表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/19

第五話 死霊術士

 ジェフという男性は、先程下で見かけた同じ髪色の女性、この宿の女主人ヘイゼルの父親なのだという。十七年前、二九歳の時に事故で亡くなって以来、ずっと死霊のままで娘を見守り続けているらしい。

「何せ妻はもうずっと早くに亡くなっていたし、その上に父親の俺まで死んでしまったわけだからさ。あっちで待ってくれてる妻には悪いが、当時まだ十歳の娘を一人残して、海のかなたの国になんて行く気にはなれなかったんだよ」

 親を亡くした娘ヘイゼルは親戚に引き取られることになったが、彼女は父親が残したこの〈水煙亭〉から離れることを拒んだ。

 結局この宿はヘイゼルの後見人となった母方の伯父が経営することになり、この伯父が亡くなってからは、成長したヘイゼルが女手一つで見事に切り盛りしてみせ、現在に至るのだそうだ。

「父親の俺が言うのも何だけどね、まったくアーフェル一、いや世界一の孝行娘だと思うんだよ。下にある肖像画を見たかい? 見てない? あれはまだ妻が生きていた頃、娘と三人で旅の画家に描いてもらったものでね、ヘイゼルは今でもあの絵の前で……」

 ジェフは放っておけば何時間でも喋っていそうな勢いだった。

 もちろん死霊ならば、声が嗄れて喉が痛くなったりすることもない。

 志穂が圧倒されて大人しく彼の話に耳を傾けていると、やがて見かねたのか、ラダが横から口を挟んでジェフの語りを止めた。

「変わらないな、お前も。……久しぶりに会ったが、ヘイゼルは相変わらず立派にやっているようだ。そろそろ子離れしてもいい頃だと思うが」

 ラダの言葉を聞くなり、ジェフは途端に不機嫌そうな顔になった。

「さっさと船出しろ、といういつものご忠言ならお断りだよ」

 志穂は思わずラダとジェフの顔を交互に見比べた。船出、つまり成仏とか昇天とかいう意味合いの言葉だ。

「お嬢さんも気を付けた方がいいよ。こいつは死霊と見ると、片っ端から杖を振り回して船出させようとするからね」

 はあ、と曖昧に返事をしながら、志穂はラダに杖を突きつけられ、危うく成仏させられそうになったことを思い出していた。ラダとしては善意だったのだろうが、成仏させられるこちらは堪ったものではない。ジェフにも似たような経験があるのだろうか。

 当の青年は少し気まずそうな顔をしていた。

「……別に俺は、その辺りにいる害のない霊にまでいちいち船出を促そうとは……」

「それはそうだろうよ、このエテルベリの街一つとったって、一体どれだけの死霊がいるやら分かったものじゃない。けど、杖の届く範囲にいる霊ならすべてお前の力を及ぼそうとするだろうが。お陰でこの界隈はすっかり寂しくなって……」

 はあ、とこれ見よがしにため息をつくジェフに対し、志穂は勇気を出して口を挟んだ。

「あの……でも、ラダは、私の意志を無視して成仏、ええと、船出させようとすることはもうしないって、約束してくれました」

 すると、ジェフはやや苦笑気味の表情になった。

「何だ、本当にこんなお嬢さんにまでやらしてたのかい」

「……あ」

 志穂は思わず口元を抑えた。フォローのつもりが、逆効果だったらしい。

「まあ、お前さんが人の意志に反することはしないって分かってるからな。そこはお嬢さんも安心するといい。現にこのくそ真面目で律儀な男は、この数年間顔を合わせる度に俺を船出させたがるが、娘を見守りたいって俺の意志を無視してまで船出させようとはしなかったよ」

 ジェフはそう言って表情を和らげた。

「それじゃ、まあゆっくりしていっておくれ、ラダ。そちらのお嬢さんも」

 そして彼は部屋から去っていったのだが、その去り方というのが、部屋の壁にぶつかってするりと向こう側へ向けていくという、なんとも幽霊らしい方法だった。

 志穂はまだ目を瞑らなければとてもあのような芸当はできないが、ジェフは目を開けたまま当然のように壁を通り抜けていた。死霊生活も十七年になると、あれくらい気安く壁抜けができるのだろうか。

 ジェフが去った後、部屋の中には少しばかり奇妙な沈黙が漂った。

 やがてラダは気まずげな表情のままで口を開いた。

「……すまない。ジェフも悪い人間ではないのだが、一旦娘のことを話し出すと止まらなくなることを失念していた」

 ううん、と志穂は首を横に振る。そしてやや間を置いてから、遠慮がちに声を発した。

「あの、ラダ」

「何だ?」

 紫色の目が志穂を見下ろす。その目の表面に少女の姿が映り込むことはない事実に、少し前から彼女は気付いている。

 ──ラダはやはり今も、霊は皆大人しく成仏するべきだと考えているのか。

 本当のところはそう訊きたかったのだが、志穂の口から滑り出たのは別の質問だった。

「ええと……この国では、霊が死後の世界へ行くことを船出って言うんだよね?」

 本来訊きたかったこととは違うものの、お互いの言葉が自動的に翻訳されていると知ってから、志穂が抱いていた疑問の一つではある。

 ラダやジェフが口にする『船出』という言葉が、彷徨う幽霊が成仏するという意味で使われているのは明白だ。しかし志穂の知る限り、日本語にそんな意味はない。文脈で大体理解できるとはいえ、固有名詞でもないのに、翻訳されて聞こえる言葉と日本語の意味がはっきりずれているのは、この『船出』という言葉だけのようだ。

 もしかしたら、この国の言葉では元々、『成仏』と『出航すること』が同じ単語で表現されているのかもしれない。

「まれびとの国では、船出とは言わないのか」

 その予想を裏付けるように、ラダはそう言って首を傾げた。

「うん。私の国では、船出っていう言葉には、船が港から出航するっていう意味しかない」

「そうなのか? いや、こちらでも、出航することを船出とは言うが……」

 ラダは例によって真面目な顔で考え込んだ。

 しばらく待っていると、やがて彼は顔を上げ、窓の外に視線を投げかけた。小路を挟んで向かいに立ち並ぶ建物の屋根の合間から、昼下がりの青空が覗いている。

「……死して肉体を失った魂は、本来、地上を離れて海の向こうにあるという死者の国へと向かう。だから死者の国は、沖つ国、あるいは海のかなたの国と称される。この点は、古い教えも、アーフェルの教会の教えでも変わらないし、俺が行ったことのある異国でも大抵はそうだった」

「海の向こうに、死者の国……?」

 ふと、志穂は目覚める前に聞いた波の音を思い出した。

 幻聴か、それこそ夢かと思っていたが、もしかしてあれは──死者の国への誘いだったのだろうか?

「……沖つ国が実在するのかどうかは知らない。俺も見たことはないから。いずれにせよ、海の向こうに行くには船が必要だろう。だから、船出すると言うのだと思う」

 志穂にも分かりやすい、単純明快な理屈である。

 しかし何か引っ掛かるものもあった。確か志穂たちの目指す目的地である〈果て〉も、海辺の向こうの遙か沖合にあるのだとラダは言っていなかったろうか。

 まれびとは沖合にあるこの世の〈果て〉の向こうからやってくる。

 この世界の死者の魂は、海のかなたの死者の国へ行く。

 つまるところ、この世界における海とは、様々な異界に繋がっている場所だということなのだろうか。込み入った話に内心で首を捻っていると、

「シホの故郷では、死者はどこに行くものなんだ?」

 珍しくラダの方から質問をしてきた。

「ええと……あんまり詳しくないけど、色んな話があったよ。天国、極楽、地獄とか、黄泉の国とか、三途の川とか……」

 故郷で葬式に参列したことはなく、死について真剣に考えたこともなかったから、とりあえずうろ覚えの単語を並べ立ててみる。

 そんないい加減な話でも、ラダは興味を持ったようだった。

「やはり異界では、死後の国に対する観念も異なるのだな」

 その後はしばらく、ラダが質問し志穂が答えるという、いつもとは逆の形になった。

 清潔で居心地の良い部屋での、穏やかな午後である。窓から差し込む光は明るく、ぽかぽかと暖かかった。これで話題が死後の世界についてなどという暗い話でなければもっと良かったのだが、とりあえずラダは楽しそうだった。

 そんな風にして、二人はその日の夕刻までのんびりと過ごした。



「シホ。これから少し出かけることになった」

 ラダがそう言い出したのは、もう日の暮れかけた時分のことだった。

 青年は外套を着込み、白い杖を片手に握りしめていて、本格的に外出する雰囲気だ。

「どこに行くの?」

「少し離れたところにある裏町だ。若い娘が見に行っても、あまり楽しいところではないと思う、が……すまない」

 志穂は頷いた。ラダの手に杖がある以上、少女には彼の後を付いていく他に選択肢がない。別行動を取ろうとしても、どうせまた引きずられてしまうに決まっている。

「おや、ラダ、今から仕事かい? 気を付けろよ」

 ジェフの声に見送られながら、ラダと志穂は宿を出た。

 宵闇が迫る中、二人は複雑に入り組んだ路地や通りをいくつも足早に通り抜けた。明かりの灯った店があるような通りはともかく、細い路地には街灯はまったく存在せず、建物の陰が色濃く被さっているところでは、足元の確認すら覚束なくなるほどに暗い。

 そんな暗さをものともせずに進むラダがやってきたのは、どこか不気味な雰囲気のする界隈だった。

 道は人が二人すれ違うのがやっとの狭さ。妙に肥え太った野良猫が道のゴミを漁って残飯らしきものを食い散らかしている。

 立ち並ぶ建物の軒先の看板はどれもおどろおどろしい怪物を象ったものばかりで、中には山羊の頭部の剥製を堂々と表に出している建物まであった。

「……これ、全部店なの?」

 と、志穂は呟かずにはいられなかった。だとしたら、一体どんな得体の知れない店なのだろう。

 まるでお化け屋敷のように飾られた家々の前を通り過ぎ、ラダが扉を叩いたのは、不気味な看板も飾り付けもない家屋だった。足を踏み入れた内部も簡素でごくごく普通の民家に見えたので、志穂は一旦胸を撫で下ろした。

 だが、奥で青年を待っていたのは、漆黒のローブを身に纏ったいかにも怪しげな老婆だった。白髪はところどころ禿げかかっていて、顔中に皺という皺が刻まれている。これで杖でも手にしていたら、ラダよりもずっと魔法使いらしく見えただろう。

「待ってたよ、ラダ」

 老婆はラダを見上げると、志穂には気付いていない様子で話を切り出した。

「至急お前に頼みたい仕事があるんだ。報酬は弾むよ、何せ相手はお貴族様だからね」

「貴族?」

 ラダはほんのかすかに嫌そうに眉をひそめると、その場に立ったまま続きを促した。

「エテルベリに屋敷を構えてる、ブレニー子爵が依頼人でね。屋敷に死霊が出て、このままでは祟り殺されるかもしれないと言って、藁にも縋る思いで噂を辿り、死霊術士の力を借りに来たというわけさ」

 老婆は意地の悪そうな表情で笑う。顔中の皺がますます深くなった。

「子爵が相手じゃペテンでごまかすのも危ないからね、お前が来てくれて助かったよ。それに子爵も運が良い、貴重な本物の死霊術士がちょうど立ち寄ってくれたんだから」

 青年は無言だった。

 なんだかよく分からないが、死霊術士としての仕事の斡旋ということなのだろうか。青年が名乗っていた死霊術士なる肩書きは、冗談というわけではなかったらしい。

 ペテンなどと言っていたり、志穂の姿が見えていないあたり、この老婆にはラダのような力はないようだ。

「子爵の話では、死霊は夜中に出てきて屋敷の中を彷徨い、子爵やその家族、召使いに至るまで区別なく首を絞めようとするそうだよ。やれるかい?」

 一瞬黙り込んでから、ラダは淡々と答えた。

「……それが死霊なら」

 ちらりと見上げた横顔は、旅の最中によく見かけた、あの冷たい無表情に戻ってしまっていた。



 ブレニー子爵の屋敷は、街の中心部に近い高級住宅街にあった。

 土地の限られた中州の街の中にも関わらず、屋敷にはそこそこの広さの庭があり、蔓草模様に細工された鉄柵があり、馬車が通れる大きさの門もあった。貴族というものを知らない志穂でも一目でそれと分かる、お金持ちのお屋敷そのものである。

 夜中、人目を憚るように屋敷を訪れた青年を迎えたのは、屋敷の執事だという男性だった。彼はラダよりも遙かに身なりの良い紳士だったが、その頬はげっそりと痩けていて、ラダの姿を見る目には縋り付くような雰囲気があった。

「あれが出始めて、もう半年になります……。召使いたちは次々と辞め、奥方は心労のあまり伏せられ、お坊ちゃまやお嬢様方と共に別宅にお移りになりました。私も三度ほどあれに首を絞められまして……」

 と、執事は細い指先の跡が赤く生々しく残る首を見せた。

「幸い、三度ともすぐに気付いてはね除けようとしたり、叫んだりしたところ、すぐに離れていきましたが……もし意識のない時分であればと、今でもぞっといたします」

「貴方は、その死霊に見覚えは?」

 暗く静まり返った屋敷の廊下を見やり、ラダは至って落ち着いた口調で訊ねた。これから悪霊を祓いに行こうというのに、微塵の怯えも感じられない。

「いいえ、ございません。私も子爵からこの屋敷の差配を任されている者ですから、ここで雇っていた者は、下働きも含めて全員の顔を覚えています」

「では、その死霊はここの者ではないと?」

「はい。少なくとも、この十年の間にいた者ではございません」

 そんなことを話しながら、二人は執事の持つランプの明かりだけを頼りに屋敷の内部を進んでいく。志穂はその少し後から付いていきながら、きょろきょろと辺りを見回した。

 ぴかぴかに磨かれた床、壁を覆うタペストリーや絵画、要所に配置された銀の燭台。

 日中ならさぞかし豪華絢爛なのだろう屋敷も、真夜中の闇の中ではただただ不気味な印象しかない。ちょっと油断して気を逸らした瞬間、すぐそこの真っ暗闇から何かが躍り出てきそうだ。

 もっとも、今の志穂はむしろ『出る』側である。

 そのことを思うと、暗闇に怯えるのは馬鹿馬鹿しいことのように感じられた。

「ここが、悪霊が一番多く目撃されている場所でございます」

 執事が案内したのは、本棚が壁一面に配置された書斎だった。部屋の中央にはテーブルと絹張りの椅子が置かれ、ちょっとした応接間のような雰囲気もある。

 ラダは一度書斎をぐるりと見回した後、しばらく考えてから本棚に近付き、そこに並ぶ立派な装丁の背表紙を眺めた。

「こちらの書物の中に、死霊が出始める少し前に入手したものはありますか」

 青年の質問に、執事の顔が曇った。

「それが……その書棚にある本は、半分が半年前に運び込まれたものなのです」

「というと?」

「半年前、子爵家のあるご親族が急死され、その財産の一部を子爵がご相続されたのですが……。その方は熱心な書物の収集家であられたそうで、財産の多くは書物でございました。それらの書物をここに収めたのです」

「では、悪霊はその書物のどれかに取り憑いていたのかもしれません」

 冷静な指摘に、執事はますます顔を曇らせた。その可能性には気付いていたものの、有効な方策を取れずに手をこまねいていた、といった雰囲気である。

「は……しかし、これらはすべて貴重な書物です。一冊だけならば断腸の思いで処分することもできましょうが、数十冊ともなると……私どもにはどれが悪霊つきの書物かは分かりませんし……」

「なるほど」

「書物を燃やすことは子爵もお望みではありません。どうにか穏便に、悪霊だけを退治していただけると有り難いのですが……」

 分かりました、とラダは素っ気なく答えた。いたって事務的で愛想の欠片もない。旅路でもそうだったが、仕事中もいつもこんな風なのだろうか。

「では、しばらくこの部屋で一人にしてくれませんか」

 執事はあからさまに難色を示した。

 はっきりと口に出しては言わなかったものの、高価な書物や調度品が並べられた一室に怪しい死霊術士だけを置いて目を離すわけにはいかない、とその目が物語っている。

 が、それでも結局は死霊に対する恐怖が勝ったらしく、執事は大人しくラダの言葉に従って部屋を出て行った。

 執事がいなくなると、ラダはため息を吐いて白い杖を握り直した。

「シホ」

 低い小声で話しかけられ、志穂は少し首を傾げた。

「何?」

「仕事が終わるまで、俺の傍を離れないでくれ」

 言われないでもそうするつもりだったが、何かわざわざ口にして頼むだけの理由があるのだろうか。

「霊感のない人間の目にも見えるほど、強い恨みを持って現世に執着している霊は、大抵の場合見境がない。シホにも害が及ぶ危険性がある」

「……霊は霊を傷付けることができるの?」

 志穂は思わず顔を引きつらせた。

「いや、血を流すという意味では傷付くことはない。ただ……死者は肉体を持たない故に、色々と影響を受けやすいものだから。特に怨念は猛毒だ。何か変だと思ったらすぐにこの杖に縋った方がいい」

 何だかよく分からないが、ラダが危ないというからには危ないのだろう。

 分かった、と頷こうとしたとき、不意にないはずの背筋が冷えた。

 ──何かがいる。

 自分でもよく分からない、勘としか言い様のない力で、志穂は直感した。

 何か得体の知れないものが、志穂とラダを見つめていると。

「……シホ」

 言葉少なに促され、志穂はそろりとラダの傍へ寄った。

 青年は険しい顔で書斎を見渡している。

 ほんの十数秒、けれども果てしなく長く感じられた沈黙の後、彼はふと本棚の隅に目を留めた。金箔で縁取られた、とても高価そうな革表紙の本に手を伸ばし、躊躇なく引き抜く。

 次の瞬間、志穂は危うく悲鳴を上げるところだった。ラダの背後に、何の前触れもなく女の姿が現れたのだ。

 顔形は美しい女性である。腰近くまである長い巻き毛の金髪を垂らし、色鮮やかな刺繍が施されたドレスを着ているが、その足は地面に接することなくふわふわと浮いていた。

 女は青白い手を持ち上げ、ラダの首に手をかけようとする。

 だが彼は動じることなく、右手に杖を、左手に本を持ったまま振り向いた。そして、

「お前の名は?」

 そう冷静な口調で訊ねた。

 死霊の女性は少しばかり戸惑ったように動きを止め、形の良い眉をひそめて青年を見つめた。そんな仕草は、ごく普通の女性のように見えなくもない。

「俺はラダという。お前の名は?」

 そう問いを繰り返しながら、死霊の女性と見つめ合うラダを、志穂は傍らではらはらしながら見守る。

「……カレン」

 やがて女性はぽつりとそう答えた。か細く透き通るような声だった。

「どうして貴方は私を見て怯えないの……?」

 彼女は不思議そうに訊ねた。

「ここの者は皆、私を恐れる……悪霊と呼ぶ……私は何も悪いことをしていないのに……」

 屋敷中の人間の首を絞めて回ったのではないのかと志穂は思ったが、口には出さなかった。女性はどうもラダのことに気を取られ、志穂の存在には気付いていないようだ。

「何もしていないと?」

「ええ……何も……」

「ならば何か行き違いがあったのかもしれない。カレン、お前はいつも、屋敷でどう過ごしている?」

 死霊の女性、カレンは子供のように首を傾げた。

「私は……いつも……あの人がやったようにする……」

「あの人?」

 青年の声に鋭さが増す。

「私の大切な……大切な……この方が幸せになれると……暗い書斎……最初は苦しかったけど、とても気が楽になった……」

 断片的で、とても意味の繋がらない言葉。

 けれどもそれに耳を傾けているうち、志穂の脳裏に、奇妙な光景が思い浮かんだ。


 蝋燭一つしか明かりのない、薄暗い書斎の中だった。

 閲覧台に一冊の本が広げられている。金箔で縁取られた高価そうな書物だ。

 その傍で、男性と女性が二人で何事か話している。二人とも険しい顔で、何事か揉めているようにも見えた。

 やがて女性が後ろを向いた途端、男性は手に持った縄で女性の首を締め上げた。

 苦しみ暴れる女性の手が閲覧台の本に触れて、そして──。

 

「シホ?」

 ラダの声に、志穂ははっと我に返った。

 暗い書斎の中をきょろきょろと見回す。だが、先程見たものではない。閲覧台はどこにもない。そう、ここはラダの仕事のために訪れた、ブレニー子爵の屋敷の中だ。

「どうした。……何か見えたのか?」

 心配そうに訊ねられ、小さく頷く。

 まさに『見えた』という表現がぴったり当て嵌まる。他に表現しようのない感覚だった。

「書斎で……こことは違う書斎の中で、男の人が、女の人の首を……」

 最後まで言い切ることはできずに、志穂は言葉を濁した。

 首を絞められた女性の顔。

 あれは確かに、今目の前にいる死霊の女性と同じ顔だった。

「そうか……分かった」

 ラダは真剣な顔で頷くと、女性の方へ向き直った。

「幸せ……幸せ……」

 カレンという名の女性はもうラダのことすら見えていないようだった。ただうっとりとした顔で、思い出に浸っている。

「だから、私、皆に幸せを分けようと思って……思った、のに……あの人にも……幸せになるようにと──」

 不意に彼女の言葉が途切れた。

 細い肩がわなわなと震えだし、美しい顔が険しくなり、細い手がきつく握りしめられる。

 志穂は胸の内が苦しくなるのを感じた。

 どうして、と思った。

 ──どうしてあの人は、こんなに恐怖の顔を浮かべたまま冷たくなってしまったのだろうか?

 ──どうして皆私を恐れるのだろうか?

 ──どうして、どうして、どうして幸せになったはずの私は、こんなにも辛いのか?

 それらの感情は、決して志穂自身の中から来る思いではない。

 おそらくは、目の前にいる女性の心。それが何故か、自分のもののように感じられるのだ。

「カレン」

 ラダは静かに女性の名を呼んだ。

「お前はもう、過去を忘れて沖つ国へと船出するべきだ。このままここにいては、お前はもっと不幸せになってしまう」

 カレンはのろのろと顔を上げ、ラダを見つめた。

「道が分からないならば、俺が手助けしてやれる。さあ──」

 そう言って差し伸べられた青年の手を、しかしカレンは取ろうとしなかった。彼女は能面のような無表情で彼の手を見つめた。そして、

「ラダ!」

 胸を突き刺すような感情の奔流に、反射的に志穂は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。

 それは憎悪だった。

 何もかも消えてなくなってしまえという、自暴自棄な破壊の意志だった。

 志穂の叫びに反応した青年が驚いたように思わず手を引っ込めたのを見て、カレンは笑った。

「不幸せ?」

 彼女の美しい顔が見る見るうちに歪んでいく。

「手助け? ──戯言を!」

 カレンは叩き付けるような怒声を浴びせかけると、ふいと踵を返して書斎の外へと出て行った。

 書斎の外から、扉越しにあの執事の叫び声が聞こえた。

 慌てて外に出たラダに従い、志穂も書斎を出る。

 そして息を呑んだ。

 暗い廊下の真ん中に、執事が立っていた。

 執事の頭はがくりと力なく項垂れ、唇の端からは涎まで垂れている。どう考えても気絶しているように見えるのに、彼の体はその場に倒れる気配がない。まるで糸で操られた人形のように、少し傾いた奇妙な姿勢で佇んでいる。

 執事は項垂れたまま、書斎から出てきたラダに飛びかかってきた。

 ラダが横に跳びすさってそれを避けると、執事の体は扉にぶつかり、跳ね返って床の上に崩れ落ちた。

 しかしすぐに起き上がる。顔には痣ができていたが、執事は何事もなかったかのようにラダの方へと向き直った。

 志穂はぞっとした。まるでホラー映画に出てくる化け物のようだ。

「カレン。その男から離れろ。彼はお前とは何の関係もないはずだ」

 ラダは鋭い声で、執事に向かって言った。

 すると、執事の肩の少し後ろの辺りにあのカレンの姿がぼんやりと浮かび上がった。白い指先が執事の首に掛けられている。

 彼女が執事の体を無理矢理動かしているのだ。志穂はそう気付いた。

「私は死者の国になど行かない! 行くものか!」

 カレンは、先刻のか細い声が嘘のような苛烈さで叫んだ。

「もう、おしまい。皆、私を恐れるばかり。幸せになれない。だから……、この男もあの人と同じようにしてあげる」

 カレンの指先が、ゆっくりと、しかし確実に深く、執事の喉元に食い込んでいく。

 殺す気だ、と志穂は悟った。首を絞めて殺す気なのだ。

 彼女が男にそうされたように──彼女が男にそうしたように。

 ラダは一瞬、唇を噛みしめたようだった。

 だが彼が躊躇うような素振りをみせたのはほんの一瞬のこと、すぐに表情を消して白い杖を振りかざした。

「──ラダの名において命じる」

 その声はあまりに低く、はっきりとは聞き取れなかった。だが彼が続いて紡ぎ出した呪文の響きは、以前耳にしたものとよく似ているような気がした。志穂を船出させようとした、あの時のものと。

 カレンがはっと怯えたように後ずさり、執事の体から離れた。途端に執事の体はその場に崩れ落ち、床の上に倒れ込む。

 だがラダは少しも表情を変えず、呪文を唱えながらカレンに杖の先を向けた。

「やめて!」

 カレンは蒼白な顔で悲鳴を上げた。

「いや、やめて、私は船出などしたくない!」

 悲痛な叫びにも、ラダは呪文を唱えることを止めない。

 ただただ冷たい無表情で、彼は呪文の最後をこう締めくくった。

「──還るべき国へ行け」

 悲鳴が止んだ。

 志穂は思わず口元を手で覆った。

 カレンの姿が見る間に薄くなっていく。腰近くまである長い巻き毛の金髪が、ドレスが、美しい顔が虚空に溶けていく。白い手がもがくように宙を掴んだが、その手もやがて霧散して消えていった。

 あまりにも呆気なく、カレンの痕跡すらもう見えない。

 そうして後に残ったのは、静寂と、顔に痣を作った執事の体だけだった。

 ラダは杖を下ろして小さく息を吐くと、倒れている執事の傍に近付き、軽くその肩を揺さぶった。

 執事の男はわずかに呻き声を上げると、頭を押さえながら起き上がった。そして目を瞬かせ、状況が把握できないかのように周囲を見回す。どうやらカレンに操られていた時のことは何も覚えていないようだ。

「死霊は去りました」

 そんな執事を見下ろして、ラダは端的に事実を告げた。

 執事は呆気に取られたように青年を見上げている。半信半疑の色がその目の奥を掠めた。

 だが青年は説明のためにいちいち言葉を尽くしたりせず、無愛想に続けた。

「もう貴方がたは悪霊に悩まされることはないでしょう。報酬はそれを確認した後で構いません。仲介人から裏町のケル婆に渡してくだされば結構です」

 それだけを言い残すと、まだ呆然としている執事を残して、ラダは屋敷から立ち去っていった。



「……あの、ラダ」

 屋敷から出た後、その外観が路地の角に隠れて完全に見えなくなった頃を見計らい、志穂はおずおずとそう声をかけた。無論、周囲に人気がないことを確認してから。

「何だ?」

 返ってくる声は存外柔らかく落ち着いている。

「あのカレンという人は、その……船出、したんだよね」

「ああ」

「それは、その、なんていうか……ラダの術で……ええと」

 彼女の意志を無視して強引に船出させたのかという言葉は、さすがに口にすることはできなかった。だがラダは志穂の言わんとすることを察したのか、首を振った。

「……できれば、彼女自身に納得して船出してもらいたかった」

 先刻の冷ややかな態度とは違い、その呟きにはかすかな哀れみが含まれている。そのことは志穂の胸に安堵の思いをもたらした。

 正直なところをいえば、無慈悲に呪文を唱えてカレンを消し去った青年の姿はとても恐ろしく感じられたから。

「だが彼女はもう、人に害なす悪霊と化していた。あのままではまた人を殺していただろう。ああするより他に手がなかった」

 志穂は思わずうつむいた。

 カレンの言動は明らかに脈絡がなく、真っ当な思考が失われていた。恨みの強い死霊はああなってしまうものなのだろうか。大切だと思っていたような人に殺されてしまったら。──そしてその人を殺してしまったら。

 同じ霊でも、自分は違う、と思いたい。志穂は誰かに危害を加えようなどとは思わない。しかし──。

「……あの人の感情が、胸の中に流れ込んできたの」

 感情だけではない。おそらくは彼女が死んだ時の過去の情景もこの目に見えたのだ。

 死者は体を持たない故に、色々と影響を受けやすいとは、こういうことだったのだろうか。そう訊ねると、ラダは神妙な顔で頷いた。

「魂だけの存在であるせいなのか、死霊は、他の死霊や……時には生きた人間の思いや記憶をそのまま感じ取ってしまうことがある。そのせいだろう」

 そう言って、ラダは少し申し訳なさそうに眉を下げた。

「すまない。辛い思いをしただろう」

 志穂は首を横に振った。

 彼女が感じたのは、あのカレンという女性の痛みだ。志穂自身が辛いと感じたわけではない。それを無関係の志穂が辛いと思うことは、カレンに対して失礼な真似のような気がした。

 ラダはきちんと仕事をした。カレンが人を殺し、またあの執事を殺そうとした悪霊であることは確かで、その彼女を祓うのは正しいことだ。

 それでも消える寸前のカレンの恐怖の表情が、存在しない脳裏にちらついて離れない。

 この世界の死者が行くという沖つ国という場所が、優しく穏やかな場所であればいいと思った。もしそうならカレンも、向こうで少しは安らげるかもしれない。

 未だに船出を拒む死霊の身でそんなことを思うのは滑稽だと分かっている。

 だがそれでも、志穂はそう思わずにはいられなかった。



 裏町のあの老婆のところへ戻ってくると、ラダは淡々とした口調で仕事の完了を報告した。

 老婆は上機嫌になって、子爵から報酬が届けばすぐに知らせると請け合う。

 ラダは頷くと、用は済んだとばかりにさっさと踵を返そうとした。しかし、

「半端者の似非術士どもとは訳が違う。さすがは〈死の民〉の生き残りだね」

 老婆が口にしたその言葉に、青年は志穂が驚くほどの剣幕で振り返り、老婆を睨み付けた。その目は、志穂がこれまで見たこともないほど激しい怒りの色に染まっていた。

「その言葉を口にするな。以前にもそう言ったはずだ」

 目つきの苛烈さとは裏腹にこれ以上ないほど冷ややかな声音に、老婆はさすがに怯んだようだった。

 そしてそれをごまかすように、わざとらしい口調を作って呟く。

「おやおや、穏やかじゃないね。少し口が滑っただけじゃあないか」

 そんな老婆をしばらく睨み付けた後、ラダは小さく息を吐いて、今度こそ踵を返した。

 そのまま足早に立ち去ろうとする死霊術士の青年の背中に、老婆は最後にこんな言葉を投げかけた。

「……お探しの竜は見つかったのかい、ラダ?」

 ラダは答えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ