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第十六話 〈死の民〉

 小高い丘の上に築かれた灰色の城塞が少しずつ遠ざかり、その姿が小さくなっていくのを、志穂は馬車の格子窓越しに見つめていた。

 思えば、あの城を最初に見たのも馬車の中からだった。

 リステスに杖を奪われ、彼に怯えながら同じ馬車の中で過ごしていたあの時から、一体何日が経ったことか。

 ──こんなことになるくらいなら。と、志穂は思わずにいられなかった。こんなことになるくらいなら、城に到着するよりも前に勇気を出して、多少手荒な真似をしてでも、リステスからどうにかして杖を奪い返せば良かった。そうすればラダが城に来ることもなく、リステスの従者にさせられることも、怨念の蛇と相対することもなかったのだ。

 もっとも、志穂たちが城に来なくても、あの城にロイのような怨霊がいる限り怨念は溜まり続け、結局あの蛇は出現していただろう。そしてラダが蛇の出現を知れば、彼はきっと、自分のできる限りのことをしようとしただろう。

 リステスらを庇い、倒れるまで力を振るって、怨念たちを船出させたように──。

 志穂は格子窓の向こうの遠景から目を逸らし、馬車の内部に視線を転じた。

 暗く、狭く、リステスが乗っていた馬車とは雲泥の差のある内装の箱馬車である。

 馬車の内部が陰鬱なくらいに暗いのは、開口部が小さな格子窓一つしかなく、外の光がほとんど入らないからだ。護送用の馬車らしく、出入り口も頑丈な錠前で閉ざされている。

 人一人がようやく横たわれる程度の狭い空間に薄っぺらい毛布が敷かれ、その上に黒髪の青年が眠っている。力なく投げ出されたその足には鉄鎖の鳴る足枷があり、両手にも手枷が嵌められていた。生気の感じられない痩せた頬の傍らに例の白い杖が転がり、馬車の車輪から伝わる振動によって小刻みに揺れている。

 ラダは今や、罪人だった。

 

 曰く、死を操る悪魔たちの生き残り。

 十年前、王と教会の命により根絶やしにされたはずの忌まわしい民。

 異端中の異端、災いを呼び寄せる者──〈死の民〉。その事実は、大概のアーフェル人にとって恐れるべき事柄であるらしい。

 ラダを糾弾したあのグレアムという男は、最初、ラダを城で処刑するように主張したが、それにはリステスが賛成しなかった。その代わり王子は、ラダを西の王都へ連行し、王の御前で処遇を問うことを提案したため、ラダ本人はまだ意識すら戻らない状態にも関わらず、こうして狭苦しい馬車に詰め込まれて運ばれている。

 馬車の周りは騎士団の一隊によって取り囲まれ、罪人が逃げ出さないように見張られていた。

 隊列の少し離れた先には、リステスやグレアムらが乗った馬車が車輪を回しているはずだ。彼らも西の王都への旅に同道すると聞いている。

「ごめんね。本当はこんな騒ぎにするつもりはなかったんだけど」

 城を出発する前、リステスは微笑を唇に浮かべながら言ったものだ。

「安心して、道中ではそんなにひどい扱いをされないようにしてあげるから」

「道中では、って……じゃあ、王都ではどうなるの?」

「さあ。父上のお考え次第かな。どっちにしろ、あの状態のまま城に置いていくわけにもいかないし」

 それには志穂は反論できなかった。

 ──怨念の蛇が人々の前に現れたあの日、ヴィルフォート城内で死んだ人間は十人を下らなかったという。

 皆、生気を抜かれたように衰弱して、ほとんど干涸らびた状態の死体もあれば、何かに溶かされたように不自然に下半身が消えている死体もあったそうだ。志穂もあの中庭で、幾人かの死を目の当たりにしている。彼ら犠牲者の霊を新たに城で見かけなかったのは、おそらく、肉体の死とともに魂を蛇に喰われてしまったからなのだろうと思う。

 かろうじて死を免れた人々の中にも、まだ起き上がれない状態の者が少なからずいた。

 ──それでも、もしラダがいなければ、彼が限界まで力を振るわなければ、犠牲者はもっと多かったはずだ。

 なのにその功労を称えられることはなく、それどころか、ラダをあの騒ぎの元凶とすら見る風潮すら城にはあった。

 忌まわしい民が城に入り込んでいたからこそ、あのような化け物が出てきたのだと。

 だから大勢の人間が死んだのも、〈死の民〉のせいに違いないと、事件の日から城を出立する今日までの短い間、城の人々は好き勝手に言い合っていた。

 グレアムが〈死の民〉について悪意のある言説を城中に触れ回ったことも大きな要因だろう。だが何より、不可解な恐怖を味わった城の人々にとって、事件に対する怒りをぶつけられる都合の良い存在を求めずにはいられなかったという心理的な問題が一番の要因のようだ。

 ただでさえ城にやってきて日が浅く、下働きから王子の従者になったことで風当たりの強かった青年だ。あのままヴィルフォート城に残っていたら、人々の嫌悪や憎悪が直接的な危害の形で及んでいた可能性もある。

 枷を嵌められ、牢獄のような箱馬車に押し込められても、少なくとも今のところそれ以上の乱暴を加えられることがないのは、リステスのお陰なのだろう。

 だが、彼は決してラダの味方ではないし、ましてや志穂の味方というわけでもない。どうやら彼は元々、従者にしたラダを連れて王都へ行くつもりだったようなので尚更だ。

 きっと、リステスにはリステスの思惑がある。

 彼が王都に到着した後、ラダをヴィルフォート城で起こった事件の犯人として糾弾しないと、どうして言い切れるだろう。


「……う……」

 ごくかすかな呻き声が、車輪が跳ねる音に重なって聞こえた。

 はっとして向けた視線の先で、今し方まできつく閉じていた青年の瞼がゆっくりと持ち上がった。

「ラダ、気が付いたの?」

 抑えた声音で呼びかける。

 焦点の合わないぼやけた紫色の目が志穂の方に向けられた。

「……シホ。無事か?」

 本来誰よりも気遣われるべき人物に気遣いの言葉をかけられて、志穂は一瞬返答に詰まった。

「うん。無事、だよ」

「蛇は」

「消えたよ。みんな、正しい方に行ったと思う」

 そうか、とラダは安堵の息を吐いた。

 わずかな身じろぎに応じて、足枷の鉄鎖が耳障りな音を立てる。そこで彼は自らを戒める枷の存在に気付いたのか、横たわった姿勢のまま、両腕を手枷ごと軽く持ち上げる仕草をした。

 そうして手枷を眺める目は静かで、動揺はほとんど見られない。まるで、いつか自分がこうなることをずっと昔から覚悟していたかのように。

「ここは……馬車の中か。どこに行くんだ?」

「……王都だって。王宮の、王様の元に連れて行くって……リステスが」

「そうか……」

 やはりラダに驚きはなく、むしろ納得すらした様子だ。

 彼は手枷ごと腕を下ろすと、そこで申し訳なさそうに眉をひそめた。

「すまない、シホ。〈果て〉に連れて行くと約束したのに、こんな体たらくで」

 志穂は首を強く横に振った。

「……逃げればいいよ、ラダ。それで、また旅を再開すればいいよ。たくさんの人たちを助けたのに捕まるなんて、絶対におかしいもの」

 力を込めて言う。

 志穂とて、ラダが足枷や手枷を嵌められた挙げ句に馬車に押し込まれるのを、ただ漫然と眺めていたわけではない。青年の枷や、馬車の出入り口を閉めるために使われた鍵がそれぞれどんな形で、どの騎士が鍵を預かっているか覚えている。金庫にしまわれたわけではないから、こっそり鍵を持ち出すことも不可能ではないはずだ。

 城に留まることになったそもそもの原因の杖も、今度は王子に奪われることなく、ラダの傍に転がっている。

 〈死の民〉が使っていた杖ということで、気味悪がられて捨てられそうになったのをリステスが止め、「傍にあった方が彼も早く元気になるかもしれないね」と言ってこの馬車の中に放り込んできたのだ。あの王子の思考回路はまだ予測がつかないが、お陰で志穂は依り代を手元で眺めることができる。

 問題は馬車を取り囲む騎士団の一隊だが、夜を待ち、暗闇に紛れれば見張りの目をごまかせるかもしれない。

 だが、ラダは志穂の提案に賛成しなかった。

「……いや。自分の体のことはよく分かる。枷がなくても、しばらくまともに動けそうにない」

 と言う通り、ラダは、馬車の振動を背に直接受けながら、上体を起こそうとはしなかった。手足は少し動かせるようだが、胴体の方は不自然なくらいにぴくりともしない。

「こんな状態で逃げ出してもすぐに捕まるだろう。……聖ユオル騎士団は、逃げ出そうとする人間を捕らえることには長けているだろうからな」

「じゃあ、ええと、私がラダを支えて……せ、背負うとか……」

 エテルベリで、悪霊のカレンが気絶した執事をまるで操り人形のように扱っていたことを思い出す。さすがにあんな真似をする気はないが、その気になれば、ラダの不自由な体を助けるくらいはできるのではないか。

「それも難しいだろう。誰かに見咎められれば余計な騒ぎを引き起こす。例え夜陰に紛れてこの場は逃げ切ったとしても……追っ手の及ばない場所までずっと志穂に運んでもらうわけにもいかないだろう」

「それは、そうだろうけど……一旦どこかに隠れて、動けるようになるまで待つとか」

「そう都合の良い避難先はないな」

 ラダはそこで苦々しい表情を口元に浮かべた。

「十年前に逃げた時は、〈山の民〉の里に身を寄せたこともあるが。無論、そこはもう存在しない。国に素性が露見した以上、〈水煙亭〉にももう近付けない。ヘイゼルたちに迷惑がかかる」

「あの、ケル婆って人は? ラダのこと、知ってたんでしょう?」

 彼女の家で警備隊に連行され、杖を取り上げられたことが今の状況に繋がっているわけだが、この間ラダに聞いた話では、あれはただ間が悪かっただけらしい。

「ケル婆は俺の素性を知った上で仕事の口を与えてくれたが、それは俺を王や教会に売るよりも、死霊術士としての力を利用した方が利益になると判断したからだ。こうなった以上、自身も捕まりかねない危険を犯してまで匿ってくれるかどうかは怪しい」

 淡々とした口調で、当たり前のことのように彼は言う。

「今は、回復を待つしかない。……逃げ出すとしたら、この体が、王都に着くよりも前に動けるようになったら、だな」

 逃げ切れる見込みもないのに下手に逃げて、また捕まってしまったら、今度はさらにひどい待遇になるだろうということは理解できる。

 しかし、もし回復しなかったらどうするのか、志穂は訊ねられなかった。王宮でどんな処遇が待っているのか、ラダには想像がついているのか、とも。

 もっとも悪い想像なら、志穂にだっていくらでも思いつける。

 グレアムはラダを即刻処刑しろとまで言っていた。

 何より、十年前に根絶やしにされた、という言葉が文字通りの意味なら、アーフェルのお偉方にとってラダの一族の命は、根絶やしにして惜しくない程度の価値しかなかったということなのだから。

「それより……シホ」

 そんな彼女の思考を遮って、ラダは不意に真剣な面持ちで志穂を見上げた。

「こうなった以上、今のうちに、話せることは話しておきたい」

 志穂は表情を引き締めて青年の言葉を受け止めた。

 こんな状況のただ中で、今のうち、とはあまり穏やかではない表現だ。

「どんな、話?」

「色々な話だ。一族のこと……〈山の民〉のこと……あの蛇と、竜のこと。……本当はきっと、最初から話しておくべきだったこと」

 がたん、と馬車の車輪が一際跳ねて車体を揺らした。

 足枷の鎖がじゃらりと鳴り、転がり続ける車輪の音と不協和音を奏でる。

「俺の一族がアーフェル人にどう呼ばれ、どう扱われているか、シホも大体のところは見聞きしたのだろう?」

「……うん」

「そう、アーフェル人は、俺たちのことを〈死の民〉と呼んでいた」

 かつてエテルベリの裏町で、ケル婆にそう呼ばれた時のあの激しい怒りを、ラダは表に出さなかった。ただ不自然なほどに淡々と、すべての感情を内側に押し込めたような平坦な口調で続ける。

「だが、俺たちは、自分たちのことを〈海辺の民〉と自称していた。かつてカイの海辺に暮らした、土地を持たない放浪の民。──〈海辺の民〉と」

「〈海辺の民〉……」

 〈死の民〉という侮蔑のこもった呼び名より、ずっと彼に相応しい名だと志穂は感じた。死者を海のかなたへ、沖つ国へと船出させる力を持つ一族に似つかわしい呼称だと。

 だが、少女はもう一つ似たような呼称を知っている。

「……それは、〈山の民〉と関係がある?」

「彼らも俺たちも、元は一つの一族だった。それがいつしか山に隠れ住む者と、放浪する者とに分かれた。だが元は同じ──竜の船守の一族だ」 

 竜の船守。

 不思議な響きのその言葉は、志穂の心に違和感なく染み渡った。


 ラダの祖先──竜の船守の一族はかつて今のアーフェルの西岸に集落を築き、その名の通り竜の船に仕え、その世話をしていたという。

 竜の船は世界を巡り、死者の魂を運ぶ存在。

 海辺の船守の集落は、いわば竜の船にとっての母港のようなもので、竜の疲れや傷を癒す役目を担い、時には竜に同行して死者の船出を助けることもしていたらしい。一族が死霊術に長けるのも、死者の魂を運ぶ竜の船を少しでも補佐するためだったそうだ。

 だが、アーフェルの建国期、彼らは主を失った末に土地を追われた。

 一族は分裂し、山に新たな里を築いた人々が〈山の民〉になり、海から離れた土地に定住せず放浪の道を選んだ人々が〈海辺の民〉になった。

「ラダの先祖が仕えていた竜と、竜殺しの王の伝説の竜は、同じなの?」

「そう考える者は多かった。だから尚更、俺たちはアーフェルに従うことを嫌ったし、ギイ・ユオルを聖人とする教会の教えも受け入れなかった。……国に従わず、教えを受け入れず、土地に縛られず、死霊と深く関わる力を持つ俺たちを人々は恐れ、忌み嫌って〈死の民〉と呼んだ」

 それでも、ラダの一族は放浪を止めず、かつて失われた彼らの本当の主を探し続けたのだそうだ。

 竜を取り戻すことを、一族の悲願として。

 志穂は、数百年前の先祖が何をしていたかなど知らないし、さほど興味もない。先祖が武士だろうと農民だろうと、岸辺志穂の家がごく平凡な一般家庭であることに変わりはないからだ。

 だからラダの一族について、心から共感することは叶わない。

 それでも、これだけは分かった。

 数十年前にヴィルフォート城で処刑されたという〈死の民〉の話は決して例外ではなく、数多の船守の一族が道半ばに倒れたのだということ。そして、ラダもまた、彼らの思いと同じものをその胸に抱えているのだろう、ということだけは。

「弾圧に遭い、差別に遭った。聖ユオルと竜との関わりを調べるうちに消息を絶った者、罪を着せられ殺された者もいれば、一族であることを捨てた者もいた。そうして一族は少しずつ数を減らし、衰退し、それでも細々と血を繋ぎ、願いを繋いだ。そして──」

 十年前。

 ラダの声が、その時ほんの少しだけ震えた。

「数年に一度だけ、各地に散らばる〈海辺の民〉が一箇所に集う祭りの日。アーフェルの軍勢はその時を狙って襲撃してきた。神と王の名の下に、異端を消し去るためと称して」

 アーフェルはそれまで、迫害や弾圧を加えたことはあっても、本気で〈死の民〉を滅ぼそうとすることはなかった。だから軍勢が不自然に沿岸地域にいることに気付いても、誰もその目的を予想できなかったのだ。

 命じた国王、つまりリステスの父が何故唐突に〈死の民〉を滅ぼすことを決意したのか、それはラダにも分からないという。〈山の民〉が今になって騎士団に滅ぼされた理由がはっきりしないように。

「そして……皆……殺された。父も母も、老人も赤子も、皆。こうして曲がりなりにも生き残ったのは、おそらく、俺一人だ」

 吐き出すような言葉が消えてしばらく、沈黙が降りた。

 狭く暗い馬車の中に、車輪の音は騒々しく響き続けている。それでも尚、沈黙が重かった。

 ふと、志穂はその沈黙の内側に、ここではない場所の声を聞いた。

 

 ──生きて。

 掠れた女の声だった。

 浮かぶ景色は赤黒く塗り潰されて、声の主の顔を確かめることもできない。だが、声に紛れて波音がかすかに聞こえる。心を揺らし、誘うような、懐かしい波の音が。

 ──生きて。生き続けて。竜を見つけて。

 声を振り絞り、女は訴える。波音をかき消そうとするかのように、きつく抱きしめる。

 血に塗れたその腕は、それでも尚、悲しいほどに柔らかい。

 ──死なないで、ラダ。

 

 死霊が感じ取れるのは、他の死霊の記憶や思いだけではない。時には生きた人間の思いや記憶をそのまま感じ取ってしまうことがある、とはかつてラダが言っていたことだ。

 囚われた青年は横たわった姿勢のまま、感情を押し込めたような無表情のままでいる。そこにはアーフェルへの憎悪も悲しみも浮かんでいない。だがそれはあの騎士のように、長い時間をかけて感情を削ぎ落とされた結果のようにも見えなかった。

 赤黒く塗り潰された記憶の中で、彼は確かに怒り、悲しんでいるようだったから。

 やがて志穂は再び口を開いた。

「……一族の悲願だから、ラダは、竜を探しているの? 先祖が、竜の船守だったから……」

 細い声でそう訊ねると、青年は否定するように身じろぎをした。

「それだけじゃない。あの蛇を見ただろう。あれこそ、俺が……俺たちが竜を探し求めた理由の一つだ」

「怨念の蛇が……?」

「そうだ。竜の船のように死者の魂を運ぶ存在がいなければ、沖つ国へ行けなかった者は死霊のまま彷徨い続ける。霊は自我を失ってやがて怨念に呑み込まれ、影と化し、影は寄り集まってやがては蛇となる。そして……肥え太った怨念の蛇は、死者と生者の境を犯し、やがては世界のすべてを呑み込むだろう。あの城で、多くの者を呑み込もうとしたように」

 竜の船がまだこの世にいれば、そんなことは起こらなかった。

 あの騎士もロイもバーサも、英雄王に殺された五百人も、あんな風になる前に竜の船に乗って船出し、沖つ国へ行くことができた。──そういうことだろうか。

「ただでさえ昨今は死霊が増え、魂の正しい循環が滞っている。『忌まわしい〈死の民〉』が滅ぼされても、現実的な問題として、死霊術士の需要はなくならない。そして、怨念の影たちは本来人の手には余るものだ」

 それは志穂にもよく分かる。竜の力の宿った杖を通して蛇を消したラダですら、意識を失い、何日も寝込まなければならなかったのだ。

「今回はどうにか、蛇をあるべきところへ還すことができた。だが、次は上手くいかないかもしれない。怨念は今度こそ世界を呑み込むかもしれない……。だから、取り返しが付かなくなるその前に、俺たちは、この世界に竜を取り戻さなくてはならない」

 彼の彫りの深い顔に浮かぶ表情には、一点の迷いも曇りも見えない。

「その思いは、使命感は、〈海辺の民〉も〈山の民〉も変わらなかった」

 使命について疑ったことがない、正しいと信じている、そんな顔だ。

 その顔が、何故だろう。志穂にはあまりにも悲痛なもののように感じられた。

「でも、竜は……何百年もの間見つからなかった、んだよね」

「……ああ。竜はもうこの世にはいないと確信するには十分すぎる時間だ。それでも俺たち〈海辺の民〉は放浪を続け、かつての主を、あるいは新たな竜を探し当てることを諦めなかったが、〈山の民〉は別の手段を取ることを選んだ」

 そこでラダは、語り始めてから初めて躊躇うように唇を閉ざした。

 予感があった。これから語られることこそラダがもっとも志穂に伝えたかったことで、志穂がもっとも聞きたくないことだと。

 しかし志穂が口を挟むよりも早く、青年ははっきりとこう続けた。

「……異界よりまれびとをこの世界に呼び寄せるという、手段を」


 ──まれびと来たりて、竜を呼ぶ。

 古い伝承歌にそんな一節があるのだと、ラダは告げた。

 そもそも自分が何故見知らぬこの世界に召喚されたのか。志穂がずっと目を逸らしていた疑問への、回答を。 

「〈山の民〉の長老はもう少し詳しい伝承を伝えていたのだろうが、彼らとて伝承に歌われた時代をその目で見ていたわけじゃない。かつて訪れたまれびとが竜に変じたとも、まれびとにはすべて魂を導く力があるのだとも、俺の知る限り様々な解釈があったが──重要なのは、まれびとが竜に結びつく存在であるとされることだ」

 志穂は唇を引き結び、ほとんど表情を変えないまま、いや変えられないまま、耳を傾ける。

「だから、〈山の民〉は彼らの持つ知識と力をすべて用いて、異界の存在を招いた。数百年の時間に擦り切れた希望を伝承に託して。竜を呼べるかもしれない存在を、召喚した」

 歓喜の声が、耳の奥で蘇る。

 いつの間にか見知らぬ場所で、いつの間にか大勢の人間に囲まれていると気付いたあの時の情景を、志穂はまだはっきりと思い出せた。彼らの上げた歓声、喜びの涙、その意味を理解する前に起こった惨劇のことも。

 なるほど、彼らが志穂を見て大喜びしたのも道理だ。志穂は確かに彼らの救世主として呼ばれたらしい。そして、期待に応えることもなければ失望を買う暇もなく、死んでしまった。〈山の民〉の人々とともに。

 理不尽で、そのくせこの上なく今更で、──どうしようもない事実だ。

 志穂はひどく冷静に、その事実を受け止めた。自分でもおかしいと感じるくらい、心静かに。

 旅をはじめてからずっと、あえて知りたくもないと目を逸らし、あえてラダに訊ねなかったことである。心のどこかでは受け止める用意ができていたのかもしれない。

 そう、〈山の民〉も崇高な使命感から、志穂を呼んだはずだ。だから志穂を見て、あんなに喜んでくれたのだ。無論、それを他力本願だと非難することはできるだろうが、だとしても〈山の民〉はもう死に絶えてしまった。彼らの行いが罪なら、彼らは既に罰を受けている。

 ──ただ、良かった、と思う。死霊として覚醒したのが、〈山の民〉が皆消えた後のことで。

 もし、殺された直後に死霊同士、〈山の民〉と対面したとして、その時の自分がこんなに落ち着いていられる自信はない。

「……私、竜なんて言われても分からないよ」

「ああ」

「あの蛇みたいなのをなんとかする力もない」

「分かってる」

「何の役にも、立たないんだから」

「……すまない」

 何度か聞いたことのあるその言葉にこめられた意味を、志穂はこの時正しく理解した。

「謝って済むことではないと分かっている。だが……すまない」 

「ラダが、呼んだわけじゃないんでしょう」

「だが、俺は〈山の民〉がまれびとを召喚しようと試みていることを知っていた」

 ラダは目を逸らそうとすることなく、まっすぐに志穂を見つめたまま静かに告げる。

「十年前に山里に身を寄せてから、そこで一年ほどは匿ってもらったからな。知っていて、そして、止めなかった。もし召喚が成功し、竜の復活に繋がるのだとしたら、それでいいと。……まれびとが、異界の人間が自分たちと同じ人間であると、思ってすらいなかったのかもしれない。それに、俺は、まだ……」

「やめて」

 志穂は強い口調で彼の言葉を遮った。

「やめて。もういいよ。……教えてくれてありがとう」

 志穂は手を伸ばし、傍に転がっていた白い杖を拾い上げた。

 母親の形見だというラダの言葉に秘められた重みを、志穂はもうよく理解している。  

 彼が今まで示してくれた優しさや親切が、無償のものではなく打算を含んだものだからといって、非難する気は起こらない。非難するには、志穂は彼の親切を受けすぎている。表情に乏しい彼が浮かべる笑みの温かさを、知ってしまっている。

「初めて話した時、言ってたでしょう? 〈山の民〉を憎まないでやってくれ、って」

「……確かに、言った。だが、それは……」

「分かってる。恨みにしがみついて悪霊になってほしくなかったんでしょう」

 志穂はラダの傍らに座った姿勢のまま、竜の牙の杖を抱きしめた。最初は緩やかに、次第に力強く。

「……ねえ、私、言われなくたって、もう誰も恨みたくないよ。憎みたくない。ラダも、〈山の民〉も、……本当は、リステスや騎士団も」

 無論、志穂はまだ理想の境地には程遠い。すべてを忘れ、感情と執着を捨てて船出する気にはどうしてもなれないし、リステスと騎士団を見るとどうしようもなく胸が騒ぐ。

 それでも、恨み続け、憎み続けた果てにある末路を、志穂はあの城で存分に見た。

 少なくとも、ああはなりたくない。怨念に囚われたくない。誰かを余計に傷付けたくはない。

 志穂は、岸辺志穂のままでいたいのだ。

 その思いだけは、出会ったあの日から少しも変わらなかった。 

「だからもう、すまないって謝るの、やめて。ずるいよ」

 するとラダは、思ってもみなかったという風に目を見開いた。

「ずるい、のか?」

「うん。ずるいよ。上手く言えないけど、すごく、ずるい」

「……そう、なのか」

 すまない、と続けようとして言葉に詰まり、代わりの言葉もとっさに思いつかなかったのか、ラダは口元を中途半端に開けたまましばらく無言でいた。

 そして結局、両目を静かに伏せると、

「ありがとう。話を、聞いてくれて」

 と、掠れた声で囁いた。

 

 

 話が一段落した、と言えるのかどうかは分からないが、この後ラダはまた目を閉じて眠りはじめた。

 本当に体の調子がおかしくなっているのだろう。自動車の揺れとは比較にならない馬車の振動をまともに感じながら、酔う暇すらないようだ。

 何日も眠り続けていたところを、起きてすぐあれほど喋ることができたのだから、身体が動かない以外に一見問題はなさそうに思えるが──と考えたところで志穂は気が付いた。ラダは数日ぶりに意識を取り戻したというのに、喉の渇きも空腹も訴えないまま、かなり長い話をしていた。

 いくら飲食の必要のない霊体とはいえ、心配する素振りを見せながらそのあたりに気が回らなかった志穂も志穂だが、何も言わなかったラダもラダである。

(それくらい、伝えたかったことなのかもしれないけど……)

 違和感と、彼の身を案ずる気持ちが、同時に湧き上がる。

 打ち消されたのは前者で、残ったのは後者だった。

 志穂は手を伸ばし、枷に戒められた青年の手の甲のあたりをそっと指先で触れた。

 やはり、そこから体温はほとんど感じられない。果たして彼は、この馬車が王都に到着するまでに本当に動けるようになるのだろうか。

 志穂は手を引くと、あらためて青年の顔を見下ろした。彫りが深く、肌が白く、異国めいた顔立ちの、出会った頃よりひどく痩せて疲れたように見える顔を。何故ラダは、今この時になって志穂に真実を語る気になったのだろう。

 そして、思った。

 呼ばれたからこそ、志穂はこうしてラダの顔を見下ろしていると。

 ──何故、呼ばれたのが自分だったのだろう。

 その疑問は、きっと誰にも答えられない。一番無意味な問いかけなのだろう。

 いずれにせよ、志穂はこの世界に呼ばれた。

 殺され、死霊となり、ラダと出会った。

 この世の〈果て〉という、実在するかどうかも定かではない曖昧な場所を目指して旅をして、エテルベリに行き、リステスと再会し、城に連れて行かれて、今度は王都へ向かっている。

 そう、呼ばれたからこそ、志穂はこうしてラダの顔を見下ろしている。逃げず、見捨てず、彼の傍に。

 それもまた、一つの確かな事実だった。

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