第十五話 蛇
「よお、お二人さん。つくづくしぶといよな、アンタらも」
闇の中から現れた青年は、歪な笑みをその口元に浮かべていた。
絞首刑の黒々とした痕は一層濃く見え、痩せた体の手足には怨念の霧がまとわりついている。
志穂には恐ろしいとしか感じないそれらをものともしない様子で従えながら、彼は礼拝堂の内部にまで踏み込んできた。
「なあ、シホの嬢ちゃんよ。せっかく蛇の巣から出てこられたってのに、わざわざまたこの怨念の中に突撃してどうしようってんだ? そんなひょろ長い杖を抱えてさ」
先日少女を罵倒したことも忘れたかのように、ロイは出会った当初の馴れ馴れしい口調で話しかけてくる。
志穂が険しい顔で唇を引き結んでいると、彼はわざとらしく指を立て、
「当ててやろうか。嬢ちゃんは、あのやたら生白い、黒髪の、おかしな体の奴が本命なんだろ」
と、何もかも見透かしたような口調で言った。
おかしな体という下りはよく分からないが、どう考えてもラダを指し示す言葉に思わず身を強張らせる。
「確かに、あいつには力があるらしい。今も涙ぐましい努力をしてるみたいだぜ。オレにはまったく理解できねえけどな。なんだって自分一人で逃げずに、他の奴らまで庇う必要があるんだか」
ロイは見てきたように語りながら、呆れたように肩をすくめる。
「まあ、王子様が少しずつ追い詰められていく様を見るのも悪くはねえけどな。聞けばその杖には大層な力があるって話じゃねえか。そいつをわざわざ王子様もいるところまで届けに行くなら、嬢ちゃん、アンタも掛け値なしの馬鹿だな」
軽薄な口調に反して、ロイの目は極めて冷ややかだ。そんな青年を、志穂はほとんど睨み付けるように見つめた。そうしないと、視線の冷たさに負けてしまいそうだった。
「この、状況は……この怨念の霧は、あなたの差し金、なんですか」
「そうだよ。オレが餌を与えてけしかけたのさ。オレ一人じゃあ王子様を殺せなくても、怨念を集めてあいつらを肥え太らせれば、十分な力になる」
ロイは冷ややかな目のままで笑う。
その笑みが、一瞬、あの時のリステスの微笑みと重なって見えて、志穂は息が止まりそうになった。そしてすぐ、呼吸する必要はもうどこにもないことを思い出した。
「あいつらはこの世をすべてを呪い、喰らい尽くしたいと思ってる。オレも、オレを殺したすべてが憎い。単純な話だろ」
「……あなたの、望みは……リステスの死だけじゃない、んですか」
「もちろん、一番憎いのはあの王子様だよ。でもなあ、騎士団を名乗ってる人殺し連中も憎いし、そんな奴らのために黙って働くこの城の連中も気に食わない。アーフェルの貴族ども、商人ども、オレたちが死んだのにまだのうのうと生きてる連中のすべて──」
志穂は胸が痛むのを感じた。その痛みそのものは錯覚であっても、痛みを感じさせるこの思いは錯覚ではない。確かに目の前の青年から流れ込んでくる、強い憎しみ。今この城を支配しつつあるもの。
怨念だ。
「──怨念の塊である蛇の力を利用して、全部殺してやるのさ。本当は先に王子様を殺して、その霊をまた蛇に喰わせて、二重の死を味わわせてやりたかったんだがな。分かるだろう、嬢ちゃん?」
「……分かり、ません」
志穂は首を振った。
そしてもう一度、分かりません、とつっかえながらも語気を強くして繰り返す。
「分かりません。分かりたくない。いくら憎くたって、みんな殺してしまえなんて、そんなの」
「間違ってるって言い切れるのは、当の生きてる奴らだけさ。死んだはずのオレたちがいつまでもこの世に留まってる時点で、オレたちは神様の定めた理とやらから外れてるんだぜ?」
なあ嬢ちゃん、と彼は気味が悪いほどに優しげな声を出した。
「生きてる人間みたいにさ、いつまでも物分かりの良いふりをするのは滑稽ってもんだろ。オレたちは死人なんだからよ」
その言葉は志穂の心を驚くほど深く抉った。自分が命をなくした死者であり、死霊であることなど、もうとうに受け入れていたつもりなのに。
杖をきつく握り直す。手から伝わるひんやりと硬い感触が、落ち着けと囁いてくれる気がした。
そのとき、騎士が一歩前に出て少女の隣に並んだ。
「言ったはずだ。この者の言葉にはあまり耳を傾けるなと」
顎髭に覆われた厳つい顔で見据えられても、ロイは動じず、鼻で笑うだけだ。
そんな盗賊の青年から目を離さず、騎士は声だけを志穂に向けて静かに続ける。
「……怨念の蛇に喰われかけ、その一部と成り果てても。完全には溶かされずに形を保ち、自我を残す者が、時折いる。ああして形を保っていても、その魂の内側は見る影もなく、人としての感情は著しく損なわれている」
騎士はそこでかすかな息をついた。
「……歪みきった怨霊の成れの果てに過ぎぬのだ、この男も、私と同じ」
「同じ?」
志穂ははっと騎士を見上げた。
兜を目深に被った横顔は、相変わらず淡々として動揺の色も見えない。
「そうだよ、嬢ちゃん。そいつは誰よりも長くこの土地にいた。古井戸の底の怨念どもと誰よりも長く付き合ってきたのさ。それで一体どうして無関係でいられるってんだ?」
ロイが口を挟んだ。
「もっとも、そいつとオレとじゃあ随分事情が違う。オレは外から引きずり込まれて、あいつらと同調した。そいつは元から怨念に浸かっていて、蛇に変じていった奴らの中から次第に異物として弾かれて、もう意識も共有できねえが、根源はまだ繋がってる。──どちらにせよ、オレもそいつも、動き出した蛇を止めることはできねえんだけどな」
青年はそこでわざとらしく非難するように眉をひそめてみせた。
「だからアンタは、何もかも諦めた顔して、あいつらを眺めてきたんだろ? 自分じゃ止められないが、自分だけは怨念に染まりませんって顔して、何百年もずっと、この丘の城で過ごしてきたんだろ。怨霊どもが暗い井戸の底に憎悪を溜め込んで、形をなくして影となり、蛇となり、この城で死んだ奴らの霊魂を喰らって溶かす、そんな存在になっていくのを──アンタはずっと見てきたはずだよなあ」
不意に、礼拝堂の外のどこかから人の悲鳴が聞こえた。おそらく、今もこうして城内を浸食し続けている怨念に捕らわれてしまった、城の誰かの悲鳴が。
その声に聞き覚えはない。だが──早くしないと取り返しのつかないことになる。
志穂は杖に縋り付くように力を込めた。
既に闇色の霧は礼拝堂の半分近くまでを浸食し、志穂と騎士の二人を取り囲もうとしている。
「それなのに、なあ。今更騎士面して嬢ちゃんを庇う気かよ?」
「そうだ、ロイ。この娘は怨念のただ中を進んででも先へ行くという。その娘の道を塞ぐというのなら、私はそなたの前に立つ」
「高潔な騎士サマは、か弱い女子供を見捨てることなどできませんってか?」
悪意のこもった揶揄にも、騎士は動じない。
「希望をなくした我々が、まだ希望を捨てていない娘を邪魔立てするなど、それこそ滑稽だ」
志穂はふと思った。ロイの中に憎悪と悪意の類ばかりしか感じられないように、騎士もまた人としてあるべき感情のいくつかが欠落しているのかもしれない。常に冷静な反面、この騎士には豊かな情動が明らかに欠けている。
それが、彼もまた怨念の蛇の一部と成り果てた死霊だからなのか、それとも長い長い時を彷徨う怨霊として過ごしたために魂を摩耗させてしまった結果なのかは分からない。
けれど。
「先に私を相手にするが良い。騎士ヴィルフォートの名にかけて、この娘に手は出させぬ」
そう宣言する男の姿は、誰よりも誇り高く、気高い物語の騎士そのもののように見えた。
一瞬の静寂の直後、ロイは哄笑した。
腹の底に響くような、低く暗い笑い声だった。
その哄笑が収まった後、彼の顔から笑みは消え失せていた。
「そうかい」
細められた目が鋭く騎士を射抜く。
「ならよ、遠慮なく喰わせてもらうぜ」
青年の変貌は素早かった。首が不自然に折れ曲がり、絞首刑の黒い痕跡が見る見るうちに首全体に広がったかと思うと、そこからどろりと黒い泥が溢れ出した。
泥が足元に落ちると同時に、青年の輪郭がほどけて崩れる。
代わりに鎌首をもたげて現れたのは、漆黒の体を持つ蛇だった。
「──行け、娘!」
騎士が叫びながら、志穂の体を横合いに突き飛ばした。
体が斜めに傾いたが、無論、それで転ぶことはしない。志穂が体勢を整えて振り向くと、左腕から肩口までを蛇の闇色の牙に噛み付かれている騎士の姿が見えた。
その騎士の体も全身の輪郭がぶれ、端々が色のない影に変貌しかけている。
それでも尚、彼は人の声で叫んだ。
「行け!」
答えの代わりに、志穂は杖をしっかりと抱え込んだ。
騎士たちに背を向け、礼拝堂の出入り口がある方へ向き直る。そして躊躇うことなく黒い霧の中へ飛び込んだ。
黒い霧が全身を取り巻いた瞬間、驚くほど体が重くなった。
古井戸の底の暗闇で、泥のような空間を先へ進もうともがいていた時と似たような感覚。感じる密度はあの時ほどではないが、無視して容易に進めるほどでもない。
それに、霧の中から聞こえてくるのだ。どう聞いても生きた人の声ではない声が。
憎い。
恨めしい。
妬ましい。
殺された。殺された。殺された──古井戸の底で垣間見た記憶よりもさらに曖昧で、しかしどす黒い怨念の声が絶え間なく響き、志穂の意識の中へ入り込もうとしてくる。
それらを耳を貸すことなく振り払いながら、志穂は急いで進もうとした。
だが夜より深い闇色の霧の中では、すぐ近くにあるはずの回廊も、中庭も見えない。傍らにそびえているはずの、灰色の石壁の建物がどこにあるかすら見定められないのだ。
(早く、ラダを見つけないと……)
焦れば焦るほど、目の前を覆い隠す霧は泥のようになり、志穂の足に絡みついて、あわよくば引きずり込もうとする。それに恐怖を抱けば抱くほど、引かれる力も強くなった。
抱えていた杖の端が何かにぶつかった。見ればぶつかったのは回廊の柱のようだが、ぼんやりと霞んで見えるその柱の表面は大きく抉られている。志穂は地下室で見た痕跡のことを思い出した。この怨念たちは、実体のある物をも喰らい、自在に溶かせる力を持っているのだろうか。
ぞっとしながら前方に向き直ったそのとき、志穂は周囲の暗い霧とは少しだけ違う様子の影を見つけた。
輪郭の曖昧な人影は、しかしどこか女性のように見えた。長い髪を後頭部で一つに纏め、背筋をまっすぐに伸ばした姿勢の良い女性だ。
彼女はすっと腕を上げると、ある一方を指し示した。
そちらへ行け、ということだろうか。
志穂は一瞬逡巡した後、女性の示す方に足を向けた。この女性の影もまた、怨念の一部となった霊の名残なのだろう。だが彼女がもし志穂の記憶にある通りの人物なら、彼女の示す先はきっと志穂の目指すべき先と同じはずだ。
「──殿下を……」
女性の脇を通り過ぎようとしたとき、怨念の声とは違う、ごくかすかな囁きが響いた。
だが志穂が振り返ったとき、女性の影は既に黒の霧に紛れ込んで、もうどこにも見当たらなかった。
杖を握りしめて、志穂は示された先へ進んだ。
決して足を止めることなく、闇色に覆われた空間の中で唯一白い、竜の牙の杖だけを供に。
先へ進もうとすればするほど、形のない影の囁きも数を増し、少女の魂の中枢を浸食しようとする。
(早く……)
もう随分長いこと歩いたような気がする。だが、未だに壁の一つにも行き当たらないということは、まだごくわずかな距離しか進めていないということだ。
怨念の声は途絶えることなく、志穂を彼らの中に引きずり込もうとする。
首を斬られた者がいた。磔にされた者がいた。吊された者がいて、火あぶりにされた者がいた。鞭打たれた末に生きたまま獣に喰い殺された者、逃げ出そうとして串刺しにされた者、牢の中で餓死した者や、重石とともに井戸に放り込まれて溺死した者もいた。
どこまでも救いのない死。どこまでも終わりのない憎悪。どこまでも広がり続ける怨念。
それがとても苦しかった。
胸が、いや、魂の内側から痛みが次々と湧いてくるようだった。
彷徨う死者の魂とその怨念は、世界の理を歪ませる。ラダのその言葉の意味が少し分かった。
ああ、確かに〈山の民〉はもっとも正しく賢明な選択をしたのだろう。今頃、彼らはきっと死者の国で安らかに過ごしているに違いない。比べて志穂は、意地を張ったばかりに、消えることを恐れたばかりに、帰りたいと望んだばかりに、こんなにも苦しい思いをする羽目になっている。
志穂は死人だ。
本来ここにいてはならないはずの存在だ、彼らと同じ。
分かっている。でも本当は分かりたくない。けれどもやはり分からなければいけない。
美しく微笑む少年の顔、白銀に閃く刃、あの時確かに抱いた恐怖と絶望はまだこの魂の奥底に眠っている。それを忘れない限り、志穂はきっといつかこの怨念たちと同じものに成り果てるだろう。
(でも、今は──)
行け、とあの騎士は言ってくれた。その意志があれば怨念を振り払えると。
だから今は、恐怖も憎しみも忘れて、ただ前に進まなくてはいけない。
彼を探さなくてはいけない。
「ラダ!」
志穂は叫んだ。探し求める青年の名を。
「ラダ……!」
二度、彼の名を呼ぶ。
三度目に叫ぼうとしたとき、霧の奥、思ったよりも近くから声がした。
「──シホ?」
掠れ、いつもより上擦った声。だが紛れもなく聞き覚えがある。
志穂は勢い込んで、あと少しの距離を一気に駆け抜けた。
ふっと体が軽くなった、と思った瞬間、志穂は怨念の霧の中から飛び出していた。
そこは暗い霧のただ中にぽっかりと空いた、怨念の及ばない空間のようだった。
リステスがいた。彼の従者たちもいた。見知らぬ太った男もいて、意識をなくして倒れている人々もいた。
そして、ラダがいた。
彼は人々の前に立ち、苦しそうに顔をしかめながらも周囲の怨念の霧を見据えている。予想していたほど気分が悪い様子ではないが、疲労の色は明らかに濃い。
「ラダ!」
志穂は杖を抱えて彼に駆け寄った。杖がひとりでに動いてる、と誰かの怯えたような呟きが耳に入ったが、この際もう気にしてはいられない。
驚いたように目を見開く青年の顔を見上げながら、手に持った杖を本来の持ち主へと差し出す。
青年は差し出された杖と志穂とを交互に見比べた。
「シホ、杖を……持ってきてくれたのか? 怨念の中を、突っ切って……」
「うん。ラダを探さないといけないと思って……でも、私は大丈夫だったよ。……助けてもらったから」
「なんて無茶を……」
掠れた声で言いながら、ラダは杖を受け取り、きつく握りしめた。
眉間の皺がわずかに和らぎ、ほんの一瞬、口元が綻ぶ。
「──ありがとう」
ラダはすぐに表情を引き締めると、前方に向き直って杖を振りかざした。
久方振りに元の持ち主の手に戻された白い杖の先端が、周囲に広がる深く色濃い闇の霧に向けられる。
「竜の船守が一族の末裔、ラダの名において命じる」
その口上からはじまった呪文のもたらした効果は絶大だった。
目に見えない力が杖から湧き出し、ラダの声を通して周囲に広がり、その力が怨念の霧を押しやっていくのを、志穂は感じ取った。
立ち込めていた霧が晴れていく。
だがその力は他の人々には感じ取れないのか、あっという間に霧が晴れ、顔を出した青空の太陽の下、ふたたび姿を現していく中庭を戸惑った顔で見回している。
リステスだけは、周りと比べると呑気なくらいに落ち着いた表情をしていて、志穂と目が合うとにこりと微笑んでみせたほどだったが。
霧の晴れた中庭を見て、ラダは険しい顔で息を吐いた。
その理由はすぐに見当がついた。今まで霧に覆われていた中庭のあちこちに人が倒れているのだ。
生気をなくして気絶している者も、苦しそうに呻いている者もいる。だがぴくりとも動かない者や、土気色の顔をして、まるで骨と皮だけのようになった者も見えるのだ。
中庭の中央には木材で何かがこしらえられていたようだが、半分溶けてなくなっていたので、それが何のためのものなのか志穂にはよく分からない。
そこで志穂ははっとした。
思わずラダの方を見やり、分かっているという風に頷かれる。
一旦杖の力に追いやられた怨念の霧が、中庭の中央でまた湧き出している。それだけではなく、どうやら城内の奥深くまで侵入していた霧までもがここに集まりはじめていた。
曖昧な霧は凝り固まって泥になり、密集した泥は一つの形を成した。
それは、やはり蛇だった。
何もかも引きずり込んでしまう、深い闇の体を持つ大蛇だ。だがその輪郭はもはや曖昧ではない。
突然の化け物の登場に、背後からいくつかの悲鳴が上がった。とぐろを巻いて地下にまで繋がるその巨体は、例え何人の人間がいても一息に呑み込んでしまうだろう。
ゆっくりともたげられた太い鎌首が、中庭の一点を見下ろす。
蛇には目も鼻もなく、舌もない。しかし自我をなくした怨念そのものの塊は、明らかにラダと志穂を見据えている。化け物に怯える人々のことなど眼中にない。
死霊を引き裂く闇色の牙から泥が滴り落ちて、中庭の石畳を小さく穿った。
「すべてを喰らう蛇……」
蛇を見上げながら、ラダが言った。その横顔に恐怖はない。
「……お前たちは、もう、眠るべきだ」
彼は杖を突いて背筋を正そうとしたが、ひいき目に見ても青年から体力が失われかけていることは明らかだ。ラダの体がふらりと傾いたように見えて、志穂は慌てて彼の腕を掴んで支えた。
「……すまない、シホ」
「ううん。でも、ラダ──」
「心配はいらない。……ただ、少し、手を貸してもらっても構わないか」
頼まれずともそのつもりだ。志穂は大きく頷き返した。
ラダは一言礼を述べると、杖を構えて蛇に向けた。
蛇は弾かれたように巨体を揺らし、黒々とした口を広げる。
ラダは逃げなかった。その場に立ったまま、静かに呪文を唱えはじめる。
彼から離れて逃げることもできたが、志穂はラダの腕を掴み、支えたまま動かなかった。
寄り添う二人を喰らわんと、蛇の牙が目前まで迫り来る。視界のすべてが、暗い闇を湛えた口腔に覆い尽くされる。
「──還るべき国に行け、怨念の蛇たちよ!」
だが、ラダが力をふたたび解き放つ方が早かった。
そして、凄まじいほどの力の奔流が志穂の認識のすべてを塗り潰した。
まるで世界そのものが真っ白になったようだった。
怨念の深く暗い闇さえかき消すほどの強い光に照らされて、自分が今どこにいて、誰の傍で何をしているのかすら分からなくなってしまいそうなほど。
ただ、悲鳴が聞こえた。
今度はこの城の生きている人々の声ではない。蛇を構成する怨念たちの、その中にいる霊たちの声だ。
力の奔流は、彼らを無情に絡め取り、押し流していく。
蛇は頑強に抵抗する。巨体をよじり、牙を剥き、周囲に泥と霧を撒き散らす。
怨念たちの声の反響が実体を伴って空気を震わせ、近くの石畳に亀裂が入ったかと思うと、音高く割れる。
それでもこの強い力には抗いきれない。
やがて抵抗が弱まっていき、怨霊たちの声が細くなり、泥の体躯が霧に、靄に変わった。
一つの蛇だった形はばらばらに崩れ、ごく曖昧で色の薄れた無数の影に戻っていく──そして彼らがある方向に導かれ、流れていくのを、志穂は見えない目で感じ取った。
(良かった)
と思うと同時に、安堵とはまた別の感情を心の片隅に感じる。
それは、消えていく影たちに対する悲しみのようでもあったし、あるべきところへ還ろうとする魂たちに対する羨望のようにも思えた。もっと別の、自分でもよく分からない衝動のようでもあった。
そんな奇妙な思いを抱えながら、流れていく影たちを眺める。
そのときふと、影の一つが流れから逸れ、違う方向へ向かおうとしているのに気付いた。
「違う」
志穂はほとんど無意識にそう口走った。
「そっちじゃないよ」
志穂は手を伸ばした。流れから外れた影の腕を掴み、それ以上正しい流れから遠ざかるのを止める。
すると、影が人の形を取って志穂の方を振り返った。
それは見覚えのある青年の顔だったが、志穂は何故かあまり驚かなかった。彼がこちらを見つめる目にはまだ憎悪の色が残っていたものの、それはごくわずかな欠片に過ぎないようだ。
一旦凝縮された怨念は、蛇の腹で溶けて混ざり合い、こうして崩れてしまえば、もう元の持ち主の手には戻らないものなのかもしれない。あるいはそれこそが、怨念の蛇と化したことの代償なのかもしれないと志穂は思った。
「……まだ……が……ま、だ……」
彼はほとんど取り縋るような弱い声で呟いた。
志穂は首を横に振り、本来あるべき流れの方を指し示した。
「……あっち、だよ」
もうほとんどの影は流されて姿を消し、力の奔流も途絶えかけている。それでも志穂には正しい方向が分かった。
「あっちに、行かなきゃ」
流れを見定め、青年の背をゆっくりと押すと、今度は逸れることなく消えていった。
その行く先には、きっと海がある。海のかなたにはきっと波音が響いている。──なら、その向こう、流れの行き着く果てにあるものは。
(……あれ)
不意に志穂は気付き、意識を別の方に移した。
影たちの去ったかなたとは別の方から、声が聞こえる。耳を澄ませてみると、それは歌声のようだった。
まれびと 来たりて 竜を呼ぶ
竜は その身を 船と成す
誰か、幼い声の主が唄を歌っている。わらべ唄のような、ごく素朴で拙い響き。
その声のする方を振り向くと、一つの情景が見えた。
船は 死者を 沖へと導く
かくして 死者は 水底に
かくして 死者は 輪に還る……
砂利の多い砂浜を、打ち寄せる波が洗っている。その景色を眺めながら、唄を歌う子供。
短い袖から伸びる腕は日に焼けて、痩せてはいるが健康そうだ。背格好からみて、歳はせいぜい八つか九つ、でなければ十に届くかどうかといったところだろう。
「まれびと、来たりて、竜を……」
子供はそこでふと歌うのを止めた。ぱっと立ち上がり、服に付着した砂を払いながら振り返る。その視線の先に誰か知り合いを見つけたらしく、大きく手を振ろうとして、すぐに動きが止まった。
紫色の目が愕然としたように見開かれ──。
自身の体に冷たい重みを感じて、志穂は我に返った。
はっと見上げた先、青ざめた顔のラダの体が傾ぎ、握りしめた杖ごと志穂の方へ倒れかかってくる。
慌てて受け止めたが、年上の青年の体すべてを支えきるには志穂の腕は短く、肝心の本人の意識がなければどうしようもない。ラダはがくりと膝を折ってその場に崩れ落ちた。
「……ラダ!」
志穂はかろうじて上半身を支え、彼がうつ伏せに倒れ込むことを防いだ。
手放された杖が足元に落ち、場違いに軽やかな音を立てた。
至近距離で覗き込む格好になった青年の顔に生気はなく、両目の瞼は閉じられている。だらりと下げられた彼の手を取り、志穂ははっとした。手からまったく体温が感じられない。
いつか手を繋いでくれた時の、抱き寄せてくれたあの時に感じた暖かさは失われ、骨張った指先の冷たさが全身に広がってしまったかのよう。
「……ラダ……」
しっかりして、と動揺に震える声で呼びかけても、ラダは反応を示さない。
あの怨念のすべてを船出させる術のために、力を使いすぎたのだろうか。呼吸の音もろくに聞こえず、鼓動すらほとんど感じられない青年の体に、志穂は恐怖を覚えた。
「大丈夫? 一体どうしたの」
リステスが傍にやってきた。
彼は志穂の腕の中で意識を失っているラダを見下ろして、困ったように首を傾げた。
「ああ……駄目だね。完全に気を失ってる。とりあえず──」
そう言いながらリステスが手を伸ばし、ラダの肩に触れようとしたそのとき、
「で、殿下! なりません!」
と、甲高い制止の声が響いた。
そこで志穂は、ここがまだ城の中庭であり、周囲に城の人々がいることを思い出した。
蛇が消えても、中庭はひどい状況だった。ラダと同じように意識を失い倒れた人々があちこちに散らばったままで、無事だった人々の手も足りず、介抱も間に合っていないようだ。
リステスを止めたのは、しかし城の従者ではなさそうな太った男だった。
彼は少し離れた距離から、ラダを指さし、王子に向かって叫んだ。
「そ、その男に、近付いてはなりません! そやつは……その男は……あの古語の呪文──」
ぴくりとも動かないラダを見やる目には、明らかな恐れが宿っている。
一体どうして彼がそんな目で見るのか、少女には少しも理解できなかった。ラダは彼を含めた人々を、体を張って助けていたのではないのか。
「奇妙な力──得体の知れない化け物を消すほどの──ま、紛れもなく……〈死の民〉の特徴です」
「うん。そうだろうけど、それが?」
リステスは、そんなことはとうの昔に知っていると言いたげに肩をすくめる。
太った男は一瞬絶句したが、すぐにまた言い募った。
「その男は、つまり──死を操る悪魔たちの生き残りなのですぞ!」
こんなにもヒステリックで不快な言葉を、志穂は聞いたことがなかった。
「──十年前、王と教会の命により根絶やしにされたはずの忌まわしい民がここに生きている。それが罪でなくて何だと仰るのですか!」