第四話 エテルベリ
志穂がラダという青年と出会ってから、もう十日以上が過ぎている。
日本とはまったく異なる世界、異なる国での旅や、死霊の身で過ごすことについては、まだまだ戸惑うことばかりである。だが十日も経つと、ある程度は慣れて心に折り合いを付けられることも少しずつ増えてきて、そうするとそれまで気にしていなかったことに対しても、疑問を持つ余裕が生まれてくる。
専ら志穂の心を占めているのは、ラダが何者なのか、という点についてだった。
志穂はこの青年について詳しいことを何一つ知らない。
知っているのは、彼が死霊を見たり触れたり対話することができ、また成仏させられること──こちら風に言えば『船出』させる力があるらしいこと。
概ね親切で誠実で真面目でたまに突拍子がなくて、少なくとも悪人ではないこと。
たったそれだけなのだ。
彼がどうしてあの山里を訪れていたのか、山里の人々とはどんな関係だったのか、そういうことも何一つ知らない。
死霊術士、と彼は言っていた。死霊たちを時に使役し、時に魂を鎮め、あるいは災いを呼び寄せる忌むべきものだと。
だが、志穂は今のところラダがそれらしく振る舞うところを見ていない。
旅路において、ラダは徹底的に無表情で、無口で、無愛想な態度を貫いていた。
他人と会話を交わすのは、宿を取ったり買い物をするときくらい。たまたま食堂などで隣り合った商人に話しかけられても、ほんの二言三言しか口にしないので、すぐに気まずい雰囲気になり、あちらの方から会話を打ち切っていく。
その反面、夜に志穂と会話を交わす際は、きちんと受け答えしてくれるし、稀に微笑みすら見せてくれる。
まるで、人と深く接することを避け、普段はあえて無愛想に振る舞っているようだった。
もし志穂が死霊ではなく、ちゃんと生きた少女のままラダと出会っていたら、彼はこんなにも親切にしてくれただろうか。そんな疑問すら思い浮かぶ。
無論、そんなことをラダに直接聞けるわけがない。
そして、もう一つ、聞こうとして聞けないままの疑問がある。
そもそもどうして志穂は地球とは異なるこの世界に呼ばれたのかという、根本的な疑問が。
ラダの言動を端々まで思い返してみると、志穂をこの世界に呼び出したのは〈山の民〉──あの廃墟と化した山里の人々で、そこには何か、少なくとも何の変哲もない中学生の少女を見て大喜びする程度には重大そうな理由があって、ラダもそれを知っていたようだ。
無論、いつものように、聞けば答えてくれるかもしれない。
しかし、例えよくある物語のように、志穂が彼らの救世主として呼ばれたのだとしてもだ。結局のところ、彼女はこの世界に何をもたらすことなく死んでしまった。今更呼ばれた理由を根掘り葉掘り聞いてもどうしようもなく、また到底納得できるとも思えなかった。そんなことで自分を故郷から引き離したのか、と思ってしまうに決まっている。
──どうか彼らを憎まないでやってくれ、とラダは言った。
志穂もできればそうしたいと思う。あのような惨劇を前にして、同じ被害者である人々を憎悪したくはない。そして、彼らを擁護した青年に対し、いらぬ悪感情を抱くこともしたくなかった。
ならばこのまま、呼び出された理由を知らないままでいた方がきっと良いのだろう。
だから志穂は今日も、様々な疑問と思いを胸にしまいながら、青年の後に付いていく。
二人が旅をしているアーフェルという王国は、この世界の中では豊かな大国なのだそうだ。大きな穀倉地帯の平野、材木の豊富な山地を擁し、南の内海沿岸には貿易港がいくつもあり、鉱山もあって、広い領土には人口も多い。環境に恵まれた国なのだと。
アーフェルの街に立ち並ぶ建物や、行き交う人々の様相は、概ね昔のヨーロッパの雰囲気によく似ている気がする。具体的にヨーロッパのどこの国の文化と似通っているのか、ということまでは志穂の乏しい知識では判別できないが、志穂とラダが今いる地方はどちらかといえば寒冷な方であるということだった。
「西の王都周辺はもう少し暖かい。この辺りは農業よりも、主に牧畜や商業で栄えている」
確かに、街道の周囲に広がっているのは畑よりも一面の牧草地であることが多かった。そこに何頭もの牛や羊の群れがいて、のんびりと草を食べている光景は、まるで絵本のようにのどかだ。牧草地のずっと向こうには深緑の森も見える。
日本にいた頃は色々な本やテレビ番組を見ては外国に憧れていたものだったから、こうして見知らぬ国の見知らぬ風景を眺めるのはそれなりに楽しい。それが美しい風景であれば尚更だ。色々なことを考えないようにすれば、海外旅行をしているようにも思える。
城壁に囲まれた丘の上の街、石畳の小道がくねる路地の角。
立派な教会の尖塔や、軒先に掲げられた鉄細工の看板。
木の骨組みが漆喰を塗った石壁の表面に表れている家屋に、赤茶や灰色の三角屋根。
どれも日本の平凡な田舎町では見ることができないものだ。
もっともアーフェルという国のすべてが観光地の写真のように綺麗なわけではない。通りかかる農村は大抵貧しげな雰囲気で、宿場町にはこの間のような泥棒が目を光らせている。街の道端には浮浪者や乞食がうずくまり、物乞いをして過ごしていた。
日本にもホームレスはいるし、志穂も何度か駅で見かけた覚えがある。だが、この国で浮浪者らしき人々を見かけない日はほとんどなかった。少し大きな街の通りなら必ず数名は堂々といて、通行人から憐憫を誘おうとしている。
さすがに強盗の類まで溢れているわけではないようだが、白い杖を盗まれて以来、ラダは以前よりも周囲に対する警戒心を強めているように見える。志穂もなるべく杖から目を離さないように努めた。また杖を取られてずるずる引きずられるのは御免である。
思い返せば、ラダの杖を盗もうとしたあの少年もひどく貧しげな身なりをしていたし、志穂よりも年下なのに盗みで生計を立てているようだった。
昔のヨーロッパに似たような国に対して、現代の感覚をそのまま当て嵌めるわけにはいかないかもしれない。それでも、アーフェルは豊かな国であるという説明、旅の最中に目にするのどかな風景との落差には、違和感を覚えずにはいられなかった。
そのことを口にすると、ラダの表情がわずかに険しくなった。
「……国が豊かで、土地柄に恵まれていても、すべての民がその恩恵を受けられるわけではない」
彼は珍しく厳しげな口調でそう言うと、それきりこのことについては口を閉ざしてしまったので、志穂もそれ以上訊ねることはできなかった。
「明日にはエテルベリという都市に着く。しばらくはそこに滞在することになるかもしれない」
ちょうど周囲に牛や羊しかいないときを見計らって、ラダはそんなことを言った。
「しばらくって、どれぐらい?」
「そう長居するつもりはない。せいぜい数日だ。その分、〈果て〉へ到着するのは遅れるが……構わないか」
志穂はこくりと頷く。
ラダも毎日毎日歩き続けていては身体に疲れが溜まるだろうし、休息も必要だろう。むしろずっと大丈夫なのかと思っていたくらいだから、文句などつけるはずもなかった。
「エテルベリって、どんなところ?」
「大きな街だ」
ラダはそう一言答えた後、さすがに説明不足だと思ったのか、すぐに言い足した。
「商業で栄えていることから、商都とも呼ばれる。住む人間も、出入りする者も多い」
「ラダもよく行くの?」
「ああ。……そうだな、ここ五年ほどは数ヶ月おきに立ち寄る」
この青年はどうも雄弁なときとそうでないときとで差が激しい。そのことがふと気にかかり、志穂は続けて、こう訊ねてみた。
「ラダは、喋るのは好き?」
すると青年は真顔でしばらく考え込んだ。
「……嫌いではない。だが、ずっと黙っているのも苦にはならない。喋る内容を思いつくときは長く喋るし、思いつかないときは喋らない、ただそれだけだ」
「私が質問をすると、いつもきちんと答えてくれるよね」
「シホは、質問をするのが好きだろう」
意外な返しに、志穂は思わずきょとんと瞬きをした。しかし、そう言われれば確かに、ラダと会話するときはいつもこちらから質問ばかりしていた気がする。
それは単に、今自分が身を置いている見知らぬ世界のことをもっとよく知りたいという思いからだったが、
「そして俺の答えにも真剣に耳を傾ける。……良い聞き手には、よく答えたくなるものだろう」
志穂はなんだか恥ずかしくなり、真面目な顔をしているラダから視線を逸らしてうつむいた。もう少し質問は控えめにすることにしよう、と心に決めながら。
二人がエテルベリに到着したのは、翌日の昼過ぎのことである。
エテルベリは北から南西へ流れる大きな川の中州に存在する街で、入るにはまず川にかけられた石造りの橋を渡らなければならなかった。
槍や鎧で武装した兵士が監視している横を通り過ぎ、頑丈そうな橋の上を渡っているのはラダだけではない。幌馬車を操る商人、野菜を担いだ農民に、いかつい甲冑を着込んだ傭兵など、色々な人々が橋の上を通り対岸を目指している。
ちらりと橋の下を見れば、川面には荷物を載せた船がたくさん浮かんでいた。
対岸の中州には、川岸に迫り来るような勢いでびっしりと建物が居並んでいるのが見える。中州が段々と近付くにつれ、数階建ての背の高い家屋がひしめき合うようにして建ち並び、煉瓦のような赤色の屋根が無数に連なる光景が視界全体に広がってきた。
橋を渡り終えると、すぐに広い通りに出た。
通りにはやはり馬車や荷車、そして大勢の人々が雑然と行き交い、ごった返している。
「わあ……すごい人」
志穂は通りを行くラダに付き従って、群衆の合間をすり抜けながら──時々本当にすり抜けたりもしながら──街中を進んだ。
どうもこの国には歩道と車道という区別がないらしく、歩行者は油断すると強引に先へ進もうとする馬車に轢かれそうになるのが日常のようだ。実際、志穂も何度か後ろから来た馬車に気付かないまま、すり抜けていった馬車の後ろ姿を見てぞっとしたことがある。
しかし、流石にラダは慣れた様子で、人混みの中をすいすいと進んでいく。馬車が近付いてくると無造作に脇へ避けてから、また何事もなかったように進むその姿はなかなか頼もしい。
騒がしい通りをどうにか抜け、狭い路地の一つへ足を踏み入れると、途端に静かになった。
左右を家屋の壁に囲まれた路地は薄暗い。屋根と屋根の合間からほんのわずかに差し込む陽の光が、まるでスポットライトのように路地の一部分だけを照らしている。
志穂はその光を辿るように、頭上を見上げてみた。
すると少女と青年の頭上、かなり高い位置の何もないところに人が浮いているのが見える。
志穂は一瞬仰天して立ち止まり、まじまじとそれを見つめた。
服装も顔立ちも、ごくごく普通の容貌の男の子だった。肌の色など、ラダよりもずっと健康的に見える。しかし、その人物は明らかに空中を浮きながら移動していたのである。
その少年は、遙か足下の志穂らには気付かない様子で、路地に面した建物の内部へ、閉じた窓から入っていった。無論、音もなくすり抜けるという方法で。
「どうした?」
怪訝そうに振り返るラダに、先程見たもののことを伝えると、
「それは死霊だろう」
と、彼はいともあっさりと答えて首を傾げた。
「しかし、それがどうかしたのか」
「どうかしたのかって……」
「人が多いところには、死者も多い。死者が多ければ、彷徨う死霊も多くなる。……今までの旅の中でもよく死霊を見かけたはずだが、気付かなかったか」
志穂は首を横に振るしかなかった。
──自分と同じ死霊が、他にもいる。
そんな当然のことを綺麗さっぱり忘れていたわけではないのだが、やはり霊というと何やらおどろおどろしい雰囲気を纏わせていたり、足がなかったり、身体が透けていたりして、とにかく『見れば分かる』ものだと思い込んでいた。
今の自分自身を顧みれば、そんな先入観が間違いであることにすぐ気付けたはずなのだが。
「……死霊って、傍から見ると、あんな風なんだ」
志穂は思わずそう呟いていた。先程見かけた死霊も、宙に浮いていなければ、普通の生きた人間だと思ったかもしれない。
「そうだな。慣れれば見分けられるが……大抵の死霊は生前と同じ、つまり生きた人間とそっくり同じような姿をしているものだから。実のところ、通りを埋めていたあの群衆も、すべてが生きた人間だというわけではない」
ラダはさらに志穂をぎょっとさせることを言った。
「ほとんどの者は気付かないし、目にすることもないが、死霊は人の住むところどこにでも紛れ込んでいるものだ。……それに近頃は、さしたる恨みや心残りのあるなしに関わらず、沖つ国へと船出できずに地上を彷徨い続ける死霊が増えている」
ラダの淡々とした表情に、ほんのわずかな陰が差した。
なんだか寒気のする話だと思った。もっとも志穂自身、その彷徨う死霊であることに違いはない。
志穂は複雑な心持ちで、引き続き路地を進む青年の背中を追った。
やがてラダは、ある小路に面した建物の前で足を止めた。建物の入り口の上には看板が掲げられているが、さすがに志穂もそこに記された文字を読むことまではできなかった。
ラダが扉を開けると、からからと鈴が鳴る。
扉の向こうは食堂になっていた。食事時ではないせいか、人影はほとんどない。
「いらっしゃい」
鈴の音を聞きつけたのか、店の人らしき濃い茶色の髪の女性が奥から顔を出した。二十代後半くらいの、化粧気のない、けれども美人だと一目で分かる女性だった。
彼女は入り口のラダに目を留めると、少し驚いたように声を上げた。
「あら、ラダじゃない! 久しぶりね、最近顔を出さないからどうしたのかと思ってたのよ」
ラダは無表情のまま軽く頭を下げると、
「泊まりたい。部屋はあるか?」
と、愛想のない態度でそう訊ねた。
どうやらここは、ラダの馴染みの宿屋だったようだ。女性は青年の態度にも慣れた様子で頷くと、てきぱきと宿帳を取り出して手続きを済ませた。
「いつもの部屋が空いてるわ。掃除もさっき済ませたばかりだから、すぐに休めるわよ」
「分かった」
慣れた様子で階段を登っていくラダに付いていく。
すると、三階にある部屋の前のところで、今度は男性と行き会った。
「おや、いらっしゃい。何月ぶりかな」
この人も宿の人なのだろうか。
男性は先程の女性と同じか、それより少し上くらいの年齢に見えた。髪も同じく濃い茶色、顔形もどことなく似ている。目の色は違うが兄弟なのかもしれない。
彼はまずラダを見て、それから彼の背後にいた志穂に視線を向けると、少し驚いたように目を見開いた。その顔はやはり先程の女性が浮かべていた表情とよく似ていた。
「珍しいこともあるもんだな、ラダがこんな可愛いお嬢さんと一緒だなんて。一体どういう風の吹き回しだい?」
「事情があって、一緒に旅をしている」
ラダは小声で答えながら部屋へ入っていった。
「へえ、ラダがねえ。こりゃ明日は雨だな」
そう言いながら、男性も部屋の中へと付いていく。
そして当の志穂は、半ば呆然と二人のやりとりを眺めていた。
男性は、明らかに志穂を見ていた。
志穂の姿をきちんと認識して、その上でラダと言葉を交わしていた。この旅が始まって以来のことだった。
「シホ。入らないのか」
小声で部屋から呼ばれ、志穂は慌てて部屋に足を踏み入れた。
あまり広い部屋ではない。だがラダが今まで泊まってきた宿に比べれば、遙かに快適そうな空間が広がっていた。
床はきちんと掃き清められ、寝台のシーツは洗い立てで、鼠の気配もまったくしない。日本では当然すぎるそのことがこの国ではいかに貴重であるのか、志穂ももう把握している。
「綺麗な部屋だね」
思わずそう言うと、先程の男性がにっこりと笑った。
「そうだろう。うちの宿の居心地は最高だからね」
志穂はまごつきながら男性を見上げた。やはり、この人には志穂の姿が見えているのだ。
ラダのように死霊が見える力を持つのだろうか。それとも、あるいは──。
「……紹介する。この男はジェフという。かつてこの宿の主人だった人物だ」
横からラダが口を挟んだ。それに応じて、男性もまた丁寧にお辞儀をしてみせた。
「死んでこの方十七年、この〈水煙亭〉を見守り続けている者さ。よろしく、お嬢さん」
こうして志穂は、この世界に迷い込んで以来初めて、自分以外の死霊と対面したのだった。




