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第三話 死霊の在り方

 数日が過ぎ、街道に人が増えてくるにつれ、青年は宣言通り恐ろしく寡黙になった。

 まるで傍にいる志穂が見えていないかのように、視線すらほとんど寄越さず、白い杖を片手に黙々と歩いている。

 仕方のないこととはいえ、喋れない相手と並んで歩くのは少々退屈で、寂しかった。油断すると、ラダと自分の立場も忘れて話しかけてしまいそうになり、慌てて口をつぐむこともしばしばである。

 そんな道行きの中で、自分がまったく疲労を感じていないことに気付いたのは、ラダが額に滲んだ汗を拭いながら息を吐くのを見たときだった。

 そういえば先日から何も口にしていないのに、空腹や喉の渇きを感じない。

 よくよく意識してみれば、暑さ寒さという感覚もなかった。

 夜になっても空気はぬるま湯のようにしか感じられず、花の匂いも意識して嗅がなければ分からない。ラダの外套が風ではためくのを見てやっと、この場に風が吹いていることに気付ける。

 目の前の景色がまるでテレビの中の映像のように、ただただ通り過ぎていく奇妙さ。

 ラダは黙々と旅慣れた様子で、朝から晩まで街道を歩き通す。

 そして志穂は、彼の隣を黙って付いていく。そんな日々が何日も続いた。

 確かに、気楽といえば気楽な状態かもしれなかった。少なくとも元の世界で生きていた頃の志穂なら、ラダの旅路についていくことは難しかったろう。とっくの昔に足を痛めて、青年のお荷物になっていたに違いない。

 実際、傍から見ているだけでも、ラダの旅路はかなり過酷なものに感じられた。

 ちゃんとした食事を取るのは朝と晩の二度、昼間はひとかけらのチーズやビスケットもどきと水だけを、わずかな休憩の合間に口にするだけで過ごす。

 そのちゃんとした食事も、大抵が濁った豆のスープとかちかちの黒パン、良くてベーコンが一切れ付いてくる、そんな程度で、現代日本人の目から見れば粗食もいいところだった。とても長旅の疲労を補ってくれそうな代物には見えない。

 服だってかなり薄汚れて継ぎ当てだらけの上、それを何日も着回しているようだ。別段青年がものぐさで不潔だというわけではなく、ちゃんと頭と手足は時々水で洗っているようだから、着替えの少なさと洗濯の手間の問題なのだろう。

 志穂なら、そんな生活には耐えられそうにない。こうしてずっとセーラー服の格好でいることすら違和感があるのに。

 ラダが特別我慢強いのか、それともこれがこの世界の人々の当たり前なのかはよく分からない。あるいは両方なのかもしれなかった。

 一方、志穂は空腹も疲労もなく、額に汗して苦労することもなく、ただただ青年の後を生まれたての雛のようにくっついていくだけなのだ。この状態に文句を言えるほど、図々しくないつもりである。

 しかし、世界を肌で感じることがないということは、日に日に現実感が薄れていくということでもあった。自分がまるでふわついた夢の残滓で、いつか跡形もなく消えてしまうのではないか──そんな言い知れない不安が次第に志穂を蝕みはじめた。


 志穂はその不安と退屈を紛らわすために、今の自分の状態、つまり死霊の身で何ができるのかということを模索しはじめた。

 街道を行き交う人々はもちろん誰も志穂に目をくれないので、ラダが道端で休んだり、あるいは用を足すために彼女の傍から離れている間、セーラー服の少女が一人でうろうろしていても注目されることはない。

 色々と試行錯誤した結果、ラダやあの白い杖以外のものにも、その気になればどうやら触れることができるらしいと気付いた。

 道に転がる小石に向かって何も考えずに手を伸ばしても、指先は何も捉えられずにすり抜けてしまう。だが、触ろうと強く意識してから触れば、小石を持ち上げることができたのだ。

 指先に伝わるざらついた小石の感触が、なんだかひどく懐かしかった。

 嬉しくて思わず小石を握りしめていると、

「ん? おい……あれ……」

「どうした?」

「目の錯覚か? 石がこう、ふわふわと浮いているような……」

 そんな会話が背後から聞こえてきて、志穂は慌てて小石を手放した。

 ともあれ、その気になれば物が持てるという事実は、志穂の心境を大いに良い方向へ傾けた。目の前を通り過ぎていくだけのようだった世界に干渉する術があるというだけで、なんだか地に足がついたような気がしたのだ。

(今なら、ポルターガイストの気持ちが分かる気がするなあ……)

 夏の心霊番組などで胡散臭く語られる怪しげな現象の話を、志穂はしみじみと思い出した。

 そのうち志穂は、霊体の在り方について考えを改めた。

 どうやら死霊にとっては、その気になる、つまり意識するということが重要らしい。

 何も考えていないと、志穂の感覚はろくに働かない。視覚と聴覚だけは普通に働いているものの、それだけではテレビの映像を見ているのと同じでしかない。さして意識せずに触れられるのはラダ本人と、あの白い杖だけだ。

 しかし、今この場には風が吹いていると気付いた途端、志穂の頬は吹き抜ける風の感触を覚えた。

 同様に、道端に咲いていた花の匂いを嗅ごうとした瞬間、どうして今まで何も感じなかったのかと驚くほどの強い香りが鼻腔をくすぐった。

 一方で、空腹や疲労を感じることはやはりない。本当ならそろそろ足が痛くなっているだろうな、と意識して考えてみたものの、それで足が痛くなってくることはなかった。

 どうも、感覚が働くのは外部からやってくる事象に対してのみのようだ。

 あるいは単に、自分にマイナスに働くことをちゃんと意識するのは難しいということかもしれないが。

 なかなか都合の良い性質のようでいて、意識しなければ何も感じない、何もできないというのは、それはそれで精神的に疲れるものだった。いちいちこれをしよう、あれをしよう、などと頭に思い浮かべなければならず、少し気が逸れればまたすぐに感覚が消え失せ、持ち上げた石も取り落としてしまうのだから。

 死霊の身で生きた人間と同じように過ごすことは、なかなか難しい課題のようだった。



 街道沿いにはいくつもの宿場町があり、ラダも夕刻になると宿に寄って部屋を取った。さすがにあのような野宿はそうそうしないものらしい。

 この宿も大抵おんぼろな安宿で、壁や床に何やら得体の知れない虫が這っていたり、鼠がうろちょろしているのを見るのはほとんど毎度のことだったが、ラダはまったく気に留める様子がない。

 お陰で志穂は、床の上から少し浮いた状態で眠る技を覚えてしまった。

 ──もっとも、立ったままぎゅっと目を瞑っていたら気付くと朝だった、という現象を、眠りと表現しても良いものなのかどうかは分からない。

 ともあれラダが部屋で一人になる夜は、志穂も周りを気にせず彼と会話を交わすことができた。といっても、朝から晩まで歩き通して疲れている青年を捕まえて長話をすることは憚られたから、ほんのわずかな時間、他愛もない質問を二、三投げかけるくらいだ。

「ラダさ……、ラダ、は、何歳なの?」

 ある日の夜、ふと気になっていたことを訊ねてみると、黒髪の青年は口元に手を当ててしばらく考え込んだ。そして、もしや不快な質問だったのだろうかと志穂が不安になるくらいの間を置いてから、こんな答えを返した。

「多分……十八か、十九。もしくは二十。正確なところは覚えていない」

 告げられた曖昧な年齢は、志穂が思っていたよりも若い。

 彫りの深い異国風の顔立ちだから日本人の目には大人びて見えるということを差し引いても、落ち着いていて動じない雰囲気から、一回りくらい年上かと勝手に思っていた。

「シホ、お前は?」

「中学の二年……じゃなくて、えっと、十四歳」

「そうか。十歳ほどに見えた」

 真顔で言われ、志穂は思わず肩を落とした。

 ラダは今まで、少女のことを小学生の子供のように見て、頭を撫でたり手を繋いだりしていたのだろうか。確かにクラスの中では前から数えた方が早い身長だったが、そうはっきり言われるとなんだか落ち込んでしまう。

 また、何故自分とラダは言葉が通じるのかと訊ねたこともあった。

 あまり思い出したくない惨劇の記憶の中では、あの山里の人々や金髪の少年の言葉がまったく理解できなかったのに、今の志穂はラダと会話することもできるし、他の人々が周りで語り合っている言葉を理解することも可能になっている。

「死霊を相手に、言語が障害になることはないものだ」

 ラダはそう答えて、少し困ったように眉根を寄せた。

「そうだな……俺にもはっきりとした理由は分からない。ろくに言葉の通じない異国でも、霊たちとは対話できた。そういうものなのだ、と片付けてきたが……」

 青年は志穂の問いに対して、できるだけちゃんとした返事をしようと考えているらしかった。彼は真剣に考える仕草をしばらく見せた後で、ゆっくりと言った。

「……まれびとにも適用できるのかは分からないが。死霊は見たいものを見、聞きたいものを聞くものだ。目や耳ではなく、その魂を通して、世界を感じる。ならば、異国の言葉の意味を解することも、相手が理解できるように思念として意志を伝えることも、容易いのではないか。相手と対話したいという意志さえあれば」

 志穂は黙って青年の言葉を反芻し、その意味を理解しようと努めた。

 目や耳ではなく、その魂を通して、世界を感じる──それはつまり、志穂がこうしてラダの顔を見つめていても、視覚が働いているわけではない、ということなのだろうか。

 同じように、聴覚を使ってラダの言葉を聞き取っているわけではないから、彼の口から発せられる音がいかに意味不明な言語であろうとも関係がないということなのだろうか。

 分かるような、分からないような、回りくどい理屈である。

 しかし、思い当たる節はある。

 志穂は意識すれば石に触ることができる。今風が吹いていると気付けば、風を感じることもできる。花の匂いを嗅ぐこともできる。そして意識しなければ、それらの感覚はろくに働かなくなってしまう。だがそんなものが、本当に感覚と呼べるのかどうか。

 死んだ人間に肉体はない。肉体がなければ感覚器も存在しない。

 眼球もなければ神経もなく、鼓膜もなければ唇だって本当はないのだ。志穂が着ているセーラー服だって、きっと幻のようなものに過ぎないのだろう。だから、すべてが錯覚であり、何か不思議な力で周囲の状況を認識しているのだとしても、おかしくはない。それこそその気になれば、振り返らずに背後を見ることだって可能なのかもしれない。

 ──ではラダと対話をすることを志穂の心が拒めば、その途端にラダの言葉は意味の分からない外国語として聞こえてくるのだろうか?

 そんな考えがふと頭を過ぎったが、実際に試す勇気はなかった。

「……ラダの話を聞いていると、死霊って何でもありの存在みたいに思える」

 そう呟くと、青年の顔にかすかな苦笑が過ぎった。

「実際のところ、その通りだからな」

「……そうなの?」

「肉体は魂に嵌められた枷である、と言った者がある。死霊にはその枷がない。ただ彼らは死霊であるが故に、生前の執着を捨てきれない存在であるが故に、五感の枷をわざわざ自身に課している。もはや肉体などないというのに、目で物を見て、耳で音を聞きたがる……でなければ、確かに死霊に不可能はないのだが、一方でそれはとても危ういことでもある……」

 志穂は淡々と語る青年を見上げた。

(でも、死霊は死霊なんでしょう?)

 思い浮かんだその言葉を、志穂は飲み込んだ。

 死霊は死霊。死者は死者。

 ──生者とは違うのだ、どれだけ気楽であろうとも。

 その思いは、澱のように志穂の胸の底を漂い、容易には消えそうになかった。

 

 

 そんな旅路の最中にある宿場町に立ち寄った際、ちょっとした事件が起こった。

 ラダが荷物を下ろすために、白い杖を傍らに置いたとき、そのほんのわずかな一瞬を狙った者がいたのだ。

 人混みに紛れて近寄ってきた小さな人影が、ラダの白い杖を掴んだかと思うと、あっという間にその場から逃げ去っていくのを、志穂は半ば呆然と見ていた。

 そして影が完全に見えなくなったところではっと気付き、

「ラダ、杖が──」

 と盗まれたことを伝えようとしたが、ぐいと体が引っ張られるような感覚に、驚いて思わず口を閉ざした。

 もちろん少女の体のどこも、誰かに掴まれてるようには見えない。

 だが、志穂はずるずるとラダのいるその場から引き離されはじめた。後ろ向きのまま、まるで見えない力に首根っこを掴まれて無理矢理引きずられているかのように。

 ばたばたと手足を動かして引力に抗おうとしても叶わない。

 驚いているラダの顔はすぐに人混みに隠れて見えなくなり、壁や柱や馬や人、色んなものが志穂をすり抜けていった。

 何だかんだで霊体に慣れかけていた志穂にとって、これは久しぶりに、心の底からぞっとする事態だった。

 通りを過ぎ、路地を二本ばかり過ぎたところで、ようやく志穂の体は移動を停止した。

 振り向いても、そこには何もない。ただ汚れた壁があるだけだ。

 人気のない路地に取り残され、志穂はしばらく途方に暮れた。先程の現象は一体何事だったのだろう。

 とりあえず気を取り直して先程の場所に戻ろうと思ったが、どうしてもそちらの方向に足が向かない。空気中に見えない壁があるかのように、進むことができないのだ。

 しばらく空気と格闘してから、志穂は諦めて踵を返した。反対側の方向なら、何なく進むことが可能だった。

 この先に何かがあるのだろうか。そんな予感めいたものが胸を過ぎる。

 あるいはそれは、志穂を引きずっていった力の大元かもしれない。

 しばらく悩んだ後、志穂は意を決したように目を瞑って、恐る恐る手近の壁にぶつかっていった。何の感触もなくするりと、壁の向こう側へ抜ける。

 そうやっていくつかの壁を通り抜け、やっと目を開くと、そこには倉庫の中らしき薄暗い光景が広がっていた。

 乱雑に木箱が並べられ、あるいは積み上げられ、迷路のようになっている。その箱越しに話し声が聞こえたので、志穂は興味を覚えてそちらの方へ近寄ってみた。

「……だって、見ろよ、これ!」

 幼い少年の声が響いた。

 そっと窺った先には、いかにも柄の悪そうな数名の男たちが車座になり、そしてその手前に志穂よりも幼い少年が座っていた。もしかしたら十歳にも満たないかもしれない、ぼろぼろで汚れた服を着たその少年は、見覚えのある白い杖を手に何やら力説している。

「石じゃなくて骨を丸ごと削ってあるんだぜ。きっと象牙だよ! 象牙って高いんだろ?」

「坊主、確かにこれは骨だろうがな。お前よりでかい象牙細工があるもんかい」

 男の一人がやれやれと呆れたように息を吐いた。

「どうせ猪だかなんだかの骨を継ぎ接ぎして作ってあるんだろう。第一、これがもし象牙だとしてもだ、そんな代物を道端で持ち歩く奴がいるかよ」

「そ、そりゃあ……そうかもしれねえけど」

「それとも坊主は、お忍びの貴族様の荷物を拝借したっていうのかい?」

 少年は悔しそうに眉を下げて首を横に振り、貧乏そうな旅人だった、と答えた。

 確かにラダの身なりは良いとは言い難く、とても貴族という言葉とは縁がなさそうだが、この泥棒少年よりはましな格好をしていると思う。

 ともかく、あの白い杖はラダにとって母の形見だという、とても大事な物である。見過ごすのは決まりが悪い。泥棒たちの手から、どうにかして杖を取り戻すべきだろう。

 志穂は悩んだ。

 泥棒たちに気付かれずに近寄ることは簡単だ、そもそも彼らには志穂が見えないだろうから。しかし、杖を少年の手から強引に奪ったとして、彼らの目には、杖がひとりでに浮き上がったようにしか見えないはず。突然の心霊現象に驚いて、腰を抜かすかもしれない。

 泥棒相手とはいえ、迂闊に騒ぎを引き起こして、ラダに迷惑がかからないだろうか。

 そんな風に志穂が悩んでいるうちに、少年と男たちは話し合いを終えたらしい。

 少年は白い杖を床に置き、代わりに赤銅色のコインを数枚、男から受け取って懐に納めた。そして数歩下がり、くるりと踵を返してその場から立ち去ろうとする。

 そのとき、志穂はとっさにあることを思いついた。そしてすぐさま実行に移した。

 積み上げられていた木箱の塔の傍を少年が通ろうとしたのと同時に、思いきり意志と力を込めて、木箱に体当たりしたのである。

 元々が乱暴に積み上げられていたものだ。加えられた力によって容易くバランスを失った木箱の塔は、派手な音を立てながら、おもちゃの積み木のように崩れ落ちた。

 一つが崩れるとその衝撃でまた別の木箱の塔も崩れていく。

 埃も大量に舞い上がり、倉庫はあっという間に騒音と塵埃の坩堝と化した。

「うわっ、何だ何だ」

「おい坊主、てめえか、箱を倒しやがったのは!」

「お、おれ、何もしてない! 勝手に崩れたんだよ!」

 そんな騒ぎを横目に、志穂は急いで床に放置されたままの白い杖を拾い上げた。そして男たちが気付かないうちに、急いで倉庫の入り口から外へ出た。あまりに急いでいたので、自分がほとんど飛んでいるのにも気が付かなかった。

 薄暗い屋内から日の当たる外に出た途端、胸が今更のように激しく脈打ちはじめた気がした。とっさになんて大胆なことをしてしまったのだろう。

 無論この動悸も錯覚に過ぎないのだろうが、容易には収まりそうになかった。

 志穂は震える腕で白い杖を抱えながら、倉庫からなるべく離れようと人気のない路地の隅をふらふらと歩いていた。

 するとしばらくして、

「シホ!」

 と、声を上げながらラダが駆け寄ってくるのが見えた。

 志穂はほっとして、手を振ってそれに応えた。

「無事だったか」

 傍に駆け寄って真っ先に問われた言葉に、こくりと頷きを返す。

「うん。良かった、どうやってラダと合流すればいいかと思ってたの。……はい、これ」

 差し出した白い杖を見て、ラダはわずかに目を見開いた。

「……取り返してくれたのか。ありがとう」

 杖を受け取った青年の唇の端には笑みが浮かんでいた。どうやら、杖を取り返して正解だったようだ。

「だが、一体どうやって取り返したんだ?」

 志穂が倉庫での出来事をかいつまんで語ると、青年の笑みが少しばかり歪んだ。まるで、吹き出すのを堪えているかのように。

「……シホは案外、その、元気だな」

「あの……やっぱりやりすぎだった? あの人たち、ラダが杖を持っているの見たら、変に思うかな」

「いや、大丈夫だ。それほどこの杖に価値を見出していたわけでもなかったのだろう? それなら杖が消えたことすら気付かないかもしれないな」

 志穂は安堵に胸を撫で下ろした。

 宿に戻るまでの道々、彼女は先程の奇妙な現象についての疑問を口にした。

「後ろから引きずられるような感じだったの。戻ろうとしても、そっちの方向には進めなかった。あれって、一体何だったんだろう」

「それはおそらく、この杖が盗まれたから──杖とシホの間に距離ができたからだろう」

 ラダは淀みなく答えた。

「シホはこの杖に取り憑いた、この杖から離れて遠くには行けない、とは以前言ったな。死霊が物に取り憑くということは、つまりその物から離れられなくなるということだ。今回の場合は、物の方がシホの傍から離れてしまった。だから……」

 まるで磁石のように、杖のある方へ引きずられていった。そういうことらしい。

「じゃあ……逆に私が杖から遠くに行こうとして、杖をずるずる引きずることはないの?」

「それはない、と思う。取り憑かれている対象、実体のあるものの方が、この場合強い。シホ自身が自由に行き来したければ、自分で杖を抱えていくしかない。……そうされるのは困るが」

 志穂は思わず考え込んでしまった。

 今、ラダと共に旅をしているのは、彼女自身がそう決めたからだ。しかし結局のところ、選択肢は他になかったのかもしれない。

 ラダは死霊には肉体の枷がないと言った。だが、これは明らかな枷だ。

 杖から離れなければ別段実害があるわけではないようだし、今回はそのお陰で杖を取り戻せたようなものだから、とやかく言う言葉は思い浮かばないが──なんだか、あまり気分は良くなかった。

 自分の身体が自分の意のままにならないというのは、やはり気持ちが悪い。

 傾きかけた思考を振り払うように、志穂は殊更明るい声を口にした。

「この杖はラダの大切な物なんでしょう? 私、そんなことしないよ」

 ラダは志穂を〈果て〉まで案内する。志穂はラダから離れず付いていく。

 たった十日やそこらでその約束を忘れてしまうほど、物忘れが激しいつもりはない。

「ああ。ありがとう、シホ」

 ラダは微笑んだ。

 黙々と無表情で歩いているときは、なんだか近寄りがたく感じる青年も、こうして笑う姿を見ると、近所の優しいお兄さんのように思えてほっとする。

 けれどその優しげな横顔も、人が来た途端冷たい無表情に覆われてしまうのかと思うと、少しばかり残念だった。

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