてくれた。留守中に家捜しされたことなど、気にしてもいないようだ。
「災難だったね、ラダ」
老婆は意地悪い笑みを浮かべながら言った。
「市の連中は時々ああやって、この裏町みたいに犯罪者のたむろする界隈を適当に漁っていくのさ。見せしめと、警備隊がちゃんと治安維持のために働いているってことを一般市民に知らしめるためにね。もうそろそろこの裏町の番だろうとは思ってたが、まさかちょうどお前がやってきた時にとはねえ」
「……俺が連れて行かれるのを隠れて見てたんだろう?」
「野暮用から戻ってきたらちょうど警備隊の連中を見かけてね。隠れないわけにはいかないじゃないか」
そんなことを臆面も無く言いながらも、老婆はしっかりと先日の仕事分の報酬を渡してくれた。
小さな革袋の中に銀貨が十数枚、さらに金貨まで一枚混ざっている。この袋一つで、普通の市民の一家がしばらく遊んで暮らせるほどだ。仲介料を引いた上でこの額なら、依頼人が貴族とはいえ随分高額な報酬だった。
「……随分吹っかけたんだな」
「そりゃあもう。泣いて感謝されたさ」
いひひと笑う老婆に、口を出すような真似はしない。氏素性の不確かな青年には、彼女のような仲介人がいなければろくな仕事も得ることができないのだから。
いつもなら報酬を受け取った後すぐに立ち去るものなのだが、今回はもう一つ用があった。
「ケル婆。一つ頼みがある」
「何だい、珍しい」
「……警備隊に杖を奪われたままなんだ」
淡々とした口調に、苦いものが混じる。
「おやまあ。釈放される時に返してはもらえなかったのかい」
「抗議はしたが聞き入れてもらえなかった。あまり食いついて怪しまれるわけにもいかない。だからそっちから手を回してほしいんだが」
「警備隊にかい」
「……この家の物品があまり押収された様子がないのは、手を抜くよう頼んだからだろう」
まあね、と老婆は肩をすくめると、手のひらを青年に向けた。
「けれどもそう強い繋がりがあるわけじゃあない。金はもらうよ」
ラダは無言で、先程受け取った革袋の中から金貨一枚を取り出して老婆に渡した。旅費にして何ヶ月分になるのかと考えると少し惜しいが、老婆は差し出す見返りが大きいほど頼もしく応えてくれる類の人物だと、数年の付き合いで熟知している。
「確かに。しばらく待っておいで、すぐに取り返してあげるよ」
老婆はにんまりと笑みながら請け合ってくれた。
方々に伝手のある彼女がそう言うなら間違いはないだろう。
(だが……シホには心配をかけただろうな)
杖から遠く離れられないはずの彼女だ。あの牢獄の周辺に彼女の話し相手となるような死霊がいるとも思えないし、丸二日も一人にされてはさぞかし不安に違いない。
大人しいまれびとの少女の姿を思い浮かべながら、ラダは杖を取り戻した後に志穂に対してどう謝罪するか、その言葉を今から考えることにした。
──押収品の杖が王子リステスによって持ち去られたという事実をラダが知るのは、数日後のことだった。
*
あの後、リステスは警備隊に話を通して、本当にラダの白い杖を自分の物にしてしまった。そして彼は杖を抱えてエテルベリを離れ、少し北にあるという騎士団の居城へと出発したのだ。
否応なく、志穂もその後を文字通り引きずられるように連れて行かれることになる。
捕まったラダがその後どうなったか、確かめることも叶わぬまま。
志穂はラダの白い杖から遠く離れることができない。離れようとしても進めず、逆に杖の行く先に引きずられてしまう。この時ほど、その枷を忌々しく感じたことはない。
それでも、ラダの傍にいた時のようにリステスの傍近くにいることは嫌で、当初志穂は杖から離れられる限界ぎりぎりのところまで遠ざかろうとした。
けれどもあの王子は、
「どうしてそんなに離れたところにいるの? 僕の傍においでよ」
などと言って、自分の提案が断られることなど夢にも思っていないかのような笑顔で志穂を手招くのだ。
(……本当に、何なんだろう、この人は)
精一杯睨み付けても、少年は気にした様子がない。
むしろ彼の目の届くところにいた方が、声をかけられる機会が減るので、仕方なく志穂は恐怖を呑み込んで彼の傍へ近付いた。死霊が見えるからといって死霊に干渉する力があるわけではない、とラダは言っていたし、少なくとも危害を加えられることはないはずだと信じたかった。
少年の隙を見て杖を取り返せないか、という思惑もあったにはあったのだが、それは叶わなかった。
数日の旅の間、彼はまったく付け入る隙を志穂に対して見せなかった。
さすがに王子だからだろうか。街道を北の方角へ進むリステスは馬車に乗り、さらにその周りを騎馬兵たちに囲まれていた。そして夜は通りがかった街の一番大きな屋敷に泊まり、歓待を受けていた。
「殿下をこうして我が屋敷に迎え入れられることは、まことに光栄の至りで……」
領主のような身分らしい、年輩の男のへりくだった口上を、リステスは興味なさげに聞き過ごしていたものだ。
その間も、彼は白い杖を腕に抱えて離さない。
食事の際などには必ず傍にいる侍従に杖を預け、決して手放さないようきつく言いつけていた。それ以外の時には常に腕に抱え込み、志穂に向かってにこりと微笑むのだ。
「ひんやりとしていい杖だね、これ。気に入ったよ」
それはある人の母親の形見なのだ、と言っても、彼は決して意に介さないだろう。その程度のことは志穂にも想像がついた。
(でも、変なのは、この人だけじゃない……)
リステスが、普通の人間の目には見えないはずの志穂に堂々と話しかけていても。
まるでお気に入りの人形を連れ歩く幼児のように、白い杖を抱えて歩いていても。
周囲の衛兵や侍従たちは決して何も言わなかった。彼らは慣れたような、諦めたような目をして、黙々と王子の下知に従っているのだ。
それが志穂にはひどく奇妙な光景に見えた。いくら王子だからといって、諫める人間の一人や二人くらいいてもいいものだろうに。
「王都やこの辺りでは、あんまり黒髪の人は見かけないんだけど、君の髪の色は綺麗な黒だね」
一体何が楽しいのか、リステスはこちらが黙り込んでいてもお構いなしに話しかけてくる。
そしてしばらく飽きるまで一人で取り留めのないことを喋っているのだ。
「アーフェルでも西や南の沿岸地方に行くと黒髪が多くなるらしいし、僕の母上は南方の国から嫁いできたそうだから、とても綺麗な黒髪だったけど。でも君は母上の国の人たちともまた顔立ちが違うね。あの山の人たちも髪は黒かったけど、そんなに目の色は濃くなかったし……」
数日間、恐怖を堪え忍んで口をつぐみ、少年の言葉を聞き流し続けた成果といえば、彼の顔を見たり声を聞いたりして生じる恐怖を呑み込むのが若干上手くなった、ということくらいである。
そうして無為に時は過ぎ、杖を取り返す隙をどうしても見つけられないまま──そして力ずくで奪い返そうという勇気も出ないまま──リステス一行は目的地へと辿り着いてしまった。
「見えた。ほら、あれが僕の住んでる城だよ」
馬車の小窓から見える風景を指さして、リステスは言った。
「ヴィルフォート城っていう名前なんだ。気に入ってくれるといいんだけどな」
その『城』は、小高い丘の上に築かれた灰色の城塞のようだった。
丘の周囲には深い堀が巡らされ、その向こうに背の高い城壁がある。
二重に築かれた壁を越えた先、丘の頂上に、灰色がかった石造りの堅固な城がそびえていた。
リステスの乗った馬車は堀に渡された跳ね橋を通り、衛兵たちの敬礼を受けながら、壁に設けられた城門へ入る。
城門の上部には、巨大な紋章の彫刻が誇らしげに掲げられていた。それは、ある生き物の姿を図案化したもののようだった。馬車はその下を潜り抜けて丘の上へと向かった。
槍に貫かれ、血を流しながら横たわる竜の紋章の下を。




