第一話 廃墟
まどろみの中で、志穂は波の音を聞いていた。
固く閉じられた瞼に響くその音は、何故だかとても懐かしい感じがした。
と同時に、ひどく恐ろしい感じもする。
波音に誘われて向こう側に行ったが最後、打ち寄せる波に足を取られ、あっという間に海の底へと流されて沈んでしまいそうだったから。
──こちらにおいで、と波音が呼ぶ。
──流れに身を委ねて。何もかも忘れて。
お前の在るべきところ、安らげる場所は波間にしかないのだと告げている。
志穂は動けない。
それでも波音は、少女を誘うように鳴り響き続けている。
その音を振り払って、目を開けた。
……目の前に人がいる。
肩幅からすると男性のようだ。継ぎ当てだらけの外套に身を包み、こちらに向けた背を丸め、項垂れながらその場に座り込んでいる。
その傍らには彼の所有物らしき白い杖と、革の包みが転がっていた。
細身の、しかし少女よりはずっと逞しいその背中をぼんやりと見つめながら、志穂は首を傾げた。自分がつい先程まで何をしていたのか、まったく思い出せなかったのだ。まるで、今ちょうど目が覚めたばかりであるかのように。
そもそも自分とは何だったろうか、という根本的な点に思考が及びそうになったとき、かすかな嘆息が耳に届いた。
「……もはや……」
低く掠れた青年の声は、少女の目の前にいる人物から発せられたものらしかった。
「一族も……竜も……父上、母上、俺はもう……」
ぽつりぽつりと呟かれる、断片的な言葉。
それを聞いていると、何故だろうか。声の主が抱いている感情が胸に直接流れ込んでくるようで、ひどく苦しくなる。
青年は深く絶望していた。
志穂には想像も及ばない、何かとても悲しい出来事に打ちのめされて、ただ一人孤独に嘆いていた。
「……あの」
堪らず、志穂は声をかけた。自分でもよく分からないが、これ以上彼を見ていられなかったのだ。
少女の存在に気付いていなかったのか、青年は驚いた様子で振り返った。
乱雑に切られた短い黒髪。見開かれた目の色は紫で、肌はおそろしく白い。彫りの深い顔立ちはとても日本人には見えないが、外国人の割には、先程の呟きはとても流暢な日本語だった気がする。
──日本語が通じるなら、まずははじめましてと言うべきだろうか。
いや、こんにちはの挨拶の方が先かもしれない。
声をかけたはいいものの、それからどうしていいか分からずに一瞬黙り込んでしまった少女を、青年は少し困ったような眼差しで見つめた。
少なくとも睨まれなかったことに勇気づけられた志穂は、とにかく挨拶をしようと口を開こうとしたが、先手を打ったのは青年の方だった。
「ああ……まだ、残っていたのか」
彼はそう呟くなり、志穂の身長ほどもある長さの白い杖を手に取って立ち上がると、その杖の先端を少女に向けたのだ。
「他の〈山の民〉は皆、船出した。お前も早く後を追うがいい。俺が手助けしてやるから」
志穂を見下ろす青年は無表情だったが、その口調は穏やかで、子供にやんわりと言い聞かせている保父さんのようでもあった。
だからいきなり杖を突きつけられても少しばかり驚いただけで、さほどの恐怖は感じなかった。とはいえ、彼が何を言っているのかちっとも理解できなかったのは確かなので、返答することもできずに目を瞬かせるしかなかったのだが。
「何か心残りがあるのか? いや、こんなことになったのだ、ないはずがないな。だが、お前も〈山の民〉なら、船出せずに死霊としてこちら側に残ることがいかに世界と魂にとって危ういことか、よく知っているだろう」
〈山の民〉。船出。──死霊?
不吉な言葉が耳に入ったそのとき、脳裏を何かが掠めたような気がした。
その一瞬に感じたひどい悪寒を振り払うように、志穂はくっついていた上唇と下唇を引き剥がして口を開けた。
「あ、あの……よく分からないけど、私、〈山の民〉なんていうのじゃない……です」
「何?」
青年は怪訝そうに眉をひそめた。しかしすぐに何事か考えるような顔をして、突きつけていた杖を下ろした。
「……いや、そうだな。確かにお前の容姿は〈山の民〉のものとは少し違っている。ならばお前は何者だ? まさかアーフェルの民ではあるまい」
またよく分からない言葉が出た。
アーフェル、外国の地名だろうか。それなら少なくとも自分には関係ない。
志穂は首を横に振ると、とりあえず名乗ることにした。
「ええと……私は、岸辺志穂、です。日本人、です」
言ってから、こんなにも流暢な日本語を喋る外国人なら、少女が日本人であることくらい分かるかもしれないと思ったが、青年はますます怪訝そうな顔になった。
「キシベシホ? それが名前なのか」
「えっ、あ、はい。岸辺が苗字で、志穂が名前で」
「シホ……」
真顔で名前を復唱され、志穂は少しばかり気恥ずかしいような気分になった。父や親戚以外の年上の男性に名前を呼び捨てにされたのは初めての経験かもしれない。
「ニホン人、といったか。ニホンというのがお前の国の名か?」
日本語を喋っているのに、日本を知らないとはどういうことだろう。疑問に思ったものの、口には出さずにこくりと頷く。
青年はしばらく考え込んでいたが、やがて得心したように顔を上げた。
「そうか……お前が、彼らの言っていたまれびとなのか」
柔らかな、けれどもどこか悲しそうな声だった。
「……まれびと?」
「この世とは理の異なる世界、大いなる巡りの輪の内側にある別の世界から来訪した客人のことだ」
その言葉の意味を志穂が十分に理解できないでいるうちに、青年は深くため息を吐いて続けた。
「まれびともまた異界の人ならば、魂もあってしかるべき、か。……〈山の民〉の人々はお前に申し訳ないと、すまないと言って泣いていた。どうか彼らを憎まないでやってくれ」
「……憎む?」
きょとんとした志穂を見て、青年はまた息を吐いた。細めた目に哀れみの色を宿しながら、淡々と言う。
「覚えていないか。お前は死んだ──殺されたのだ。おそらくは、この里を襲撃したアーフェルの騎士団の手によって」
ぽかんと口を開ける他に、一体どんな反応ができただろうか。
この人は何を言っているのだろう、と首を傾げようとして、不意に志穂は気が付いた。自分が今いる場所の状態について、視界に入っていたにも関わらず、まったく意識が及んでいなかったことに。
改めて見渡したそこは、一言で形容するなら、廃墟だった。
元は石造りの建物だったのだろう。中程から崩れた柱や、黒ずんだ石壁、やはり黒こげになった燭台らしきものが見える。そのような残骸ばかりが転がる広い空間の真ん中に、石床のステージのようなものが設えてあって、志穂と青年はその上に立っているのだった。
その石床もところどころが崩れたり剥がれていたり、焦げて黒ずんでいたりで損傷が酷く、ステージいっぱいに描かれた絵が何なのか判別することはもう不可能に近い。
頭上を見上げると、嘘のように清々しい青い空が見えた。
天井が崩落した形跡はなさそうなので、元から吹き抜けになっているのかもしれない。
いや、ここは確かに吹き抜けの空間だった、と志穂は不意に思った。思い出した、と言うべきかもしれない。自分はこの廃墟の建物を以前にも一度見たことがあると。
「ここは儀式を行うための大切な場所だったはずだ」
青年の声には、失われたものに対する哀悼の響きがある。
『あのとき』は夜だった。
このステージの上には満天の星空が輝いていて、篝火が焚かれていて──。
「だがアーフェルの騎士団はここを土足で踏み荒らし、鉄と血で汚した。……そして奴らは、死体も何もかもすべて焼き払っていった……」
その瞬間、志穂の脳裏に鮮明な光景が浮かび上がった。
奇妙な生き物が描かれた石床のステージの上。
歓喜する人々。
涙ぐむ老人。
突然の悲鳴。
赤い血。
堪え難い痛み。
美しい金髪の少年の微笑みと、そして──。
少女はその場にしゃがみ込み、顔を手のひらで覆った。
嘘だ、と掠れた声で呟いた気がする。
だって、死んだならどうして自分はここにいるというのだろう。
どうして目の前の青年と会話を交わしているというのだろう。
肩のところで切り揃えた髪も、手のひらに伝わる頬の熱も、セーラー服のスカートの皺だって、生きていた頃とまったく変わらないように思えるのに。
体のどこにも、血や傷の痕跡なんて見当たらないのに。
あるいはこれはまだ夢なのだろうか? 夢ならどんなに酷いことが起こっても、不条理でも仕方ない。夢の中でさらに夢を見ることもあると聞いた。
夢ならばいつか目が覚める。
けれど──吐き気すらするあのおぞましい記憶、矢で射抜かれた痛み、体を貫いた剣の生々しい衝撃、あれらのすべてが夢だとはどうしても思えなかった。そう思い込むには、あまりにも生々しい記憶だった。
不意に頭に手を置かれる感触がした。
しゃがんだまま恐る恐る見上げると、片膝を付いた姿勢の青年は、優しげな手つきで志穂の頭をゆっくりと一度だけ撫でた。
「辛いことを言った。だが、事実だ。シホ、お前の肉体は死を迎え、魂は地上に留まって死霊と化したのだろう」
「……嘘」
「嘘ではない」
「じゃ、じゃあどうして、あなたと触れ合えるの」
青年は少し気まずそうな顔をした。問われたくないことのようだった。
だがまずいことを言ってしまったかもしれないという引け目は、確証を求める心によって打ち消された。志穂は言い募った。
「わ、私、生きてます。死んでない。だって喋れるし、透けてないし、それに……」
「……手を」
言うが否や、青年は志穂の手首を掴み、半ば強引に石床の表面へと引っ張った。
叩き付けられる、と反射的に目を閉じたものの、予想した衝撃はいつまで経っても感じられない。恐る恐る目を開けた志穂は、ひっと声を上げた。
自らの手首が、石床に半ば埋もれていた。
それはちょうど、砂場に掘った穴に手を入れ、そこに砂をかけて埋めたときのようだったが、無論、固そうな石床でそのような芸当ができるはずもない。
志穂の腕は、どう見ても、物語に出てくる幽霊のように透けてはいない。
だが、少なくとも今の自分は真っ当な人間には不可能なことのできる状態にあるのだと──恐怖に近い驚愕の中で、ようやく彼女は理解しはじめた。
「驚かせてすまない。だがこうするのが一番手っ取り早いから」
青年は弁解するように言うと、志穂の手を石床の中から引き上げてから、掴んでいた手首を離した。
そして白い杖を握り直し、軽く持ち上げた。
「この世界の事情のためにお前を呼び出し、無為に死なせたこと、船守の一族に連なるものとして心から詫びよう。この上はせめて、死霊として世を彷徨い魂を摩耗させることなく、安らかに船出してほしい……」
青年の言葉は相変わらず難解だったが、志穂にも一つだけ理解できることがあった。
つまり、幽霊となったらしい少女に大人しく成仏してほしいと言っているのだ、彼は。
呆然と見上げる志穂の前で、青年は小さく何かを呟きはじめた。あまりにも小声なので詳しい内容は分からなかったが、抑揚のない詩のようなそれはまるで呪文のようだ。
物語の中に出てくる魔法使いは、杖を片手に呪文を唱えて不思議を起こす。
ならば彼は魔法使いなのだろうか。
哀れにも幽霊となった娘の成仏を手伝うような魔法が使えて、その力で有り難くも志穂を成仏させてやろうと呪文を唱えているのだろうか。
呆然としていた頭の中でその推測が形を成した途端、志穂は胸の内からふつふつと激しい感情が湧き上がるのを感じた。元々どちらかといえば大人しい性格で、ずっと平凡な日々を送ってきた十四歳の少女にとって、それは今まで滅多に感じたことのなかった怒りだった。
例え本当に自分が死んでしまって幽霊になったのだとしても、それでも志穂は今ここにいるのだ。それなのにこの青年は、死霊である志穂の存在すら消そうとしている。安らかに、などと優しげに言われても、到底納得のできるものではない。
衝動的な感情に突き動かされるまま、彼女はそれを行動で示した。
跳ねるように立ち上がると、長々と呪文を唱えている青年が持つ杖に飛びついたのだ。
「──な」
杖の先端を抱え込むようにして、驚く青年の手から強引に奪い取る。杖はひんやりと硬く、長さの割に重みを感じなかった。
男性の力で本気で抵抗されては奪取は叶わなかっただろう。だが、青年にとって少女の行動は完全に予想外だったようで、志穂が奪った杖を抱えたまま後ずさり距離を取っても、彼は呆然と彼女の行いを見ていた。
「勝手なこと言わないで!」
志穂は青年を睨み付けてそう叫んだ。
「死んだからって、幽霊だからって、そんなの関係ない! 私はここにいるもの、ちゃんとここにいるんだから! 消されたくなんかない……!」
かなり甲高い声で喚いたはずだが、喉が苦しくなったり、嗄れるようなことはなかった。その事実の意味を意識の外へ追いやって、志穂は杖を抱える腕に力を込めた。
青年の紫色の瞳と、志穂の瞳が真っ向からぶつかる。
やがて青年は目を伏せ、頭を垂れた。
「……すまない」
ぎこちないその言葉には、疑いようのない真摯さが込められていた。
「〈山の民〉でもアーフェルの民でもない、何も知らないまれびとの娘に、配慮のない振る舞いをした。せめて意志を問うべきだった」
「……聞かれても、私は、消えたくないって答えます」
それでも頑なな口調を崩せない志穂の答えに、青年は顔を上げると眉をひそめた。
「だが……死霊として彷徨うことは、死者にとって決して幸せな道ではない。それは確かだ。ましてこの世界はお前の生まれた世界ではない」
「……でも、私、消えたくない」
志穂は駄々をこねる子供のように首を振った。
「消えたくない。帰りたい。……私のまま、家に帰りたい」
そう、志穂には帰るべき家があった。会社員の父、主婦の母。ごく平凡で、何の変哲もなく穏やかで退屈で、時折うんざりすることもあったあの家が、あの暮らしが、今は途方もなく懐かしく感じる。
そんな少女をじっと見つめる青年が、彼女の言葉をどう思ったかは定かではない。
ただ彼はしばらく考え込んだ後、小さく息を吐くと、
「……分かった。お前の意志を無視して、船出を促すことは止めよう」
と言った。
「本当?」
「ああ。必要なら誓おう」
「……あの変な呪文、もう唱えない?」
「お前がそれを望まない限りは」
柔らかな口調の端々から、青年が志穂を気遣ってくれていることが伝わる。とても演技のようには見えない。
志穂はみっともなく喚いたことを少し後悔した。強引に杖を奪って、あんなに非難するような声を上げなくても、もう少しいい抗議の仕方があったかもしれない。
「だから、シホ、そろそろその杖を返してくれないか。それは母の形見なのだ」
そう言われて、志穂は慌てて杖を差し出した。まさかそんなに大切なものだったとは。
杖を受け取ったとき、青年は何やら顔をしかめた。
「……参ったな。これに憑いたか」
「え?」
「いや……」
青年は眉間に皺を寄せ、また何か考え込みはじめた。
そうして険しい表情で黙られると、青年の顔は少し怖く見える。何せ志穂よりも年上の、見慣れない異国の風貌の男性だ。こんなよく分からない状況でなければ、こうやって会話を交わすこともなかっただろう。そう考えると、この夢のような状況がますます不思議に感じられた。
「シホ。お前は家に帰りたいと言ったな」
問いにこくりと頷くと、青年は真剣な面持ちで志穂を見据えた。
「この世界とまれびとの世界の繋がりがどうなっているか、俺もよくは知らない。お前を呼び出した〈山の民〉たちとて、多大な苦労の末、一方通行の門をどうにか開いて呼び寄せたに過ぎない」
「……」
「だが……まれびとは本来、海のかなた、〈果て〉の向こうからやってくる存在なのだという」
言葉の意味を掴みかねて志穂は首を傾げた。
「〈果て〉……海……?」
「そう。アーフェルの西端、カイの海辺から遙か沖合、この世の〈果て〉と呼ばれる場所」
志穂は相変わらず分かりにくい青年の言動の意図を、じっくりと咀嚼するように考えた。
今までの会話を総合すると、ここは志穂の暮らしていた世界ではないらしい。
まったく別の、物語に出てくるような世界で、志穂はここではまれびとと呼ばれる存在なのだ。
容易には信じがたいことだ。何故言葉が通じるのかなど色々と疑問も浮かぶ。だが、自分が死んで幽霊になってしまったらしいという事実よりは、まだ受け入れやすい話でもある。
それに何より、ここが日本の自宅の近くではないことは確かだった。──一体どこの日本に、あんな惨劇が起きる場所があるというのか。
やがて彼女は淡い期待を込めて訊ねた。
「……その〈果て〉の、向こうに行けば、帰れるかもしれない?」
「保証はできない。どうにもならない可能性も高いから、あまり期待はしないでほしい。だが、俺に提供できる手掛かりはこれくらいだ」
不確かな言葉に、むしろ志穂は好感を抱いた。青年が何らかの意図をもって甘言を弄しているのなら、少なくともこんなあやふやなことは言わないだろう。
「〈果て〉に行ったことはある?」
「行ったことはないが、道は知っている」
青年の答えは正直だ。
悪い人ではない、と志穂は改めて思った。愛想の良い微笑みを投げかけてくれるわけでもないし、口にする言葉も少々説明不足だが、彼の眼差し、言動、動作にも少女に対する労りが感じられる。
勝手に成仏させられかけたことに対する不信感が完全に拭えたわけではないが、消えたくない、帰りたいと一人喚いたところで、元より見知らぬこの土地で行く当てもないのだ。なら。
──彼を信じてみよう、と志穂は思った。
蝋燭の火よりもか細い望みであっても、今はそれに縋るしかなかった。
「……私、その〈果て〉に行きたい」
志穂ははっきりとその意志を口にした。
無事に故郷に帰れたとして、既に死んでいるかもしれない身でどうするのか、その点について彼女はあえて考えなかった。帰ればきっとすべてが解決してめでたしめでたしになると、そう思っていたわけではないにしろ、このときの彼女はただ、帰りたいという強い欲求だけに突き動かされていた。
少女の返答を聞いて、青年はわずかに、本当にほんのわずかにだが、唇の端に微笑みを浮かべた。
「ならば契約を交わそう。シホ、俺はお前を必ず〈果て〉まで連れて行く。お前はそれまで、なるべく俺から離れることなく付いてきてほしい」
それは契約と呼べるのだろうかと、中学生の志穂でも疑問に感じるところだった。わざわざ付いてきてくれなどと頼まれなくても、志穂は青年に付いていくしかないのに。
「付いていくだけでいいの?」
「ああ」
「他に何か……、思いつかないけど、何かしなくてもいいの?」
「いや。お前のようなか弱い娘に、代償を求めるほど無体ではないし、困ってもいない。しいて言うなら、俺が何か忠告したときは、少し耳を傾けてくれると助かるが」
志穂は少しばかり赤面する思いだった。親切に申し出てくれた人にわざわざ代償のことを訊ねるのは、かなり失礼な振る舞いだったかもしれない。
第一、ただの中学生の娘にできることなどたかが知れている。
「気にするな。付いてくると約束してくれるだけで、俺にとっては十分だ。この杖に取り憑いたまま、どこかに行かれると困るからな」
どういう意味かときょとんとする志穂に対し、青年は肩をすくめるだけですぐには答えなかった。彼はしばらく考える素振りを見せてから、
「……死霊は概して曖昧な存在だ」
と、そんなことを口にした。
「故に彼らの多くは、せめてもの宿り木を得ようとして、何かしら実体のあるものに取り憑く。土地、人、思い出の品……多くは死者が生前執着していたものだが、時に例外もある。まれびとであり、この世に縁を持たないお前なら、尚更だな」
「ええと……」
彼が何を言わんとしているのか、志穂にはさっぱり分からない。
「つまり、お前はあのとき強い意志と共にこの杖を抱え込むことで、俺の杖に取り憑いた形になったのだ。自覚はないようだが」
どういう反応を示せばいいのか、志穂は本当に分からなかった。
自分が死霊、幽霊と呼ばれる存在であることも、まだ受け止めきれていないのだ。急に取り憑くなど言われても困る。何だか本当に、物語の幽霊みたいではないか。
「そうそう取り憑く対象は変えられない、と思う。お前はしばらく、この杖から離れて遠くへ行くことはできないだろう。俺は形見を捨てる気はないから、どうしたってお前と共に行くほかない。……どうせ俺にはもう行く当てはないし、道案内でも目的ができるのは嬉しい」
利害の一致だ、と青年は至って真面目な顔つきで言う。
「えっと、それなら……ありがとう、ございます。よろしくお願いします」
志穂がおずおずと礼を言うと、青年は軽く頷いた。
「他に何か質問はあるか? 俺はあまり気が利かないし、言葉も足りないとよく言われる。お前もこの世界のことはよく知らないだろう」
確かに色々と疑問はある。彼が今まで口にした数々の言葉だけでも、説明が欲しいものはいくつもあった。
しかし、志穂はそれよりも、一番大切だと思われる問いを選んで口にした。
「あの、あなたの名前は?」
青年は少し驚いたように目を瞠ると、すぐに苦笑した。
「……肝心なことを忘れていたな。俺はラダという」
「ラダ、さん?」
「ラダでいい。丁寧な言葉もいらない」
そう言うと、青年はふと無表情に戻って、こう続けた。
「人は俺を死霊術士と呼んでいる。死霊たちを時に使役し、時にその魂を鎮め、あるいは災いを呼び寄せる忌むべきものだと」
物騒な言葉が冗談なのか本気なのか、それとも皮肉なのか判別できずに志穂がまごついているうちに、ラダは脇に置いてあった荷物を背負うと、急に歩き出した。
志穂は慌ててラダの後を追おうと足を動かし、石床の上を駆ける。石床が途切れて段差になっている箇所に気付いたときには、もう勢いよく足を下ろしてしまっていた。
しかし志穂は転ばなかった。傾くことすらなかった。
何故なら志穂の足は、危ないと思った瞬間、ぴたりとその場に止まったのだから。
──段の表面よりやや高い位置、何もない空中で、重力の何の抵抗もなく。
つまりは片足で空中の見えない段を踏みしめた格好のまま、無様に硬直してしまった志穂に気付き、ラダが踵を返して戻ってきた。
彼は少しため息を吐くと、混乱と恐怖がない交ぜになった目で青年を見上げた志穂の手を取り、やんわりと引っ張った。
自然、つられて足を前に動かさなくてはならなくなる。
いや、もしかしたら足など動かす必要もなく、その気になればふわふわと宙に浮いて移動できるのかもしれない。ただ十四年生きて培った常識が、歩くという動作を捨てきれずにいたのだった。
とはいえ忙しなく動かしているつもりの自分の足が今ちゃんと地に着いているのか、それとも宙に浮いているのか、はたまた先程のように地面に半ば埋もれていたりするのか、足元を見て確かめるのは怖い。
だから志穂は前を行く青年の背に負われた革の荷物や、視界の両端を流れていく周囲の光景、そして繋がれた手から感じる青年の体温や、骨張った冷たい指先の感触に意識を向けた。
(……これも、錯覚なのかな)
石床にきちんと両足をくっつけて立っているという認識が思い込みであったように、手から伝わるこの暖かさも、勘違いに過ぎないのだろうか。
青年と少女は手を繋いだまま、石の廃墟の外へ出た。
廃墟のすぐ傍には広場と思しき空間があったが、何故か黒ずんだ薪の燃え残りが散らばり、広場の中央の地面は奇妙に盛り上がっている。
ラダはその盛り上がった地面を避けて進んだ。
広場の先に広がっているのも、やはり廃墟と化した家屋が連なる無惨な光景だった。
家屋はほとんどが木造で、石造りの建物は先程まで二人がいたあの広い建物だけのようだ。家屋は例外なく黒こげで、打ち壊され、往時の姿を想像する余地もないほど原型を留めていないものもかなり存在した。
そこかしこから、まだ細い煙が立ち上っている。
焼け残った家の壁に、矢が突き刺さっているのも見える。それも一本や二本ではない。
土を固めただけの道端に落ちている刃の破片らしきもの、その表面に赤黒い染みが散らばっているのに気付いて、志穂はぞっとした。
ここにはかつて、小さな村があったのだろう。
狭い土地の中で寄り添い合うように、ささやかな規模の家々が立ち並び、そこで多くの人々がささやかな生活を営んでいたに違いない。
「どうして……」
それ以上言葉を続けられず、志穂は口をつぐんだ。
テレビの中の映像でなら、遠い外国で起きた紛争の光景を見たことは幾度かある。それを見て、可哀相にとか、どうして戦争はなくならないんだろうとか、そういう他人事めいた同情心は抱いても、自分自身がそのような場所に身を置くことなど考えもしなかった。
しかし今、志穂は、明らかに焼き討ちに遭った村の真ん中にいる。
ここに暮らしていた人々は──石床の上で唖然と立ち尽くしていた志穂を歓喜の声で迎えた人々、大仰に涙ぐんでいた人々は、もういない。
ここにいるのは、死霊になってしまった志穂と、親切な黒髪の青年だけ。
「……アーフェルという国は、従わぬ民に容赦しない。近頃は特にそうだ。〈山の民〉は迫害を逃れてこの山里に長く住みついていたが、とうとう彼らもこんなことになってしまった」
心なしか青年の声も暗い。
アーフェル。それがこの村に惨劇をもたらした存在の名。
おぞましい記憶の中で最後に目にした、あの金髪の美しい少年の顔が浮かんで消える。
正直なところ、自分を取り囲む様々なことにまだ実感が湧かない。だから胸の奥の奥で渦巻くようなこの感情を、恐怖と呼ぶべきか、それとも怒り、あるいは憎しみと言い表すべきなのか、志穂には答えが出せなかった。
やがて二人は、村の入り口まで行き着いた。
村はぐるりと石垣で囲まれているらしく、その切れ目のところに、小さな石の門らしきものが設けられている。
アーチ状の石の門には、下から上まで隙間なく彫刻が施されていた。
門柱に絡みつくような格好で彫られたその生き物は、一見すると蛇のようだ。しかしちゃんと前足があり、後ろ足があり、背には翼らしきものまで生えていたので、少なくとも蛇ではないのだろう。
「竜だ」
ラダは簡潔にそう言って、それ以上を言わなかった。
門の『竜』は、鱗に覆われたうねうねと長い胴体や尾を持ち、背中には蝙蝠に似た翼を生やしていた。その翼はざっと数えただけでも五対はあった。
彫刻を見上げていた志穂は、不意にある光景を思い出した。
「あの、石床のステージに描いてあった絵……」
ひどく抽象的な描き方だったので、初めて見た時は何か生き物が描かれているらしいということしか分からなかった。だが今思い返してみると、長い胴や数多い翼など、形がこの彫刻の竜によく似ている気がする。
「祭壇のことなら、あれも竜を描いたものだと思う」
ラダは断言しなかった。
彼もすべてを知っているわけではないらしい、と思ってから、志穂は違和感に首を傾げた。
ここに暮らしていたのは〈山の民〉。青年の口ぶりからすると、彼は〈山の民〉ではないらしい。おそらく、この村が襲撃に遭い、村人たちが死んでしまって、犯人であるアーフェルの騎士団とやらも引き上げた後にやってきた──そんなところだろうか。
しかしラダは、〈山の民〉やこの村のことについて、ある程度の知識を持っているようだ。村人ではなくても、親戚か何かで、以前から出入りしていたのだろうか。確か彼は先程、一族がどうのと言っていた気がする。
だから、彼はあんなに絶望していたのだろうか。
ラダの声を最初に聞いたときのあの胸の苦しさを思い出し、志穂はなんともいえない気分になった。
「まれびと、来たりて、竜を呼ぶ……か」
不意にラダが何か呟いた。
志穂が首を傾げて見上げると、彼はまるで自嘲するように唇の端を歪ませ、静かに首を横に振った。
「いや。……そろそろ行こう」
促され、志穂は竜の胴体の下を通り、門を潜り抜けた。
その先は、切り株だらけの荒涼とした風景がしばらく続いている。大勢が踏み荒らした形跡のある小道を傾斜に沿って下っていくと、やっと山らしい、緑の濃い木々の連なりが見えた。
ラダは最後に一度だけ、遠くなった村の門の方を振り返った。
そのとき彼が口の中で呟いていたのは、惜別の言葉か、それとも祈りの言葉だったのだろうか。
志穂は問うことなく、ただ暖かな感触にすがるように、繋いだ手を握り返した。