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第七話 王子リステス

 結局あの後は、泣きじゃくりながらラダに手を引かれて〈水煙亭〉に戻った。

 ……正直なところ記憶は曖昧だが、多分そのはずだ、と志穂は思う。

 一晩経つと、少女の頭も冷静になり、昨夜の自分の醜態を思い出して顔が赤くなったり青くなったりした。

(……私、なんであんなことしちゃったんだろう……)

 十四歳にもなって他人に、しかも男の人に対してあんな風に泣きつくなんて。ラダもさぞかし呆れたことだろう。いや、彼は優しいから、せいぜい子供をあやすような気持ちで抱きしめてくれたのかもしれないが。

 いずれにせよ、一言謝らなければ気が済まない。

 しかし志穂が翌朝部屋で目覚めた時──我に返った時、と言うべきだろうか──ラダは部屋にいなかった。白い杖も見当たらないから、そう離れたところにいるわけではないようだ。下で朝食を取っているのかもしれない。

 食堂に降りてみると、青年は予想通りスープ皿の前に座っていた。だが既に食事は終えたようで、皿の中身は綺麗に空だ。

 心なしか寛いだ様子で椅子の背に身を預けながら、ラダはヘイゼルと会話していた。

「……じゃ、今日発つの?」

 女主人は残念そうな顔つきだった。

「もう少しゆっくりしていけばいいのに。宿代だっておまけして……」

「路銀は稼いだし、買い出しもした。それに、行くところがある」

「そう……。なら仕方ないわね。また顔を出してちょうだい、今度は近いうちにね」 

 ラダははっきりとした返答をしなかった。世話になっているヘイゼルの手前、彼女の言葉に頷いてあげたいが、先の見通しが完璧ではないのにそう安請け合いはできない。そんな風に大真面目に考えているようだ。

 ヘイゼルはそんな彼を見て、やれやれと肩をすくめながら仕事に戻っていった。

「おや、お嬢さんたちはもう行くのかい」

 横から現れたジェフに声を掛けられ、志穂もまた首を縦に振るでもなく横に傾げるでもない、非常に中途半端な仕草をした。

「ラダはそういうつもりみたい、です」

 志穂をなるべく早く〈果て〉へと連れて行くためだろうか。早く志穂に杖から離れてもらいたいという気持ちがあるかもしれないにせよ、有り難いような、申し訳ないような気もする。しかしラダにはラダなりの考えがあるかもしれないから、余計なことは言わない方がいいだろうと思った。

「ジェフさん、短い間でしたけど、お世話になりました」

 志穂は丁寧に頭を下げた。〈果て〉に待っているのが希望でも絶望でも、もうこの街に帰ってくる機会はないだろう。なら、ジェフと話すのもこれっきりになる。

「どういたしまして。……俺たちは生きてる奴らよりあやふやな存在だから、また会おう、とは言わないけどさ」

 三十路に届かない容貌のまま十七年を死霊として過ごした男性は、そう言って微笑んだ。

「元気でな、お嬢さん」

「はい。ありがとうございます」

 彼への感謝の意を表すように、志穂は精一杯の笑顔で応えた。

 

 

 朝食を済ませた後、ラダはエテルベリの街に来る以前よりも少し膨らんだ荷物を背負い、白い杖を片手に〈水煙亭〉を出た。いささか慌ただしい旅立ちに、志穂は昨日のことについて謝りそこねてしまった。

 まずは裏町に寄って、ケル婆というあの怪しげな老婆から、この間の悪霊退治の報酬を貰う。それから街の西側の橋を渡って街道に出る、とラダは今日の予定を話してくれた。

 先日も通り抜けた、しかしちっとも道筋を覚えることができなかった複雑な道程を、青年の後について進んでいく。あの時は宵闇に覆い隠されていた路地も今は淡い日の光に照らされて、漆喰が剥がれかけた壁の様子もよく見える。

 入り組んだ路地を抜け、一旦少し広い通りに出ようとしたラダの足が、その入り口付近のところで訝しげに止まった。 

「どうしたの?」

 志穂は青年の背中からひょいと顔を出し、その向こうにあるはずの通りを見渡した。

 通りはざわめく群衆で埋め尽くされていた。

 まるで街に来た時に見た大通りの光景のようだったが、ここは大通りではないはずだ。しかしそれと見紛うくらいの人出だった。違うのは道の広さと、馬車や荷車の姿がないことくらいだろうか。

 群衆の顔ぶれは老若男女様々で、身なりの良い街の人間もいれば、ラダのように継ぎ当てだらけの服を着た旅人らしい者もいる。だが、しいて言うなら、志穂よりも少し年上くらいの若い娘が多いようだ。

 人々は目に好奇の色や、あるいはどこか恐れるような色を浮かべ、娘たちの多くは憧れと興奮の色を浮かべて、一様に同じ方向を向いている。

(何だろう。アイドルの追っかけにしては、変な感じだし)

 そもそも昔のヨーロッパのようなこの国に、アイドルなどという存在がいるとも思えない。では何だろう、と志穂は興味を覚えて、群衆の肩越しに様子を窺った。もちろん少女の低めの身長では足りないので、その爪先は路地の石畳からは少し──いや大分離れていたが。

 衆目を集めているのは、十四の志穂よりも一つか二つばかり年上に見える一人の少年のようだ。

 一人の少年といっても、その周りにはお付きの者らしい甲冑を着込んだ衛兵が何人もいて、彼を取り巻く群衆に鋭い目線を向けている。

 しかし少年本人は群衆など気にした様子もなく、悠然とした表情で通りを歩いている。時折物珍しそうに、通りの傍に立ち並ぶ家並みを眺める素振りも見せていた。

 やがて少年と衛兵たちは、志穂とラダがいる路地の入り口の近くにまでやってきた。

 若い娘たちが憧れの眼差しを浮かべて彼を見つめているのも無理もない。それほどに、その少年は美しい容貌をしていた。

 少年が足を動かす度、輝く月の光にも似た金の髪が揺れてきらめいている。

 まるで精緻な彫像なような、造形美という言葉は彼のためにあるような、

 

 ──忘れもしない、あの、顔。

 

 存在しない心臓がどくりと鳴る。

 志穂は愕然と唇をわななかせた。そこから言葉は出てこなかった。

 白銀の光。

 体を貫いた衝撃。

 いつかのおぞましい記憶が浮かんでは消える。

 どうしようもなく吐き気がして口元を抑えた。それなのに実際に吐いて楽になることもできない。

「……シホ? どうした」

 少女の異常に気付いたのか、ラダが小声で怪訝そうに彼女の名を呼ぶ。群衆のざわめきに紛れての小声とはいえ、志穂と話す際は周囲に人がいないか気にしていた青年が、人前で話しかけてくるのは相当に珍しいことだ。

 だが、志穂はその気遣いに応じられなかった。青ざめた顔でただ震えながら、それでも美しい少年から目を離すことができなかったのだ。

 ──不意に、群衆の中から男が躍り出た。

 群衆の多くを占める市民たちと比べればややみすぼらしい身なりの、しかし人ごみに紛れればあっという間に見失ってしまいそうな若い男だ。

 身を低くして衛兵たちの輪の隙間に突進したその男は、抜き身の短剣を手にしていた。

「王子リステス!」

 憎悪に満ちた声とともに投擲された刃は、衛兵たちの合間を通り抜け、少年の胸元めがけて虚空を突き進む。

 しかし、その刃が少年本人に届くことはなかった。少年は素早く抜いた腰の剣で、短剣を叩き落としたからだ。目にもとまらぬような早業だった。

 衛兵の一人が顔色を失望に塗り替えた男の腕を、もう一人が肩を掴み、二人がかりで石畳の上に押し倒す。

 群衆は一瞬静まり返り、すぐに騒然となった。

 金髪の少年は目の前で起こった事態に対し、長い睫毛を動かして目を瞬かせていたが、やがて衛兵たちに抑え込まれている男の傍へ歩み寄った。

「殿下、お下がりください」

 衛兵たちの忠告を聞いているのかいないのか、少年は抜き身の剣を手にしたまま男を見下ろし、不思議そうに小首を傾げた。

「僕を殺そうとしたの?」

 自分を憎々しげに見つめている男への問いとしては、どこか間の抜けた言葉だった。

「お前は俺たちの村を焼いた!」

 見下ろされた男は声を荒げた。黙らせようとした衛兵が彼の後頭部を掴み、石畳に顔を押し付けたが、男は口を動かすのを止めない。

「何が反乱だ……俺たちはただ、領主の横暴を訴え出ただけだ! それを、お前ら騎士団の連中は、村も畑も焼き尽くし、女子供までも皆殺しにしやがった……!」

 血を吐くような叫びに、しかし金髪の少年は小首を傾げたまま、顔色一つ変えなかった。

「どの村の話か、よく分からないなあ」

 呑気な口調で平然とそう言うと、彼はこう続けた。

「でも、そうか。生き残りがいたなんて、それは申し訳ないことをしたな。ちゃんと全員殺せって、いつも命令してるのに」

 高く澄んだ声で紡がれる残酷な言葉が、通りに響き渡る。

 騒然としていた群衆が再び静かになった。何か得体の知れないものを見聞きしてしまったかのような、そんな不安と戸惑いの色が居並ぶ顔に広がっていく。

 男は血の混じった唾を吐き捨てた。

「……狂人め、呪われろ! 竜に喰い殺されてしまえ!」

「それは無理だよ。きっとね」

 そう言うと、少年は衛兵たちに目配せした。衛兵たちは心得たように頷くと、何人かが男を引きずってどこか別の場所へ連れていこうとした。だが、彼らの周りには依然多くの人々が集まっていて、衛兵たちの行く手を阻んでいた。

「散れ、道を開けろ! 見世物ではないのだぞ」

 衛兵の一人が発した怒声に、進行方向にいる人々は慌てて道を開けようとしたが、何分人が多いのであまりスムーズにはいかない。

 苛立った衛兵が再び口を開けようとしたその隙に、黙って引きずられていた男が動いた。

 彼は体を捻って衛兵たちの拘束を振り払うと、懐から鋭利なナイフを取り出した。そして再び、金髪の少年の方へと駆け出したのだ。

「殿下!」

 衛兵たちが慌ててまた男を取り抑えようとするが、今度は男は上手くその手をかわして少年に肉薄した。

 少年の細い体に向けて突き出されるナイフ。

 けれどもやはり、男の望み通りにその刃が少年本人に届くことはなかった。ほんのわずかに上体を反らしてナイフを避けた少年は、バランスを崩した男に向けて、抜き身の剣を振り抜く。

 白銀に光る刃が一息に男の胸を切り裂いた。

 噴き出した血が少年の端整な顔を赤く染め、剣先から滴り落ちた血が石畳に跳ねる。一瞬遅れて男の体がゆっくり傾き、石畳の上へと倒れ込んだ。

 目を見開いたたまま絶命したその男の顔は、最後まで憎悪に満ちていた。

「ひ……」 

 そこでようやく、群衆からひきつったような呻き声が上がった。

 続いて、若い娘たちの金切り声。中にはほとんど失神しかけている者もいる。怯えたようにその場から離れようとして、後ろにいた人物とぶつかって転ぶ者もいた。

 少年はそんな周囲の騒ぎを、不思議そうにぐるりと見回した。

 深い海のような青い目が虚空を辿って、ふと志穂の方へ向けられる。一度瞬きした後で、彼は血の飛び散った美しい顔に微笑みを浮かべた。赤い血に染められた剣を手にしたまま。

 ──そう、錯覚でなければ、彼は確かに志穂を見て微笑んだ。

 そして、こう言ったのだ。

 

「あれ。また、会ったね」


 志穂は悲鳴を上げた。


       *


 魂を震わせるような甲高い少女の悲鳴に、ラダは思わず目を見開いた。

 実体のない死霊の叫び。

 にも関わらず、路地の壁がわずかに振動している。

 目の前の群衆の中にも、何かを感じ取ったのか訝しげに眉をひそめて周囲を見回している者がいた。驚いたように飛び上がっているのは、群衆に紛れ込んでいた死霊たちだろう。

 実体に影響を及ぼすほどの恐怖に満ちた悲鳴を上げながら、志穂は空中で踵を返し、路地の奥へと飛び去っていった。まるで、こちらを不思議そうに見つめている金髪の少年の視線から逃げるように。

 王子リステス、と彼は呼ばれていた。

 今のアーフェル国王には、男子は一人しかいないと聞く。──そのたった一人の王子は、現在王国で一番歴史ある騎士団の長を務めているのだとも。

(……くそ)

 ラダは小さく舌打ちすると、迷わず王子や群衆に背を向け、志穂を追いかけた。

 彼女の様子がおかしいと気付いた時すぐに、あの場から立ち去るべきだった。そんな後悔が胸を掠め、白い杖を握る手に力が入る。

 路地を駆け、角を幾度も曲がり、空気を震わせる振動の源を辿っていく。

 しばらくして、ラダは入り組んだ路地の片隅にある人気のない袋小路で少女を見つけた。

 まれびとの少女はその場にうずくまり、小さな肩を抱いて震えていた。まるで寄る辺のない幼い子供のように。

「シホ」

 抑えた声で名を呼びながら、そっと歩み寄り、彼女の肩に手を伸ばそうとする。

 だが青年の指先が触れる前に、少女はそれをはね除けた。

「いや! 殺さないで!」

 黒髪を振り乱しながらそう喚く少女は、明らかに平静を失っている。見開かれた黒い目は焦点が合わず、どこか虚ろで、青年をはっきりと捉えているとは思えなかった。

「殺さないで! ころさないで! たすけて、おねがい、しにたくない……!」

一瞬呆然と立ち尽くしたラダの前で、少女の姿は変貌しつつあった。

 胸に腕に、幾本もの矢が突き刺さっている。黒く丈の短い異国の服が腹部から裂かれ、そこから夥しい血が流れ出しはじめる。幼さの残る顔には血が飛び散り、唇は歪み、恐怖にひきつっていた。

 青年は思わず息を止めた。

 これはきっと、彼女の死の間際の姿だ。騎士団に無惨に殺された、その時の記憶が投影されているのだろう。

 あまりに、惨い。

 ──ラダが〈山の民〉の里を訪れた時、既に騎士団は山里を破壊し尽くして立ち去った後だった。

 淀んだ空気に漂う異臭は凄まじく、あちこちから立ち上る黒ずんだ煙が空を汚していた。広場の地面は〈山の民〉の塚と化していて、その盛り上がった土の表面を少し払っただけで、焼け焦げた誰かの爪先が露わになった。

 そんな廃墟の里のそこかしこに、殺された〈山の民〉の霊がいた。

 嘆き悲しむ〈山の民〉の霊たちの言葉に耳を傾け、宥め、諭し、一族の責務という言葉を振りかざして、ラダはどうにか彼ら全員を沖つ国へと船出させた。

 そして埋められず、燃やされることもなく放置されていた人の死体の断片や燃え滓に混じっていた骨の欠片をも土に埋め直した。それはラダのさほど長くもない生涯の中でも一二を争うほどの陰鬱な作業だった。

 作業を終えた後、彼は心身ともに疲れ果て、神殿跡の祭壇の隅に腰掛けてしばらく動けないでいた。そこに彼女が現れたのだ。

 志穂。

 黒髪に黒い瞳を持つ、まれびとの娘。

 ……まれびとの召喚は、〈山の民〉にとって、何百年もの時を経て擦り切れた希望を曖昧な伝承に託して蘇らせようとする行為だった。不確かなその行為のために彼らは多大な労力を払った。彼らはそれほど追い詰められていた。ラダはそれを知っている。手段は違えど、同じ船守の一族の末裔として、彼もまた同じ希望を抱えていたのだから。

 けれどもそうして呼ばれた少女は、ごく普通の少女だった。

 大人しく素直で、そのくせ時折驚かされるほどの行動力を見せる。知りたがりで、熱心に人の話に耳を傾ける。時に怒り、時に微笑み、時に泣く。

 そんな、眩しいくらいに普通の少女。

 けれども彼女は呼ばれ、そしてそのせいで死んだ。召喚さえされなければ、彼女は今でも故郷で平穏な暮らしを送っていたはずだ。

 彼女には何の罪科もない。

 ──罪科があるとしたらまれびとを求めた青年たちの方であり、この歪な世界の方だ。それを自覚しても尚、青年は擦り切れた希望を捨てきれずにいる。

「シホ」

 ラダは少女の傍に跪くと、彼女の名を繰り返し呼んだ。

 少女は既に青年のことすら認識していないのか、凄惨な姿のまま、ただただ泣き喚いている。彼女が恐怖に満ちた声を上げる度、周囲の空気が震え、間近にいる青年の耳の奥は痛みを訴えた。 

「シホ。落ち着いて、俺の言葉を聞くんだ。ここは山里じゃない。王子も騎士団もいない。お前はもう誰かに殺されることはない。だから、シホ──」

 言葉を尽くしても、恐怖に囚われた志穂には届かない。殺された時の恐怖の記憶のままに少女は叫び続け、その恐怖を押し広げようとしている。

 一際強くなった声の反響が空気を伝い、路地の漆喰の壁にぴしりと亀裂を入れた。

 鈍い痛みとともに、ラダの頬にも一筋の切り傷が走る。じわりと滲み出す黒ずんだ色の血を拭い、彼は焦燥に唇の端を噛んだ。

「シホ! どうかお願いだ、落ち着いてくれ」

 ラダは片手を伸ばして少女の肩を掴み、揺さぶった。それでも少女が正気に返る様子はない。そうしているうちに青年の指先や手の甲にも細かい傷が走り、血が滲んだ。

「シホ──」

「いや!」

 甲高い一声が衝撃波となってラダの体に襲い来る。

 一瞬息ができなくなり、咳き込んだ青年はよろめきながら後ずさった。

(駄目だ。言葉では届かない)

 少女の恐怖は生者と死者の境を越え、実体あるものにまで伝染しようとしている。それは悪霊と呼ばれる、怨念に支配された存在の行いだ。

 このままでは、取り返しのつかないことになりかねない。

(……仕方がない)

 ラダは意を決して立ち上がると、母の形見の杖を振りかざした。少女の身長ほどもある白い杖、その先端を泣き叫ぶ志穂へと向ける。

「竜の船守が一族の末裔、ラダの名において命じる」

 低い声が袋小路に響き渡り、少女の悲鳴とぶつかって弾けた。

 その余波が手の甲の傷を深めるのも無視して、ラダは幼い頃に覚え込んだ古い言葉を続けた。

「キシベシホ、死して尚還らざる死者の魂よ。我が目を見、我が声を聞け。我が僕となり、我が命に従い、その意思のすべてを我に委ねよ」

 悲鳴がぴたりと止む。

 ひきつった表情のまま、ぎこちない仕草で首を動かしこちらを見上げる少女の黒い目を、ラダはその紫の目でまっすぐに見据えた。

 また一つ、彼女に対する負い目が増える。

「──そして眠れ」


       *


 死ぬ間際に見たあの金髪の少年、彼が志穂を見て、あの時と同じように無邪気に微笑んだその姿を見た瞬間、理性などすべてどこかに吹き飛んだ。

 心の、あるいは魂の奥底に閉じ込めて見ないふりをし、忘れたふりをしていた感情のすべてが、奔流となって押し寄せてきたようだった。

 痛みの中で助けを求めた。死にたくないと望んだ。なのに。

 あの微笑みが。

 あの澄んだ声が断ち切ったのだ、少女の命のすべてを。

 

「……それじゃお前、お嬢さんを無理矢理に使役化したってのか?」

 ジェフの声がする。非難するような声色だ。

「一時的な措置だ。……俺だってやりたくてやったわけじゃない。ジェフ、お前も少しは感じたんじゃないのか」

「ああ……そりゃあ、な。きっと街中の死霊が聞いただろうさ、お嬢さんの慟哭を。俺だって、こりゃまずいと思ったよ。だが……なあ……仕方のないことじゃないか。自分を殺したかもしれない連中の親玉と出くわしたら、さ。取り乱すのも当然だろうが。……例え不可抗力でも、心を弄くられるのは嫌なもんだ」

 分かってる、と答えるラダの口調はいつもよりも荒い。

「……それでも、志穂があのまま恐怖に支配され、憎悪と怨念に満ちた存在と化すのを防ぐには、彼女を船出させるか、でなければ魂そのものに干渉するしかなかったんだ」

 そんな会話に、志穂は黙って耳を傾けていた。

 今、彼女の心の海は静かに凪いでいる。確かに感じたあの恐怖、感情の奔流の何もかも、志穂の中から消え失せてしまったようだった。

 視界は闇に覆われている。

 柔らかな手で目隠しをされているようなその暗闇の中、身動きをしようとしても叶わない。だから志穂は、ぼんやりとまどろむような心地の中に身を置くしかない。そう命じられたのだから。

「……お嬢さんを起こしたら、謝っておけよ」

「ああ……」

 それきり、ジェフの声が聞こえなくなる。

 志穂の頬のあたりに誰かの指先が掠めるように触れて、すぐに離れた。そして低い青年の声が命じた。

 

「シホ。起きてくれ」


 ──志穂は我に返った。

 はっと見開いた目の前にラダの彫りの深い顔がある。心配そうな表情が浮かんでいるその白い顔の右頬のあたりに、見覚えのない切り傷の痕跡が見えた。もう血は止まっているようだ。

 しばらくぼんやりと青年の頬を見つめた後、志穂はぎこちなく首を動かして周囲を見回した。

 窓から差し込む陽の光が、居心地の良い清潔な部屋を照らし出している。どうやら志穂たちは〈水煙亭〉の部屋に戻ってきてしまったらしい。志穂は陽光を浴びながら、窓辺の椅子に腰掛けているようだった。

 記憶は曖昧で、頭の中の思考は不明瞭だった。どうして発ったはずのここにいるのかもよく分からない。まるで、あの廃墟で目覚めたばかりの時のように。

 だがはっきりと覚えていることもある。

 王子リステスと呼ばれた、あの美しい金髪の少年。

 彼が見せた微笑みと、囁きと、それらがもたらした恐怖を、志穂は確かに覚えている。

「具合はどうだ?」

 気遣わしげに問われ、志穂は無言でラダを見上げた。

 〈果て〉を目指す旅の道連れ。ただそれだけの関係のはずの青年。

 けれども、そういえば彼は最初に言っていたではないか。──死霊たちを時に使役し、時にその魂を鎮め、あるいは災いを呼び寄せる忌むべきもの、と。 

「ラダ、は……」

 志穂は掠れた言葉を紡いだ。

 一時は確かに恐怖に支配されていた少女の心は、今はとても落ち着いている。少年の顔が脳裏にちらつく度に悪寒を感じるが、取り乱すまではいかない。それがラダのお陰であり、ラダの奇妙な力のせいであることを、説明されずとも志穂は感じ取っていた。

「その気になれば、私を、意のままに操ることができるの?」 

 青年は一瞬黙り込んだ。だが志穂から決して目を逸らすことなく、頷いた。 

「……ああ」

「私の、意志とか、感情とか、みんな消すことができるの……?」

「消すことはできない。ただ一時的に押し込めることはできる。一度死霊術士の支配下におかれた霊は、呪を解かれない限り、その命に逆らうことはできないから」

 いつものように淡々と説明した後で、ラダは目を伏せ頭を垂れた。いつかのように。

「……お前の意志を無視して術で干渉した。すまない」

 そう言ったきり、彼は他の言葉を口にしようとはしなかった。ジェフに対して告げていたような理由すら言わない。それは彼の生真面目さを示すものなのだろう。

 志穂はそんな青年をじっと見つめた。

 ラダは優しい。ラダは親切だ。ラダは真面目で、本当に律儀な人だ。成仏したくないという志穂のわがままを受け入れて、何の役に立つわけでもない幽霊娘が形見の杖に憑いたままなのを許してくれる。故郷を恋しがって子供みたいに泣けば、抱きしめて慰めてくれる。

 紫色の目の青年に対して感じるほのかな好意は、決して嘘偽りではないし、ましてや操られた結果ではない。

(でも、やっぱり違うんだ……)

 彼は生きた人間で、死霊術士。そして志穂は、本来ここにいてはならないはずの異界の死者。

 青年との間に存在する、どうしようもなく深い溝。

 薄々は感じていたそれを、志穂はようやくはっきりと自覚した。

 ──その気になれば自分をどうにでもできる力を持つ相手に対し、どうして対等に向き合うことができるというのだろう。

 二人はお互いに何も言わないまま、沈黙の中で項垂れていた。

 やがてかすかな吐息をつき、先に口を開いたのはラダの方だった。

「……今日のところはゆっくりと休もう。裏町へは明日また行けばいい」

 青年は志穂を安心させるように、ぎこちなく微笑んだ。そして踵を返して部屋から出て行こうとする。

 彼の頬だけでなく、その手にも新しい切り傷の跡があることに、志穂はふと気が付いた。

「ラダ!」

 とっさに声を上げる。

 振り返った青年は、呼び止められたことを意外に感じている素振りだった。

 ──恐怖に支配されていた間のことを志穂はほとんど覚えていない。ラダが普段使わないような術を使わなければいけないほど、切羽詰まった事態が起こっていたのは確かなようだが、それが彼の傷と関係があるのかどうかは分からない。

 けれども、こう言わなければいけないような気がしたのだ。

「……ごめんなさい」

 志穂の言葉を聞いたラダは再び微笑んだ。今度は決してぎこちない作り笑いではない、柔らかな微笑みだった。

 そしてわずかに首を横に振ると、今度こそ部屋の外へ出て行った。

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