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第十四話 怨念

 陰鬱に曇っていた空は、昼を過ぎた頃から眩しいくらいに青く晴れ渡りはじめた。

 その青い空の下、ヴィルフォート城の中庭の中央に据えられたのは、天気の晴れやかさにまるで相応しくないもの。木材を組み合わせて縄を吊し、その真下に踏み台を置いた絞首台だった。

 手枷をかけられ、諦めきったようにうなだれた男が、兵士らの手によってその絞首台の傍まで連れて行かれている。

 リステスとグレアム卿、ラダを含めた従者たちは、中庭の端に用意された座席でその様子を眺めていた。リステス以外の人間は、眺めさせられている、と表現した方が正しいが。

 当のリステスはというと、絞首台に送られる男についてはそれほど興味もない様子で、傷だらけの顔をした騎士団の男と今後の盗賊団対策について話し合っていた。

「そういうわけで、しばらく城を空けるからさ。給金は前払いするように言っておくよ」

「畏まりました。お帰りはいつになるので?」

「さあ。向こう次第だよ。もしかしたら帰らないかもしれないし」

 ちらりと王子に視線を向けられ、グレアムの太った体が縮こまる。

「ダグラス、その時は悪いけど、後任と話し合うか……」

「話し合っても無駄でしょう。殿下ほど我々を理解し、上手く使える者はいません。そうですね、東方でまた戦が起こっているらしいのでそちらへ行きます。その方が存分に殺せるでしょうから」

 平然とそう答える男の足元には、血塗れで、ほとんど死体に近い姿の霊たちがまとわりついていた。姿は悲惨だがまだ悪霊と呼べるほどの害はないようで、怨念の影と化すにも早い。杖さえあれば、ラダでも船出させられる段階のこの死霊たちは、おそらく殺された盗賊たちなのだろう。

 その盗賊たちの唯一の生き残りも、もうすぐ絞首刑に処されようとしている。

 彼らは街道筋で徒党を組んで旅人を襲い、殺しては荷を奪っていたという。自業自得とはいえ、うなだれる盗賊の男が未練を残さず船出できるとは思えない。

(……杖を取り返したら、城を去る前に彼らを船出させられるといいが)

 ただでさえこの城は怨念の溜まり場だ。殺された盗賊たちの無念は容易く取り込まれるだろう。

 いくらここが〈山の民〉を滅ぼした騎士団の拠点であっても、死霊術士として、悪霊をのさばらせたまま放置して立ち去るのは気が引ける。

「仲間を殺されて、拷問されて。自白したら用済み、待っているのは首吊り台……ひでえ話さ、なあ」

 耳元で誰かが囁いた。

 鼻先は前を向いたまま、視線だけをちらりと横に向ける。赤茶色の髪の、首に黒々とした痕のある痩せた男が、ラダの肩口に手をかけていた。

「そう思うだろ、アンタも」

 断続的に感じていた吐き気が強くなる。体が揺らがないよう、ラダは両足に力を込めた。

 なあ、と男は狐に似た顔に薄笑いを浮かべ、しつこくラダに囁く。

「分かってるぜ。アンタ、他の奴らより、オレたちに近いんだろ」

 その言葉が聞こえたのか、リステスが話すのを止めてラダたちの方を振り返る。少年王子はラダを見、赤茶の髪の男を見ると、すぐに興味をなくしたように前へと向き直った。

「はっ。いつも余裕ぶりやがって……」

 死霊の男は低い声で呟いた。その声には紛れもない悪意と憎悪が籠もっている。

 ラダの胸に、一瞬、嫌な予感めいたものが過ぎった。けれども堪え難い吐き気と目眩に紛れて、それ以上形にはならなかった。

 一方、中庭の中央。これまで大人しかった盗賊の男は、絞首台の踏み台の上に乗せられるに至って、ようやく怯えたように表情を歪ませた。

「い、いやだ……死にたくない」

 甲高く引きつった命乞いを聞く者はこの場にいない。

 担当の兵士たちは慣れた様子で盗賊の首に縄をかけ、暴れ出しかけた手足を抑え込んだ。

「死にたくない! 誰か、誰か! 助けてくれよお!」

 グレアムは既に顔が青ざめていた。控えている従者たちの何人かも絞首台の方から目を逸らしている。

 志穂の行方は未だ知れない。しかしこの場に限っては志穂がいなくて良かったと、強く思わずにはいられなかった。少なくとも、十四歳のまれびとの少女に見せるような光景ではない。

 吐き気はますます強くなり、度々襲い来る目眩が視界を揺らし、霞ませる。怨念の影が近くにいるようには見えないのに、何故こんなにも気分が悪化するのか、自分でも分からない。そんなにこの体は弱っているのだろうか?

「いやだ、いやだ! 助け──」 

 男の命乞いが不自然に途切れた。

 途端に静まり返った中庭に、縄が擦れてぎしりと軋む、耳障りな音が響く。

 霞む視界の中、吊された男の死体は──見えなかった。

 男の声が途切れたあの瞬間、絞首台の足元、中庭の石畳の表面から何かが噴き出した。そして絞首台を覆い隠したのだ。ラダの目には、濃い闇色の霧と見えるものが。

(あれは……まさか)

 ラダは吐き気も忘れて息を呑んだ。全身が一瞬で総毛立っている。

 霧のようにあやふやで、なのにただの影とは比べ物にならないほどに色濃い。夜よりも深い闇のようなそれは、よくよく見れば、曖昧にだが一つの姿形をとって絞首台に横たわっている。

 すなわち、鎌首をもたげる蛇の姿を。

「そうさ。誰だって死にたくねえんだよ」

 いつの間に移動したのか、あの赤茶けた髪の男が絞首台の上に浮かんでいた。彼はラダを見て、彫像のようなリステスを見ると、口元を狂気に吊り上げる。

 そうして男は言った。すべてを嘲笑い、呪うような声で。

「だから、さ。──みんな喰われて死んじまえよ」

 牙を剥いた大蛇の体が、弾けるように広がった。


       *

 

 竜の船は死者の魂を乗せ、海のかなたの死者の国へと運ぶという。

 それはすなわち、竜は死者の魂の彷徨うところにやってくる、ということでもある。

 ある狂った男は考えた。

 ──ならば大勢の人間を殺して死霊を生めば、間違いなく竜を呼べるはずだ、と。

 

「……王は、亡くなった妻の魂を竜の船に攫われたと信じ込んでいた。竜を誘き出して打ち倒せば、妻の魂が戻ってくると信じていた。断ち切れぬ愛ゆえに、彼は狂ってしまった」

 淡々とそう語る騎士の声は、しかし確かな悲しみの色を帯びていた。

「彼女は自らの意思で竜の船に乗り、海のかなたの国へ去ったというのに」

 それでも彼の言葉には、王の所業を嘆き、憤る気色はあっても、自らの死そのものを嘆く雰囲気は感じられない。

 志穂はこの城を彷徨う怨念たちの暗い巣穴を見回した。足元に広がる白い骨の海。気を緩めると、自分のものではない記憶が脳裏に浮かんできて目眩がする。

「でも……聖ユオルは、ここでは失敗したんですよね」

 リステスが語っていた話を思い出して訊ねると、騎士は頷いた。

「然り。王は五百人を殺して竜を呼んだが、傷を負わせ、鱗を一枚剥がしただけで、打ち倒すには至らなかった。……それから後に何があったのか、この土地に縛られた私は知らぬ」

 だが、と彼は深いため息を吐いた。

「それきり竜の船は姿を見せず、王は今や竜殺しの聖ユオルとして崇められている。ならば……彼は成功したのだろう。あるいはさらなる犠牲者を増やして、ついに竜をも殺したのだろう。伝承の通りにすべての望みが叶ったとは、思えぬが……」

 ふとラダの顔が思い浮かんだ。廃墟となったあの山里の門を見上げた時の顔。船流しの竜の船を見つめながら語る寂しげな横顔。竜を探して旅をしているのだと口にした時の、あの苦々しげな顔。様々な表情が浮かんでは消えていく。

 ギイ・ユオルは失った妻への愛によって狂ったという。なら、愛する者はもう存在せず、今後も現れることはないと言い切ったあの青年は、どんな思いから竜を求めているのだろう──。

 そのとき、二人の周囲がざわりとうごめいた。

 空間、あるいはそれを満たす泥のような大気そのものが震えているかのようだった。

「これは……」

 異変に気付いた騎士が、その腕の中に志穂を引き寄せる。

 次の瞬間、まるで奔流のように流れはじめた空気が二人に襲いかかった。

 鉄砲水に遭えばこんな感じなのかもしれない、そう思うほどに激しい奔流だ。騎士の腕に支えられていなければ、あっという間に流されて呑み込まれてしまっていただろう。

 それなのに足元に転がっている白い骨の一つとして、微動だにしない。

 ならばこれは、実体ある現象ではないのだ。

 奔流と共に叩き付けられるこの恨みの絶叫も、嘆きの悲鳴も、きっと幻聴に過ぎないのだ。

「気を確かに。自分を手放すな」

 悲鳴すら上げられずに縮こまる志穂の耳元で、騎士はそう囁いた。

 彼の腕の中で堪え忍んでいた時間は、おそらくそう長くはなかっただろう。

 気が付くと、叩き付けるような奔流はぴたりと止んでいた。

 もう死者たちの怨念の声も聞こえず、眼前を自分のものでない記憶が掠めることもない。

 おそるおそる仰げば、頭上の方から差し込む光が見える。そこに歪な穴があって、外に通じているようだ。

「……蛇は、どこかへ消えたようだ」

 騎士は志穂を解放すると、光の差す穴の方を無言で指し示した。そうして躊躇いなく浮き上がり、闇の中から光の方へと向かっていく。志穂も慌ててその後に続いた。

 

 穴から這い出た先は例の礼拝堂の地下室だった。 

 部屋の中央に鎮座している、石造りのはずの祭壇が半分溶けて、その下に隠されていた古井戸の暗い穴が半ば露出している。どうやら騎士と志穂はそこから出てきたようだ。

 祭壇の傍からさらに見上げると、天井にも穴が開いていて、光はそちらから差し込んでいた。無理矢理破壊されたのなら破片が落ちるはずだが、地下室のどこにもそんな痕跡はない。断面も妙につるんとしている。溶かされたような、としか表現しようのない奇妙な穴だった。

 そこで志穂ははっと思い出し、ラダの杖が収められているはずの箱を探した。

 箱は地下室の片隅に転がっていた。こちらもやはり絹布ごと半ば溶かされたようになっていて、中身が外に露出している。 

 志穂はおそるおそる近寄って手を伸ばし、見覚えのある白い杖を掴んで箱の中から引きずり出した。

 志穂の身長ほどの長さのある杖は、リステスに奪われた時から何も変わらぬ様子で、どこにも損傷は見当たらない。それを確かめて、志穂は思わず安堵の息を吐いた。 

「……鱗がないな」

 箱を覗き見た騎士がぽつりと呟いた。

「鱗って、竜の鱗ですか? 元々この箱に収められていたっていう……」

「そうだ。……王子がその杖を隠した折に持ち出したのか……」

 リステスならやりそうなことだ。

 杖を抱えた志穂と騎士は天井に空いた穴から礼拝堂へと上がった。

 相変わらず誰もいない静かな建物の内に、埃だけが舞い上がっている。

 だが、半ばまで開け放たれた入り口の扉の向こうに見えた光景に、志穂は息を呑んで立ち竦んだ。


       *

       

 最初に犠牲になったのは、絞首台のもっとも近くにいた兵士たちだった。

 おそらく彼ら自身は何が起きたのかも分からなかっただろう。兵士たちは弾けるように広がった大蛇の体に──黒い霧の中に呑み込まれてすぐ、意識を失って倒れ込んでしまった。倒れた彼らの体に、黒い霧が凝って泥のようになった小蛇の塊がまとわりつくのをラダは見た。

 霧の広がりは尚も止まらず、もう幾人かの兵士たちを呑み込みながら、ラダやリステスらのいる端の座席の方まで押し寄せてくる。まるで嵐の日の波濤のように。

 中庭の端にまでその波が到達するわずかな時間に、ラダはリステスらを押しのけて彼らの前に進み出た。そして叫んだ。 

「──力を!」

 杖に秘められた力と比べればごくわずかな、自らに宿る力を解き放つ。

 その力は怨念の塊に些細な影響を与え、流れを逸らし、ラダと彼の背後にいる数名の人間が波に呑み込まれることを防いだ。

 彼に行えたのはそれだけだった。

 力の及ぶ範囲から取りこぼされた誰かの悲鳴が響いた。しかし青年には振り返って確かめる余裕もない。吐き気と目眩は苦痛の域にまで達し、力を使うことによる疲労が彼の体に追い打ちをかけた。血の気の失せた白い額には冷や汗すら流れない。

 周囲はもはや完全に怨念の闇の霧に覆われていた。

 頭上に輝いていた青空すらもうほとんど見えない。おそらく、中庭全体が怨念の大蛇の身中に置かれているはずだ。ことによると、城内のその他の領域までも。

 青年と、リステスやグレアムを含めた数名の周囲だけは、かろうじて霧が及んでいない。

 それでも鼓動するようにうごめく霧は、時に青年の眼前まで寄せては引いていく。

「ひっ……」

 グレアムが呻くような悲鳴を上げて、鈍重な体を地面の上に預ける音が聞こえた。

 無理もない。今のラダたちは、海に突き出たごく狭い岩の上にいるようなものだった。少し気を抜いて荒波に足を取られたが最後、波に呑まれて沈んでしまうだろう。 

 怨念の影はあくまで実体のない、死霊よりもさらに曖昧な存在だ。普通、生者に対して強い害を与えるほどの力は持たない。自我がある分、憎悪と敵意に満ちた悪霊の方がよほど害がある。

 だが、蛇の姿を取るこの怨念の塊は違う。

 彼らは明らかに力を持ち、曖昧な霧にも、凝縮された泥にも形を変えることができる。彼らはどこにでも湧き、広がり、何であっても取り込んで溶かしていくだろう。

 そうして生者と死者の境界を犯し、この世のすべてを喰らいつくそうとしている。

(……いや、まだだ。まだ、間に合う)

 力の行使に耐えながら、唇を噛みしめる。

 霧に呑み込まれ、倒れ伏した兵士たちは、すぐに息絶えたわけではないように見えた。おそらくは胃液で溶かされるがごとく、今も少しずつ生気を奪われ、怨念の泥の蛇に喰われているはずだ。そしてやがては死に至るだろう──だが、何人かはまだきっと死んではいない。

「これは、あんまり面白いものじゃなさそうだね」 

 背後から奇妙なまでに落ち着き払った声が響いた。

 声の主である少年はラダの隣に進み出ると、腰に吊した剣を抜きながら、不思議そうな表情で周囲を覆い尽くした黒い霧を見回した。

 無論、剣がいくら鋭く研がれていようとも、怨念を払う力があるわけではない。

 リステスは片手に持った剣で鬱陶しそうに霧を払おうとして、その行為が無駄であることをすぐに理解したようだ。彼は剣を下ろすと、青年の顔を横合いから覗き込むように見つめた。

 端整な顔には、恐怖どころか不安の色すら浮かんでいなかった。むしろ、楽しそうですらある。

「君ならどうにかできる?」

「俺は竜ではない」

 口調を取り繕うことも忘れて、ラダは低い声で言い放った。

「ふうん、じゃあ、竜の力があればいいの? 竜の牙とか?」

「……あの、杖があれば。もう少しましな術は使える」

 だがこの状況で、礼拝堂の地下に隠されているという杖を取りに行く余裕はない。

「そう。なら、竜の鱗でもいいかな」

 王子が無造作に懐から取り出したものを見て、ラダは思わず目を見開いた。

 気の緩みからわずかに力が綻び、隙間から霧が近付いてくる。彼は慌てて集中を取り戻し、力を込めて霧を押し返した。

「杖をしまう時にちょっと邪魔だったから、箱から出したんだ。聖遺物っていっても、死人を呼び寄せるとか、不吉なことばかり起きるとか、色々言われて各地の教会を転々としてきたやつだからね。君がどう使ったって別に構わないと思うよ」

 集中を保ったまま、無言で片手を差し出す。その手のひらの上に、リステスは竜の鱗を置いた。

 青年の手に収まる程度の大きさで、硬く、ざらついたその鱗は不思議な色をしていた。黒のようにも青のようにも見え、かと思えば灰色のようにも、緑のようにも見えた。陽の光にかざせば、もっと多くの鮮やかな色彩に輝いてくれるだろうという気もした。

 ひやりと冷たい感触は、あの竜の牙の杖を思わせる。

 だが鱗から感じる力そのものは、杖とは比べ物にならないほど弱かった。

「どう使っても構わない、と言ったな」

「うん」

 ラダが迷ったのはほんの一瞬。一瞬の後の決断とともに、彼はその鱗に噛み付いた。わずかな力をあますところなく使うためには、体内に取り込むのが一番手っ取り早い。

 わあ、とリステスの呑気な声。

 固い鱗はあっさりとラダの歯に砕かれ、口内で跡形もなく溶けた。

 鱗一枚分をすべて砕くと、摩耗した力がふたたび満たされ、指のその先まで暖かな熱が灯ったような感覚が全身を駆け巡った。

 吐き気と目眩はまだ続いていたが、それらも大分楽になったようだ。ラダは一つ息を吐いた。

「それって食べるものなの?」

 王子に向かって理由を丁寧に説明することはしない。代わりに青年は得た力を込めて呪を唱えた。

「──竜の船守が一族の末裔、ラダの名において命じる。摩耗し、形をなくした、死者の魂たちよ」

 響いた声は、リステスにもグレアムにも、他の従者たちにも聞こえただろう。アーフェルの言語とは異質な古い言葉を理解する者がいるかどうかは知らないが、そんなことを気にしている状況でもなかった。

 呪文の形で示された意志と力は空間に伝わり、ラダたちを取り囲む霧をわずかに押し返した。

 最初の範囲から取りこぼされ、倒れ伏した人々の何人かが霧の中から現れる。少なくとも彼らにはまだ息があるようだが、ほとんど例外なく青ざめた顔で、かなり衰弱している様子だった。

 中には顔に傷跡のある騎士団の男もいたが、彼の足元にまとわりついていたはずの死霊たちは姿を消していた。怨念の蛇に喰われ、取り込まれてしまったのかもしれない。

「ダグラス、大丈夫? 大丈夫じゃないかな」

 リステスが男に近寄って、苦痛に歪んだ彼の顔を覗き込んだ。

 他の無事な従者たちもそれを見て我に返ったのか、慌てた様子で倒れた仲間たちを介抱しようとしはじめる。元々城の住人ではないグレアムは、その場に座り込んだまま忙しなく視線を彷徨わせていたが、一瞬ラダと目が合うと、怯えたように呻いて視線を逸らした。

 青年は気にせず、さらに少しずつ周囲に満ちた怨念を押し返そうとした。しかし押し返す範囲が広がれば広がるほど、反発も強くなる。やはり、鱗に残っていたわずかな力だけでは足りない。

(せめて、杖があるというあの礼拝堂への道だけでも……だが……)

 こうしている間にも、一旦満たされた力は少しずつ磨り減っていく。

 焦りの中で、ラダは唇の端を噛みしめた。

 

       *


 濃い闇の霧──おそらく以前見た怨念の蛇の一部なのだろうそれらは、礼拝堂の間近にまで迫り来ていた。すぐ近くにあるはずの回廊もすっかり霧に覆われて、柱の一本も見通すことが叶わないほどだ。おまけに霧はさらにじわじわと広がり、礼拝堂の中にまで侵入しようとしている。

 井戸の底の暗闇に引き込まれる前、地下室で見たものと似たような光景。だが、今回はごく限られた地下の一室だけの話ではない。そのことが尚更志穂の恐怖を煽った。

(なんで……こんな……)

 あの怨念の蛇は、ついに古井戸の巣穴から這い出てしまったのだろうか。そして今度は、この城全体をその腹の中に収めようとでもいうのだろうか。この世のすべてを呪う声を撒き散らしながら。

 両手で杖をきつく握りしめ、胸の中に抱き寄せる。

 そうすると、戸惑い混乱する頭の中が次第に落ち着きを取り戻していくのを志穂は感じた。

 この杖が志穂の依り代だから、だろうか。実体のない死霊の実体ある宿り木だから、志穂が自分を保つことを助けてくれるし、無意識のうちに安心を与えてくれるのかもしれない。

「……どうやら、とうとうこの城そのものを喰らい尽くしはじめたようだ」

 こんな光景を前にしても、騎士は冷静だった。彼は志穂を見下ろして静かに言った。

「異国の娘。そなたは、その依り代の杖があればどこへなりとも逃げられるだろう。早く──」

「でも」

 志穂は反射的に声を上げた。

「でも、この城のどこかには、ラダがいるはずなんです」

 彼はきっとまだリステスの傍にいて、従者の真似事をしているのだろう。影に近寄られただけであれだけ気分を悪くしていた青年が、怨念に浸食されかけている城内で平然としていられるはずがない。

「この杖はラダのものです。ラダは死霊術士で……杖があればこの状況もなんとかできるかもしれません」

 それに何より、志穂は契約を交わしたのだ。確かに彼と約束した。〈果て〉に辿り着くまで決して離れずに付いていくと──杖を持ったまま一人でどこかへ行ってしまうようなことはしないと。

 リステスに杖ごとこの城へ連れてこられたことで、志穂は結果的に約束を一度破っている。今、城から一人で逃げ出そうとすれば、今度は二度目だ。

 すがりつく少女の背を優しく撫でながら、すまないと呟いた青年の声が脳裏を掠める。

「だから、私、ラダを……ラダを探しにいきます」

 そう言って、志穂は杖を抱えたまま礼拝堂の外の方へ向き直った。

 途端に視界のほとんどを占領する、濃い闇の広がる光景に身が竦む。だが、志穂は杖を握る手に力は込めても、踵を返そうとは思わなかった。

「……そうか。そなた自身が望むなら止めはせぬ」

 騎士は青い目をわずかに細めると、志穂に道を譲るように身を引いた。

「その意志があれば、怨念を振り払うこともできよう」

 感謝の意を込めて、志穂はこくりと頷いた。そして礼拝堂の外へと足を踏み出そうとして、

「おっと、そんな杖抱えてどこに行くつもりだ、嬢ちゃん?」  

 眼前の闇の中から聞こえてきた軽薄な声に、行く手を遮られた。

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