第六話 船流し
ラダは眠りが浅い。
少しでも物音がすればすぐに目を覚ますし、就寝時間がどんなに遅くなっても、必ず夜明け前に起きてくる。エテルベリに滞在する間もそれは変わらなかった。
毎日朝早くに起きて街道を歩き続ける過酷な旅から一時的に解放されたのだから、疲労を癒すためにも、もっとゆっくりすればいいのにと志穂は思うのだが。
「あいつは昔からああだよ。夢を見てうなされないだけ、昔よりもましになったかな」
と、〈水煙亭〉の元主人の死霊、ジェフは訳知り顔で言う。
ラダは今、賑やかな食堂の片隅で食事を取っている。旅路の最中にいつも口にしていたような濁った豆のスープではなく、温かそうな湯気の立っている玉葱と人参のスープと、汁物に浸さなくても食べられる硬さの黒パン、ベーコンと炒り卵、それにチーズという、真っ当においしそうな食事だ。
志穂はそれを少し離れたところで眺めながら、同じく食堂で客の応対をしている女主人を見守るジェフと会話を交わしていた。
「ジェフさんは、ラダと昔から知り合いなんですか?」
「ああ、初めて会ってからもう五、六年になるかな。あいつもまだお嬢さんと同じような年頃で、まあ小生意気そうな顔をしていてね」
そう言われて、志穂はふと中学の同級生の男子のことを思い出した。
いつも明るく騒がしい少年、お調子者で妙に女子にちょっかいばかりかける奴、教室の隅で本ばかり読んでいる大人しい子。クラスの中だけでも色々な男子がいたが、ラダにもあんな年頃の時があったのだろうか。
今の落ち着いた感じの青年の姿からすると、正直なところ、あまり想像がつかない。
「船出することが霊にとっても世界にとっても一番良いことなのだ、なんて、顔を合わせる度に説教垂れてね。そのくせ悪夢にうなされると飛び起きて、朝が来るまで部屋の隅で震えてた……俺が心配して話しかけても、うるさい消えろ、って叫んでさ」
志穂は眉をひそめた。
今のラダが悪夢にうなされている様子は見たことがないが、志穂と同じ年頃の少年が悪夢にうなされて震えるというのは、背景に何か複雑な事情が垣間見られるような、詳しく聞くことが躊躇われるような──とりあえずあまり穏やかでない話である。
「そういう調子だから、ヘイゼルも随分心配して、あいつの世話を焼いてたもんだよ。昔から弟が欲しいって言ってたしなあ。あいつがエテルベリにふらふらと現れては、ちょっと滞在してすぐにいなくなる度、またどこかで行き倒れてやしないかって気に揉んでさ。まったく」
そんなことを言いながら腕を組むジェフの視線の先で、食事を終えたラダが立ち上がった。心なしか、いつもより満足そうな横顔をしている気がする。やはり彼も濁ったスープよりは透き通ったおいしそうなスープの方がいいらしい。
「ともあれ、あいつはどうも、人と仲良くするってことが苦手みたいだからね。霊とはいえ、あいつが他人を傍に置くなんて今までなかったことだ。お嬢さん、なるべく仲良くしてやってくれよ」
はい、と志穂は頷いたものの、本当にそうできるのか、あまり自信は持てなかった。
志穂とラダの関係は、あくまで旅の道連れに過ぎない。
青年の言葉を借りれば利害の一致で〈果て〉まで共に行くという契約を交わした、ただそれだけの関係。
そもそもラダが自分のことをどう思っているかも定かではないのだ。
ラダはよく親切にしてくれると思うが、それだって志穂があの山里で殺されたばかりの死霊で、何も知らないまれびとで、しかも年下の少女だからだろうとも思う。
さらに客観的に見れば、志穂の方が彼の杖に勝手に取り憑いた死霊なのである。今のところあまり迷惑はかけていないと思いたいが、成仏を拒んで彼の母の形見に取り憑いた時点で迷惑をかけている気もする。
志穂が今までにラダの役に立ったことといえば、あの白い杖を盗難から取り返したことくらいだろうか。いくらラダ本人が「付いてくるだけでいい」と言っても、なんだか居心地が良くないことには変わりなかった。
今日のラダは、宿の中庭の井戸のところで着替えの服を洗濯をしたり、旅の間に破れた外套の裾を繕ったり、買い出しに行ったりと動き回っていた。
その間、志穂はやはり何もすることがない。
意識すれば物は持てるのだから、部屋での繕い物くらいなら手伝えるかと思ったのだが、ラダの針遣いはとても素早く手慣れていた上に、縫い目も非常に細かく、せいぜい家庭科の教科書通りにしか針と糸を使えない志穂ではとても太刀打ちできそうになかった。何でも、何年も一人で旅暮らしをしていると自然にこういう技が身につくものなのだそうだ。
そんなわけで、志穂は何の役にも立てないまま、ラダが買い出しに行く際に部屋に置いていった白い杖の傍で留守番をしている。とはいえ、
「死霊ってのは暇だろう。額に汗して働く必要もないし、話す相手もそういない」
幸い、ジェフが時々部屋に来て──無論壁や床や扉をすり抜けてだが──話しかけてきてくれたので、それほど退屈することはなかった。
「お嬢さんはどこの国から来たんだい? その顔立ちにその服、アーフェル人じゃないだろう?」
だが、そう訊ねられた時は困った。
日本といっても分からないだろうし、別の世界から来たと言って、すんなり受け入れてくれるとは限らない。『まれびと』という存在を普通に受け止めていたラダは、ジェフやヘイゼルのような街の人々とはかなり毛色の違う人物のようだから尚更である。
「ええと、ここからはずっと離れた国です」
仕方なく曖昧に返答した志穂に、ジェフはさらに問いを重ねることはしなかった。何か事情があるのだろうと察した様子だった。
「あの、それより……ジェフさんは十七年ここで過ごしているんですよね」
良い機会なので、志穂はジェフに死霊として過ごすことがどんな風なのか訊ねることにした。
何せ彼は十七年も霊体の状態で過ごしているのだ。志穂が気付いたこと、ラダが教えてくれたこと以外にも、霊という存在について具体的に知っているかもしれない。
「うーん、十七年っていっても、霊の世界じゃまだまだひよっこみたいなもんだけどね。俺が知ってるだけでも、通りの向こうにある教会に憑いてる爺さんは、百年前からあそこにいるって言うし。ラダも説得を早々に諦めたほどの頑固者さ」
「百年……」
生きたのはたった十四年、霊体となってからまだ一ヶ月も経たないような少女には想像もつかない、途方もない年月である。その老人は、どんな思いでそんなに長い間死霊として地上に留まっているのだろう。
「それに俺はラダの奴みたいに知識があるわけじゃないから、ほとんど体感だけど。それでもいいなら」
そう前置きしてから、ジェフは死霊として過ごすことについて、丁寧に教えてくれた。
霊に確かな実体はないが、自分の意志次第で実体のあるものに触れることができる。これは志穂も既に把握しているが、物だけでなく、人や犬などの生き物にも触ることはできるという。
「ただしこっちが真っ当な死霊で、触れられる方に霊感がないと、大抵の場合は気付かれないな。せいぜい誰かに肩を叩かれたような気がする、で終わりだ。ラダみたいにはっきりと死霊の姿を見ることができて、おまけにあっちからも俺たちに干渉できるような人間は相当稀だと思うよ。俺もあいつ一人しか知らないし」
それから、何かに取り憑いている霊はその物や人や土地から遠くへは行けないこと。ジェフに杖を見てもらって試しに宿の外に出てみたが、杖から直線距離で何十メートルも離れることはできなかった。
ジェフが憑いているのはヘイゼルのいるこの〈水煙亭〉そのものだが、彼はこの宿から周囲百メートルくらいはうろつけるそうだ。その辺りは年季の差なのだろうか。それとも憑いているのが物品か土地かの差なのだろうか。
「どうだかなあ。さっき言った教会の爺さんは一歩も教会から出ないよ。俺はぎりぎり教会に足が届くから、たまに顔を合わせられるけど」
その他にもジェフは、色々なことを語ってくれた。
──霊でも五感を最大限に活用しようとすればものを食べられないことはないが、栄養になるわけではないし、飲み込んだ食べ物は消化されずにべちゃりと床の上に落ちることになるので、あまりお勧めはしないこと。
──眠ろうと思えば何日でも眠れるが、霊の眠りに真っ当な意味での夢が訪れることはないこと。
──霊の姿は自身の生前の記憶から形作られているものだから、やろうと思えば服を替えたり、若い時の姿に変わったりできるが、やりすぎると段々自分の元の姿が分からなくなって存在が薄くなり、しまいには消えてしまいかねないので気を付けること。
──実体あるものに干渉する術として、普通に触れる以外にも『憑依』して直接動かすという手段があるが、これを生者に対して行うとその者の記憶や感情にいつもより影響されやすくなること、何より悪霊の類がよくやる行為であるので、人に憑依している霊を見つけたら避けた方がいいこと。
最後に彼は、何やらしかめ面を作った。
「──生者に無闇に干渉することは、人に躊躇いなく害を為す悪霊への近道。もしお前が悪霊と化せば、俺はお前の意志を無視してでも船出させる。そうしなければ、人を害する悪霊は無数の怨念を溜め込み、怨念は毒蛇と化して、やがては世界の理までも崩壊しかねない」
どこかで聞いた覚えのある生真面目な口調でそう言うと、ジェフはふっと表情を和らげてかすかに苦笑した。
「そうラダに言われたことがあるよ。大仰だと思うかもしれないが、お嬢さんも覚えておいた方がいい。俺たちは鏡にも映らないような死者で……、ここは本来俺たちのいるべき国じゃないんだ、って」
それを忘れて思うままに振る舞おうとすれば、いずれ反動が来る──。
ジェフの真剣な忠告に、志穂は無言で頷いた。あのカレンという女性も、生きた人間を殺してしまわなければ、怨念に囚われてあんな風になって、ラダに強引に船出させられるようなことにはならなかったはずだ。
(……でも、なんだか……)
それでもかすかに胸が痛むのは何故だろう。
腹の底のどこかで納得できない思いが渦巻くのは何故だろう。
ラダが死者を目にし言葉を交わし触れ合える死霊術士の青年であっても、彼はあくまで生者だからだろうか。どんなに人を避けて無愛想にしても、彼はちゃんと生きた人間の目に見える存在ではないかと、そう思ってしまうからだろうか──。
「ともあれ、悪霊なんて言われるような質の悪い奴はもちろん、少しでもおかしいと思った霊には近付かない方がいい。まあ、お嬢さんがラダの杖に憑いてるんなら、あいつの仕事上なかなかそうもいかないかもしれないが、なるべくな」
「はい。ありがとうございます」
志穂は深々と頭を下げた。
「他に何か聞きたいことはあるかい? アーフェルのこととか、この街のこととか」
そう言われて、志穂が真っ先に思い出したのは、昨日あの怪しげな老婆が口にしていた言葉だった。
──〈死の民〉。
そして、竜。
「あの、ジェフさん」
そう声を上げてから次の言葉を発するまで、志穂は一拍の間を置いた。
さすがに〈死の民〉という言葉について聞くことは憚られた。あの言葉を耳にしたラダの激しい反応を見る限り、彼は明らかにそう呼ばれることを嫌っている。
「竜って知ってますか?」
「竜? 英雄王が退治したっていう?」
思いも寄らない返答が返ってきて、志穂は思わず目を丸くした。
あの山里では、門や廃墟の石床──ラダ曰く祭壇に、竜の彫刻や絵が描かれていた。とても英雄に退治されるような化け物として扱われているようには見えなかったのだが。
「この国が出来た頃の話だっていうから、それこそ何百年も前の伝説だけどな。このアーフェルを建国した英雄王ギイ・ユオルは、かつて悪い化け物──竜に恋人の姫を攫われたんだとさ。それで英雄王がその竜を退治して姫を取り戻し、めでたしめでたし、っていう」
まるで神話やお伽噺のような筋書きだ。
口には出さなかったが、顔つきを見るに、ジェフもその伝説が真実であるとはあまり信じていない様子である。
「そんなわけで、アーフェル王家の紋章はその退治された竜なんだよ。それに聖堂に行けば、壁画やら銅像やらがたくさん飾ってあるよ。竜殺しの英雄王、聖ユオルのね」
聞き覚えのある言葉に一瞬ぎくりとしたが、例の騎士団とは直接関係があるわけではないらしい。
ジェフの説明によると、この国の教会はその英雄王を、神に力を授けられた聖人として崇めているのだそうだ。それで教会の聖堂は、彼の竜退治の伝説を元にした壁画や彫刻、銅像で溢れているらしい。聖ユオル騎士団に限らず、聖ユオル大聖堂や聖ユオル修道院など、聖人の名前を冠した団体や建築物も数多いそうだ。
屈強な戦士が竜を懲らしめている場面がチャペルのような建物の壁一面に飾られている様子を思い浮かべ、あまりの違和感に志穂は思わず首を傾げてしまった。
「ああ、そういやラダが前になんか言ってたな。竜ってのは船流しの──」
そう言いながら、ジェフはふと部屋の窓から外に視線を向けた。
三階の窓のずっと下方には石畳の小路があり、時折通行人が歩いているのが見られる。中にはこの〈水煙亭〉の建物の中へ入っていく者もちらほらいたが、ちょうど今ドアベルを鳴らして入っていった若い男性の訪問者を見て、ジェフは突然忌々しげに表情を歪めた。
「あの盗人野郎、また来やがった!」
物騒な言葉を吐き捨てると、ジェフは驚く志穂に向かって、
「すまんお嬢さん、ちょっと用ができた」
そう言い残すなり、さっさと床をすり抜けて階下へ消えてしまった。
志穂がしばらく一人で首を傾げていると、ラダが買い物の品を腕に抱えて部屋に帰ってきた。
先程のジェフの剣幕のことを話すと、珍しく青年は顔を綻ばせて吹き出しかけたようだった。
「今下に行けば、ジェフの面白い姿が見られるぞ。気になるなら見に行ってくるといい」
三階の部屋から一階に行く程度の距離なら、志穂も杖から離れて行動できる。
ジェフのように床をすり抜けるのはまだ少し怖いので、志穂は普通に歩いて階段を下り、一階の食堂へ向かった。
食堂には宿の女主人ヘイゼルもいて、箒を手に床を掃きながら、若い男性と親しげに話している。男性の方も布巾を手に掃除を手伝っているようだ。
ジェフは二人から少し離れたところに立ちながら、腕を組み、まるで監視するように二人を──正確には男性の方を睨み付けていた。
「……それで大騒ぎだったんですが、結局棚の下に潜り込んでいるのが見つかって」
「あら。妹さんもなかなかやるわね」
男性と話すヘイゼルはとても嬉しそうだし、男性の方もヘイゼルに好意を抱いているようだ。何もそんなに睨むほどの問題があるようには志穂には見えない。
しばらくして、掃除と話が一段落すると、二人は別れの挨拶を交わした。
「では、ヘイゼル、また後で」
「ええ。待ってるわ、ジェフ」
彼女の父と同じ名前を持つらしい若い男性は、柔らかな微笑みを残して宿を出て行く。
ちょうど杖を持って下に降りてきたラダはその後ろ姿を見送ると、険しい顔で腕組みをしたままのジェフにちらりと視線を向けた。どこか面白がるように。
そして女主人の元へ歩み寄り、
「結婚はいつなんだ?」
と、無表情のまま訊ねた。
ヘイゼルは少しばかり照れくさそうに笑み、ジェフはますます不機嫌そうな顔つきで壁をすり抜けて別の場所に行ってしまった。
「来年の春のはじめには挙式の予定よ」
「そうか。おめでとう」
ラダは表情こそ変わらなかったが、口調は普段志穂に対するときのように柔らかかった。やはりいつもの無愛想はわざとなのかもしれない。
ありがとう、と受け答えしながら、ヘイゼルはふと視線を別な方に逸らした。
その視線の先には、壁にかけられた肖像画がある。
まだ二十前後と思しき若い夫婦と、幼い娘が幸せそうに微笑んでいる絵だった。
濃い茶色の髪をした夫の方は、生前のジェフだろう。そして父から同じ色の髪を、母からは緑色の目を受け継いでいる幼い娘は、〈水煙亭〉の女主人ヘイゼルに違いなかった。
「……ねえ、ラダ、お父さんはまだ……私の傍にいるのかしら?」
ヘイゼルはぽつりと呟くように訊ねた。その横顔に浮かぶ表情は柔らかく、懐かしい思い出を見るような眼差しは、同時にどこか悼むような色がある。
「ああ。……さっきまでそこにいて、お前の婚約者を睨み付けていた」
ラダが真面目な顔で答えると、彼女はくすくすと笑った。
「お父さんったら。彼はとてもいい人なのよ。一緒にこの宿を守っていくって約束したの。拗ねないでちょうだいって、伝えておいてくれる?」
ラダは黙って頷いた。
どうやらヘイゼルという女性はラダが死霊を見ることのできる青年だと知っていて、自分の父親が死霊となって娘を見守り続けていることも知っているらしい。
「……だから、そんなに心配しなくてもいいのよ。私はもう大丈夫。そう、伝えてね」
ヘイゼルはそう静かな声で続けると、ふわりと微笑んだ。昔の悲しい出来事を忘れずに受け止めて、それでも悲しみに囚われずに前へ向いている。そんな微笑みだった。
ラダはやはり無言で頷く。
(……私のお父さんとお母さんはどうしてるんだろう)
ふと志穂はそのことが急に気になった。旅の途中は見知らぬ世界に慣れることで頭が一杯で、日本に思い馳せる余地はあまりなかったから、久しぶりに感じたその郷愁は以前よりも一層彼女の胸を締め付けた。
〈果て〉へ辿り着いて、もし志穂が日本に帰れたとして──この死霊の姿のまま帰ったとしたら、それでも両親は娘を受け入れてくれるのだろうか。
例え見えなくても、話せなくても。
ヘイゼルが父を思っているように、娘を思ってくれるだろうか……。
「そうだラダ、今夜は船流しだから、食堂は閉めるわ。夕食をここで取るなら早めに言ってちょうだいね」
「ああ……もうそんな時期なのか」
分かったと頷き、ラダは一旦踵を返して階段を上がっていった。
彼と共に部屋に戻ると、窓辺のところで濃い茶色の髪の男性が黄昏れていた。
ラダがその傍に近寄り、先程のヘイゼルの伝言をそのまま口にして伝えると、ジェフは複雑そうな面持ちで振り返った。そしてため息を吐くと、
「まったく、本当にできた娘だよ、ヘイゼルは。……これで男親の気持ちも汲んでくれれば、言うことなしなんだがなあ」
と、しみじみ呟いた。
「別に相手の男に問題があるわけではないのだろう?」
「ないさ。富裕な商人の次男で、文武両道、人柄も申し分ない。……文句のつけようがないから、気に入らないんだよ。まったく、おまけに名前まで俺と同じときた……」
はあ、ともう一度深いため息を吐くと、ジェフは肩を落として部屋から出て行った。
壁に消えていくその後ろ姿を見送りながら、志穂は首を傾げて呟いた。
「……ジェフさんは、寂しいのかな」
「ジェフの魂を地上に留めている執着は、一人になった娘を心配する思いだけだ。だから、その執着の元が消えていくことへの恐れもあるのだろうが……まあ、結局のところ男親というものは、突然現れて娘を奪っていく男はすべて敵に見える生き物なんだろう」
「ヘイゼルさんの恋人は急に現れたの?」
「いや。確か交際しはじめてもう三年にはなると聞いている」
それならもう諦めてもいい頃だと思うが、そういうわけにはいかないのが父親というものらしい。
中学生になって、彼氏だ化粧だと浮つきはじめた同級生たちの中には、そのことで父親と喧嘩する子もいた。そんな思春期の流れからなんとなく取り残されていた志穂には、もちろん彼氏もいなければ少女漫画で見るような恋愛もしたことがなかったので、そのあたりの機微はよく分からない。
「そういえば、ラダ。船流しって?」
「この辺りに伝わる古い習慣だ。アーフェルが建国されるより以前の、異教の時代に由来するものだと。……昔は盛大な祭りだったそうだが、今は一部の市民の間で細々と続けられる伝統行事だな」
そう説明して、ラダは志穂を見下ろした。
「興味があるなら、見に行くか?」
限られた土地をできるだけ有効活用しようというのか、川岸にせり出す勢いでずらりと立ち並ぶ家々の合間にも、通り道はわずかに存在する。その暗い道を抜けて細い階段を降りた先に、川が運んできた土砂が少しずつ堆積して形成されたと思しき砂地がある。
志穂とラダは、川を見下ろせる人気のない階段の陰に二人並んで腰掛けていた。
もうとうに日の暮れた時刻、見下ろした川縁の砂地には篝火が焚かれ、既に多くの人々が宵闇に紛れて集まっている。街の賑やかさからすると微々たる数かもしれないが、きっと千人くらいはいるだろう。それが全員生きた人間なのか、それとも中に何人か死霊が紛れ込んでいるのか、志穂には判断がつかないが。
彼らは各々の手に、小さな人形を持っていた。
布の切れ端で作られたと思しき簡素なもの、木彫りで丁寧に形作られたもの。形も色も大きさも人それぞれ違う人形を、やはり老若男女様々な人々が持ち寄っているようだ。
ヘイゼルも、あのジェフと同じ名前の若い男性と寄り添いながら、手作りの人形を二つ手にしていた。
「あの人形は?」
「……死者の似姿だ」
ラダの答えに、志穂ははっと息を呑んだ。
川岸にはいくつか船が用意されていた。船といっても、大きなものでせいぜい洗濯桶程度の小さな木造船で、到底人が乗れるほどではない。船の舳先には一様に同じ形をした船首像が取り付けられ、船尾のあたりには蝋燭の明かりが灯されていた。
人々はそれらの船に、持ち寄った人形を載せていった。
あっという間に人形の積み荷でいっぱいになった船は、順に川へと送り出され、しばらく川面を漂った後、流れに従って少しずつ下流へと進みはじめた。
暗い川面に、船尾にゆらめく蝋燭の炎の明かりがぼんやりと映り込んでいる。
「亡くなった親しい者の生前の姿を象り、人形にして乗せ、あの船で流す。……死者の魂が川を下り、やがて海に出て、沖つ国へと無事に辿り着けるように」
灯籠流しのようなものだろうか、と志穂はお盆の時期にテレビで見かける光景のことを思い返した。
夜の闇の中、赤々と燃える灯火が川に流されていく、あの幻想的な光景。確かあれは、お盆に帰ってきた死者の魂を再びあの世へと送り出すための行事だっただろうか。
「今は交易船の妨げになるというので、あの船も少し先の下流で回収されて燃やされる。参加者も年々減り続けているそうだ。……それでもあそこにいる人々は死者を思って人形を作り、船を流し続けている」
ラダの説明を聞きながら、通り過ぎていく船を眺めながら、志穂はふとその船首像に目を留めた。
長細い胴体の先に長い首がくっついたような、奇妙な動物の形をしている。どちらかといえば蜥蜴に似ているが、頭には角のような棘のようなものが生えていた。
「これは、何の動物を象ったものなの?」
「……竜だ」
その答えに、志穂は思わず目を見開いてラダを見上げた。
「竜は、今のこの国では不吉な存在だとされている。かつて英雄王が退治した死を呼ぶ化け物だと。だからこれが竜だとは誰も言わない。実際に知らぬ者も多いだろう。──だが、あれは竜なのだ」
そう語る青年の横顔はどこか寂しげだった。
「竜が船になって、死んだ人を運ぶの?」
問いながら、志穂はまた質問ばかりしている自分に気付いた。少しは控えようと思っていたはずなのに、心に決めたことをちっとも実行できていない。
「……そうだ。竜の船は世界を巡り、船出できぬ死者たちの魂を乗せて、海の遙かかなたの沖つ国へと運ぶ。かつて、そういう存在が世界にいたという」
いた、ということは、今はいないのだろうか。だからラダは探しているのだろうか。
──いなくなってしまった、竜という存在を。
死者の人形を乗せた木造の竜の船は、船尾の灯火だけが照らす闇の中、川面をゆっくりと漂いながら少しずつ下流へと向かっている。
川縁の人々は、静かに息を潜めるようにして船の流れる様を眺めている。
すすり泣く人もいた。祈るように両手を握り合わせている人もいた。肩を寄せ合い悲しみを分かち合っている人たちもいた。
その不思議な光景を胸に焼き付けながら、志穂は目を閉じた。そして思う。
──人は何故生まれ、何故死者となり、死霊となるのだろう。
死霊とは何なのだろう。
死者が還るべきところ──沖つ国。それはどんなところなのだろう。
(帰りたい)
志穂は不意にそう思った。強く、思った。
死者の国になど行きたくない。カレンのように消えたくない。志穂は志穂のまま、日本のごく平凡なあの家に帰りたかった。その気持ちは今でも変わらない。このまま見知らぬ世界で消えてしまえば、志穂が確かに存在したことの証すらどこにも残せないのだ。
「……シホ?」
けれども志穂はもう死んでしまった。
生きた人間の多くには見えない死霊と化した。
優しいラダも、親切なジェフも、生き返りの希望など提示してくれない。志穂は死霊なのだと、それを弁えて行動しなければいけないのだと、事実をただ突きつける。
例え〈果て〉に行ったとしても、青年の言う通りどうにもならない可能性だって高いのだろう。
ちっぽけな十四歳の少女には変えられない、どうしようもない現実。
(分かってる。そんなこと分かってる……)
きっと初めから、分かっているのだ。
あの波音を聞いたときから。
(でも……帰りたいよ)
──そう思わなければ、その執着を失えば、きっと志穂は今度こそ跡形もなく消えてしまう。
視界が霞んだ。
じわりと滲んだものは盛り上がって粒となり、音もなく頬を伝う。
死霊でも泣くことはできるのだ、と、頭の隅で不思議に思った。あるいはこれも幻で、錯覚のなせる業なのか。泣きたいから、涙を流しているつもりになっているだけなのか。
けれども──。
不意に背中に回された誰かの腕の感触、引き寄せられた胸の中の冷たいようで温かい体温、これが錯覚だとは思えなかった。
抱きしめられたのだ、と数瞬遅れて気付く。
志穂を抱きしめながら、ラダは一言も口にしなかった。
何も言わず、ゆっくりと撫でるように数度、志穂の背中をさする青年の動作は、幼い子供を慰め、あやす仕草のようにも思える。
それでも構わなかった。そう思えるほどに、彼の手の感触は優しかった。
「帰りたい」
その優しさに寄りかかるように、志穂は胸の内に渦巻く思いを吐き出した。
「どうして、私が死ななきゃならなかったの……?」
ラダはやはり何も言わなかった。彼の胸に顔を埋めた志穂には、彼がどんな表情をしているかは窺い知れない。
少女はただ泣き続け、青年は少女をただ抱きしめ続けた。
船は流れていく。ゆらゆらと漂いながら、生きる人々の死者への思いを乗せて。
──すまない。
耳元を掠めたその声が、一体どんな思いから発せられたものなのかは、分からなかったが。




